修行人、29年目の狂想
(※めちゃ長いです。)
脳神経外科実習もあと1ヶ月も経たないうちに終わる。
GWはゆっくりと自分を見つめる期間だった。
今回はこれを読んでくれている人に向けて私のこれからの展望と思いを吐露しようと思う。
これを見て何か参考になれば嬉しいし、私は自身への自戒を込めた記事にしようと思っている。
この記事を書こうと思ったきっかけは、、、
GWに入る前、最後のオペレーションカンファレンスでのこと。
実習生のミッションは毎週オペの内容をその患者さんがどんな主訴で来院し、現病歴、既往歴、手術内容(スケッチをし、使った器具、どんなオペの手順などかを全てまとめる)、その後の経過、担当疾患のまとめ、考察、ガイドライン引き、疾患に関する論文をPowerPointにまとめて発表をすることである。
一学年下のbasic courseの人と一緒にやるわけで、必然的にadvanced courseの私はよりレベルの高い発表内容が求められる。当てられる症例も手術の難度が高いもので、症例数も倍である。
その日の症例は
「頸動脈狭窄症に対する内膜剥離術」
で、私は考察部分で脳卒中ガイドラインを引用してその編集長である自分の大学の教授の名前をスライドに載っけて最大限にクレジットした。
プレゼンを終えた後、教授は満面の笑みを浮かべて
「今日は特別に僕のプレゼンをします。」
と仰った。
ワクワク、ドキドキ。
なぜって、、、
私が脳神経外科をadvanced courseに選んだのは、脳神経外科という学問が大好きであること、そして、おそらく一番忙しい科あろう脳神経外科で働き続ける人のモチベーションが知りたかったから。
その答えが聞けると思った。
タイトルは
『研修医32年目の狂想』
だった。
なぜ、医師になって32年たった今でも年々オペ数を増やし、医療機器を開発し、Lancetをはじめとする爆発的な数の論文を書き、教科書を出版し、ガイドライン編集長をし、日本脳卒中外科学会会長までしてさらにより高みを目指して頑張れているのか。
さらに、恐ろしいのは10年前と比べて、教授の執刀数も論文数も保有病床数もうなぎのぼりであること。
その極意を教えてくれた。
それは
「自己実現と社会貢献」
脳というものを通しての自己表現。そしてそれは同時に社会貢献でもある。
と。
あまりにもシンプルかつ明解で私は思わず一瞬唖然とし、間をおいて深く頷いた。
そして、どうして脳神経外科に進んだか。
それは匠の手と呼ばれる上山博康先生と出会い、半ば刷り込みのように、師弟関係となり、脳神経外科の世界にいざなわれた。
と。
(※詳しくは、プロフェッショナル 仕事の流儀 脳神経外科医 上山博康 『医者は人生を手術する』を参照ください。)
この32年間は脳神経外科という学問を愛し、辛くてやめてしまおうかなと思うことは何度もあったけれど、脳に対する知的好奇心とその想いがここまで導いてくれた。
と。
そして、色々なエピソードも交えてお話ししてくれた。
国立循環器センターでの1年がneurosurgeonとneuroscientistを志すキッカケになったこと。現地の大阪のしきたりにタジタジになったこと。
クイーンが大好きで狂想と狂奏をかけてこの発表のタイトルにしたこと。
3年にわたる北欧留学で家族と結束を強くしたこと。
ダメダメな後輩の尻拭いしたこと。
師匠の天才的なオペの美しさ。おそらく世界一の腕であること。
NIRS(脳の酸素パルスオキシメーター)の発明と開発、特許取得、複数の会社を起こしたこと。
ラボを立ち上げるまで、そして研究のためのお金を集めようと奔走したこと。
などなど。
感動のあまり途中で何度か涙した。
泣くところを見られまいと教授に背を向けながら。
先生は脳が大好きで、脳神経外科医として生きる自分を愛しているのだと。
私は感じとった。
そして、、
この特別発表は少なからず何か伝えたいことがあっての発表だと思ったから、その後、私は自分について考えた。
今年29歳になった。
現在、医学部6年。
編入組である。
初めは父親が歯科医師なこともあって歯学部に入った。
父親からは「継ぐクリニックがあって、まじめにやっていれば食いっぱぐれることもないし、お金もそこそこ手に入って、なんかあれば助けられるし、いいぞ。」
と言われて、大学受験勉強も手を抜いた。
これも自己責任。
私は、自分を律せられず、易きに流れたのだ。
医学部も受けたけれど全部落ちて、歯学部行きになった。
現役を優先的に取ってくれるという順天堂は補欠だった。席は回ってこなかった。
歯学部は首席合格だった。
どこかしこりが残るようで、浪人させてくれと懇願したけれど、女の子だからという理由で歯学部行きになった。(もちろん親心で茨の道を歩ませたくないという意味もあったと思うが。)
今となってはここで歯学部に行ったことがどれほど今の私のアイデンティティを作ってくれただろうかと、その時の自分に、「君の選択は間違っていない。」と言ってやりたい。
当時は、医学部へ行けなかったけど、開業医を継げるし人生あがり。だとどこかで自分を納得させていた。
後に、、、
それは大きな間違いだと気づくことになる。
それまで、本腰が入っていなかったものの、塾は4つ行かせてもらい、勉強漬けだったので、それなりに遊んでみた。
競技スキー部に所属し、湯水の如くお金を使った。合宿と称して全国津々浦々を巡った。ヨーロッパ圏もアジア圏もたくさん旅行した。学校の勉強も日本の学校だということもあり、それなりに大変だったかもしれないが総じて私にとっては茶番劇だった。成績は勿論ほぼ秀だった。どこかロボットのように処理するようなところがあった。
怪しい不動産屋さん達とかとつるみ、夜な夜な六本木や新宿を周り、銀座の高級クラブに行き、高級ホテルをまわり、調子にのってマクラーレンやランボの試乗会に行き、スーパーカーの集う辰巳PAや代官山の芦屋書店をうろつく。
そんな日々だった。
どこかで、虚無感を感じながら、、、
そして、この辺でやっぱり私は自分に納得いっていないことに気づいた。
よし、絶対に医学部に行こう。
私は歯科医師国家試験が終わり、研修歯科医をしながらトイレのダフトに教科書を隠し、同僚に医学部に行くことをバレないようにしつつ、勉強を始めた。
仕事をやりながらはめちゃくちゃ大変で睡眠時間は週を通して全部で10時間くらいだったが、、、、
これが、本当に楽しかった。
これから始まる新しい人生にワクワクしていた。
そして結果的に、3ヶ月で編入が決まった。
そんなこんなで医学部に編入し、あれよあれよという間に今年6年生になった。
その間に本当に色んなことをした。
楽しいことも辛いこともあった。
ロボットのようだった前の大学とは大違い。
そして、今度の大学での学業は秀からは程遠い成績である。
脳神経外科をまわって気づいたこと。
それは、、、
私はどうやら自分に納得したいのだ。
何かを通して社会に向けて自己表現がしたい。そして、それが社会のためになるなら尚良い。と思っている。
今の展望としては、卒業後、研修医2年を日本でやり、その間に米国医師免許を取得し、3年後頭頸部領域でアメリカでレジデントとして働くことを考えている。
米国の顎顔面・頭頸部レジデンシーは4年で、歯科医師の免許でも医師の免許でもアプライできる。つまり米国医師免許さえあれば、ダブルライセンスでアドバンテージがあるかもしれないと密かな期待を寄せている。
本当は脳神経外科レジデンシーがかっこいいなと思うが、脳神経外科はまさかの7年間。
こんな恵まれた環境が揃っているのだから日本で脳神経外科に進むのもいいかもしれないが、私はやっぱりアメリカで働いてみたいのだ。
大変に決まってるし、茨の道かもしれないし、その前に卒業試験や国家試験が待っていてそちらも怖いが、、、
恐怖や不安に勝るやりたさが今の私にはある。
今度は損得とか打算なしに、人生の選択ができている気がする。
お金も大事だが、それ以上に人生という限られた時間をお金を稼ぐのに費やすのではなく、色々な経験に使いたい。
そして、心の大富豪になりたい。
以上、
長い長い振り返りとmission statement でした。
読んでくださった方々はどうもありがとう。
私の失敗談やこれからの展望が何か皆さんの刺激になれば嬉しいです。
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