交わることのない世界


先日、京都から友人が来てくれた。

その友人は、以前とあるプロジェクトのプログラミングでアイデアをもらったとことがきっかけで、

趣味の美術とカフェ巡りが共通することもあって、たまに連絡をとる仲である。



研修医をやっているその友人は、金沢に行くついでに帰りに私の近所に寄ってくれた。

私の日々のルーティーンでもある、

大好きな珈琲屋さんとお肉屋さんとお菓子屋さんと、

大好きなガラス工芸とパン屋さん、

カレー屋さんを案内した。



お互いのこれからの進路や目標、現在位置などを確認しあった。



そして、

満足してくれたようで、無事に帰路に着いた。





私にはここからの方が心の旅だった。


その友人は京都への帰路の中で思い出したように、

そういえば、、、

『こころとからだをたいせつに』

読んだよと。

教えてくれた。  



私の素直さとか諸々伝わってきたことと

そして、、、


きっちりしている人の世界と
ゆるゆるの人たちの世界って交わることはないのだなと感じているし、
誰がどっちかって傍目にはよくわからないものなのだなって感じてる


と書かれていた。



私はハッとした。


私は自分がきっちりしてるとは微塵も思っていないけれど、

まさに、私がどこかでわかっていたことを簡単にひとまとめの文にしてくれていたから。



私はおそらく、長い間お世話になった先生と

どこかでわかり合いたかったし、

どこかでわかり合える日はやってくると思っていたけれど、

もう、それは来ない。


おそらく永遠に。

どこか落とし所を決めるしかないのだ。

もしくは、

赦せる日が私と先生にやって来ない限り。





当時、私は研究室に毎日通っていた。

授業が終わる17時から日によっては22時くらいまで話したこともあった。

先生は家族と過ごしている時間よりずっと長いと言っていた。


そして、あんなに時間を過ごした先生は私の理解不能な世界を生きていることにある程度して気づき、私はもう人と時間をかけて親交を深めることに億劫になったのかもしれない。


と再確認したのだった。



私が今日みた空は他の人の目にはどう映っているのだろう。

おそらく、違う景色なんだろう。

あの人が言う綺麗と私の綺麗は違うのだろう。


共感、、、

共感なんていうものはどこまでできるのだろう。

自分の気持ちの当てつけにしかすぎないのだろうか。




それでも、

自分だけの世界は悲しいなと、、

思った一日だった。




いつかどこかでわかりあえる誰かと会ってみたい。



いつかね。

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