上井一輝の誕生〜小学生
誕生
1987年7月28日、島田市の病院で生まれ、サッカーの御三家である藤枝市で育ちます。
藤枝市は、サッカーのまちづくりを行政が推進しており、サッカーにおいて凄く開かれたまちです。
そんなまちで育ったからこそ、サッカーを通じて、かけがえのない仲間と出会うことが出来ました。
藤枝市、最高です。
幼稚園入園
周囲の人たちと同じが良いという気持ちが強かったからか、周りの同年代の仲間と同様に、親と離れる際、とりあえず泣き叫んだのを覚えています。ただ単に不安だっただけかもしれませんが(笑)
サッカーの街ということもあり、当時、幼稚園にゴールがありました。
幼稚園に着き、カバンを置いたら、すぐに外に出て、みんなと一緒にボールを追いかけていました。
幼稚園が終わってからも、幼稚園に再び舞い戻り、ボールを蹴っていました。サッカーがやりたくてたまらない気持ちが抑えられず、幼稚園の入り口に鍵がかかっているときは、壁をよじ登って入っていました(笑)
田んぼや駐車場、河川敷のようなところでも蹴っていました。
特に田んぼでやるサッカーは面白かったです。地面がボコボコしているので、ボールコントロールが非常に難しく、それでいてそこからある学びが楽しく、日が暮れるまで蹴っていた記憶があります。当時は、用水路のところにザリガニや蛍がいたのですが、今は見る影もなく、時代の流れを感じてしまいます。私もだいぶ歳をとりました(笑)
小学校入学
1年の春〜夏くらいにスポーツ少年団に入団しました。両親にどうしてもやらせてくれと懇願したのを今でも覚えています。
私が入っていたスポーツ少年団は、週5〜6日で練習や試合がありました。
低学年の時はボールを蹴れているだけですごく楽しい印象しかありませんでしたが、歳を重ねるにつれ、段々と練習もハードになっていきました。
サッカーのみならず、日常生活の礼節も非常に大事にする少年団でした。この経験は今でも凄く活きています。
ただ、繰り返しになりますが、練習が本当にハードでした(笑)
私達の小学校は、身体能力に富んだ選手が2人いたので、まあまあ強い部類に入ったのではないでしょうか?
え?私?私は小学生時代の石崎くんみたいな感じでした。笑
ただ、キックのミートだけは自信がありました。どのようなボールでもミートできました。たとえ宇宙からボールが降ってきてもミートできたでしょう。
そして、小学校の時から汗かきでした。
夏場の罰走の際に、監督から1人だけ汗だくで頑張っていると解釈していただき、逃れることが出来るなど、当時の私にとっては、まさに、天から受けた素晴らしい産物でした。
そんな小学生における私の三大事件があります。
①小学生1年の時に車にはねられる
自転車で爆走していたら、急に右から車が来ました。カーブミラーには映っていないように見えたのですが、私の見間違いだったのか、凄い衝撃が右側に走りました。
気づいたら10mくらい吹っ飛んでいて、びっくりした後、すぐに立ち上がり自宅に駆け込みした。
…はい。無傷でした(笑)念のため、病院に行きましたが、異常なし。当時は、車の運転手さん含め多くの人にご迷惑をおかけしました。
がしかし、フィジカルの強さに確信を持てた事件でもありました。嘘です。笑
②右耳で音を聞き取れなくなる
小学4年生くらいの時でした。
いつもの様に電話に出たら、全く音が聞こえない。
なんだこれ?迷惑電話か?と思い、そのまま受話器を耳にあててましたが、変化なし。
これは電話がぶっ壊れたと思い、母親に確認したところ、逆に私の耳がぶっ壊れていることが発覚。電話は機能していたんです。疑ってごめんなさい、電話さん。私の右耳が機能していなかったのです。
即座に病院へ行き診断を受けました。
結果、右耳はもうダメでした。左耳は聞こえて日常生活に支障はなかったので、左耳もダメになったらまた来てみたいなことを言われて、帰宅。
母親も楽観的な人でしたので、特に気にせず、また普段通りの生活に戻りました。
父親もそこまで気にすることはなかったかと思います。
③小学生最後の大会で股関節剥離骨折
忘れもしません、2月14日でした。
県大会ベスト8をかけた試合の開始5分、フリーキックを蹴った際に、股関節の何かがなくなり、体がストーンと崩れた感覚がしました。そこからは何をしても激痛です。ただ、父親からちょっとのことで痛いっていうなって言われていたのと、最後の大会でしたので、歯を食いしばって最後までプレーし、チームは勝ちを手繰り寄せることが出来ました。
その次の試合も出たく、アップも参加しましたが、もうプレーできる状態ではなく、仲間が監督に言ってくれ、そこで初めて診ていただき、練習、試合も断念。
私の小学校のサッカーは、ここで終了しました。
2月14日がより一層忌々しくなったのは、言うまでもありません(笑)
ここから、再びプレーするのに半年を要することになりました。そして、悟りました。気持ちでどうにかならないこともある。悔しい気持ちや悲壮感でいっぱいでした。自分が積み上げてきたものが一瞬で崩れてしまった感覚でした。すごく辛かったのを今でも覚えています。
多くの仲間がこれからの進路にクラブチームを選ぶ中、失意のドン底にあった私は、試験がないクラブチームに行くことも考えられず、ただ身を任せて、地元の中学校のサッカー部に入ることにしました。
ちなみに、小学生6年時の文集に書いた夢は、
「普通に暮らす」
でした。(笑)
これにも色々ワケがあるんです。また追々綴ります。
最後まで読んだいただき、ありがとうございます!