1930's 激動の時代に求められたもの
前回からだいぶ経ってしまいました…。気を取り直して頑張ります。
さて、今回は1930年代のファッション研究です。
(前の記事から読んでもらえるとうまく繋がります)
再び求められる女性らしさ
1930年代の幕開けは、何と言っても世界大恐慌。その影響はファッション業界にも大きく及ぼしました。パリのオートクチュール(=高級仕立て服・その店)のお得意先だったアメリカが経済対策として高い関税をかけ、パリからの輸出ができなくなってしまったのです。また、30年代後半には第二次世界大戦が勃発し欧米も日本も戦時体制となり「贅沢は敵!」「お洒落は敵!」とされ、ファッションビジネスにとって大変厳しい時代になります。
大恐慌後のパリでは、小売りやサービス業が発展し若い女性の雇用が拡大します。そして、彼女らの職場の服装で求められたのは、動きやすさではなく、なんと新しい女性らしさでした。女性らしさと言っても以前のコルセットを着た時代に戻ると言う訳ではなく、女性らしい印象を与えるフリルやフレアなどが特徴的な服がトレンドになったのです。
(とはいってもこの頃には映画やファッションの情報が大衆に届くようになり、女性のファッションの幅は広がったようです。スポーツやリゾートの場面では、20年代に引き続きパンツルックが流行しました。)
仲良くなれない3人の女性デザイナー
その女性らしさを存分に表した服が、イヴニング・ドレスです。イヴニング・ドレス?といっても私ははっきりとイメージできませんでした…。
イブニングドレス(英: evening dress)は、女性の夜間の正式な礼装。夜間(18時以降)の集会、観劇、晩餐会などで着用され、夜会服(やかいふく)とも訳される。※Wikipediaより
その代表格となるデザイナーがマドレーヌ・ヴィオネです。写真の通り、身体に沿ったラインと大きく開いた胸元部分が女性らしさを強調していますね。
このイヴニング・ドレスですが、調べてみると時代によってデザインやシルエットを変えながら進化したようです。
(お馴染みオードリー・ヘップバーン。1954年の映画『麗しのサブリナ』でジバンシーがデザインをしたイヴニング・ドレス。色は白黒ですが、細か刺繍が華やかさを演出しています。)
そんなヴィオネを「魔女」呼び敵視していたのが、ココ・シャネルです。シャネルは、トレンドに乗っかり女性らしいドレスを発表しました。この時代のシャネルの画期的な発明は、服の色に肌色を使うということ。肌と同じ色を使うことで着る人をよりすっきりと見せる効果を出したのです。
そんなシャネルを初めて脅す存在となるのが、イタリア出身のデザイナー、エルザ・スキャパレリです。スキャパレリは、まさに「ファッション界の芸術家」。とにかく意外性を求めた斬新なファッションが特徴的です。
(1927年に発表した「トロンプルイユ(だまし絵)」セーター。今でもたまにだまし絵の服は見ますよね。編み方でこんなにグラフィックなデザインになるとは、当時衝撃的だったに違いありません。)
また、スキャパレリは“ショッキングピンクを生んだデザイナー”としても有名です。このようなスキャパレリのデザインは、パリモードに波紋を及ぼしました。 その一方で、彼女のデザインを受け入れ支持したのはアメリカでした。その後スキャパレリはアメリカで知名度を高め、成功したのです。
パリモードと“アメリカ”
では、なぜスキャパレリのファッションはアメリカに受け入れられたのでしょう。それは私たちのイメージする通り、固定概念に縛られない「自由の国」だからです。恐慌後、すさまじい発展をしたアメリカでは、スキャパレリの大胆で色彩豊かなデザインが多くの富裕層に歓迎されました。
ここで、パリ・モードとアメリカの関係を見ていきましょう。最初にポール・ポワレが広大なブランド市場として目をつけましたが、”コピー製品” “大量生産”といったいわゆる「アメリカ商法」に憤慨しました。それまでのパリでは「ブランド」という概念もなく、顧客(昔は貴族ありき)一人一人のサイズに合わせ仕立てていたのですから、怒るのも当たり前ですよね。それに対してアメリカ商法に憤慨するどころか肯定し、自らのビジネスをさらに拡大させたのがシャネルです。1929年、シャネルは「リトルブラックドレス(LBD)」を発表しました。
(イヴニング・ドレスと同様、時代を超えて愛されているドレスです。オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』でも有名ですね。またこのシンプルで真似をしやすいデザインは、自動車の大量生産で初めて成功したアメリカの「フォード車」に似ていることから、「シャネルという名のフォード」と呼ばれました。)
新時代ファッションの舞台“アメリカ”
このようにやはり流行の最先端はパリモードであり、あくまでもアメリカはその影響下にある存在でした。しかし、1930年代からアメリカでは“アメリカンカジュアル”とも呼ばれる大衆のための服が次々と生み出され、世の中に浸透していくのです。
そのアメリカンカジュアルの代表とも言えるのは、ジーンズでしょう!探鉱者ための労働着をファッションというイメージに変えたのは、あの有名なリーヴァイスです。
ジーンズと言えば、藍染めのブルーデニム。でも、なぜ藍染め生地が使われたのでしょう?
仕立て屋だったジェイコブ・デイビスは、過酷な労働に耐えるズボンをつくるよう依頼を受けます。その生地(ホワイトのズック地)を当時綿織物ビジネスをしていたリーヴァイ・ストラウス社から購入したのです。そして、その生地を使いリベット(銅製のびょう)を前後のポケットに付けた作業着は大反響を呼びます。デイビスのもとに注文が殺到し、その注文をこなすうちにズック地が足りなくなり、ブルーのデニム地を使うようになったのが始まりだそうです。
(これがリベットです。これがジーンズの強度を支えているのです。)
その後、リーヴァイ・ストラウス社は衣料生産部門を立ち上げ、その生産監督にデイビスを任命します。これが今のリーヴァイスジーンズの誕生でした。
そのリーヴァイスジーンズが幅広い層にファッションとして浸透するきっかけの1つが、ハリウッド映画です。この時代には西部劇、いわゆるカウボーイの映画が大流行します。その影響に相まってアメリカ西部の牧場は、西部劇を体験できるようなテーマパークと化し、そこでは女性でもジーンズをはいていたそうです。
そして、女性向けのカジュアルファッションを生み出した代表的なデザイナーが、クレア・マッカーデルです。スポーツウェアや労働着をヒントに、シンプルかつ機能的なドレス次々とを発表し、人気を得ました。どれも働く女性のための、着やすいリアルクローズだったのです。
(ウエスト部分がキュッとしていて女性らしさもあり、動きやすさも抜群。マッカーデルによって女性のカジュアル化はさらに進化するのです。)
当時、アメリカが圧倒的な軍事力を見せつけていた第二次大戦では、軍服系のアイテムも注目されました。ボマージャケット、オーバーオール、カーゴパンツ…これらは今でもカジュアルファッションとして定着していますよね。
モンペとファッション
最後に、日本に視点を変えましょう。日本では、もちろん戦時中なのでファッションどころではありません。しかし、それまで一般的だった着物は贅沢品とされていたので、その時代に適した女性服のアイデアを募集しました。そこで採用されたのがモンペです。上着とモンペの組み合わせは、洋服の原型となりました。これは服の現代化という世界の動きの中では、日本は孤立していなかった証だったのです。
つづく
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