「記憶にない」 2017.7.23
※ひと月前の、朝日新聞2017年6月22日付に、〈「記憶にない」ことこそ記憶〉という面白い見出しの、生物学者・福岡伸一氏のコラムが載っていた。このごろ政治報道でよく目にするようになった「記憶にない」という弁明について、深く考えさせてくれる内容だ。【】は傍点。太字と()は引用者。
〈(前略)記憶は物質ではなく、脳細胞と脳細胞の【あいだ】にある。シナプスで連結されてできた脳細胞の回路に電気が通るたびに「生成」されるのが記憶だ。/昨夜、飲んだ後、どのように帰ったのか思い出せない。こんなことがある。前後の状況を結ぶ回路はあるのに、真ん中の線に電気がうまく通らないのだ。「記憶にない」ことは、実は前後の記憶があるからこそ認識できる。記憶にないことこそが記憶なのである。欠落は、欠落を取り囲む周縁(しゅうえん)があって初めて欠落とわかる。/だから「記憶にない」のは、記憶があってしかるべきなのに、うまく思い出せませんという、一種の二日酔い状態であることを告白しているにすぎない。あるいは、実は記憶にあることを、うそにならないよう言い繕(つくろ)うときに使うための見え透(す)いた方便でしかない。全く身に覚えがないことなら、端的に「やっていません」「言っていません」といえばすむことである。〉
※国政の問題であれ、家庭内問題であれ、「耳が痛い」と感じる読者も多かろう。加計学園問題も、森友学園問題も、陸上自衛隊の南スーダンPKO「戦闘」日報問題も、肝心のところで「言った」「言わない」の無限応酬になったが、福岡氏のコラムは、これらの問題のクリアな解説になっている。
クリアに解説された物事が、クリアな解決に至るとは限らないのだけれども。