【読書の前に】「巻物」から「綴(と)じた本」へ
▼〈背表紙で綴(と)じた本の形態は、ふだん意識されないかもしれませんが、実は革命なんです〉という書き出しが面白い。9月27日付朝日の「リレーおぴにおん」。英ケンブリッジ大学トリニティーホールの古図書館館長をつとめる時枝正氏のことば。
〈紀元前に彼(ヘロドトス、引用者註)が書いたときは、パピルスの巻物でした。東洋の司馬遷も竹簡の巻物に書きました。巻物の場合、書く前に全体構想が頭の中でできあがっている必要があります。ページを行ったり来たりして書き直すことは容易ではありませんから。その構想力たるや、たいしたものです。/本という形になったおかげで、ページのどこへでも瞬時にアクセスが開かれ、書く人にも読む人にも、時間軸が見やすくなりました。いわゆる検索もできるようになりました。〉
▼人間の意識が変容したら、「その後」を生きる人々は、「その前」に生きた人々が、何を、どう、考えていたのか、永遠に理会(りかい)できなくなる。つまり、「革命」があったこと自体に気づかない。
しかし私たちは、ある時代の本を読むことで、どうやらその時代と現代との間には大きな「革命」があったらしい、と気づくことがある。さらに、巻物以前の時代にまで、さかのぼり、先人たちの世界観について想像し、推定することもできる。
もっとも、巻物以前にまでさかのぼらなくても、「近代」と名付けられた時代の前後を、ほんの少し意識するだけで、ずいぶん色んな物事に気づくことができる。
〈目もくらむような長い長い時間のなかの一点に、自分たちはたまたま生きている。そんな時間軸への意識が生まれ、現在を相対化したのが、ルネサンスの意義の一つでした。人生は短く、時間を超えてつながろうとすれば書くしかない。本はその媒体であり、象徴でもあります。〉
▼ほんとうに大切なことは、いつも、言葉にした瞬間に、言葉という器――書物という器――から零(こぼ)れ落ちてしまう。しかし、言葉を使わなければ何も残らない。何かが時を超えてつながることは絶対にない。だから「書くしかない」。
人生の時間を超えて、何かをつなげよう、何かにつながろうとしている切実な本だけを、その著者が生き抜くために「書くしかなかった」――たとえばダンテの『神曲』のような、ニール・シーハンの『輝ける嘘』のような、石牟礼道子の『苦界浄土』のような――本だけを読んで過ごしたいものだ。けれども、そうした本の価値をかみしめる力を鍛えるためには、様々な本を「読むしかない」。天才以外は。
「巻物」から「綴じた本」へと技術革命が進んだことによって、人間は「自分自身と対話する力」「他者と対話する力」を強めたのだろうか? 弱めたのだろうか? この問いに答えるために、読書はおそらく必要条件だが、十分条件ではない。
(2016年9月28日(水)更新)