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感染症対策を「経済」の大臣が仕切ることに日本では疑問を持たれない件
▼何度か書いたが、やはり違和感がある、というより、違和感が強くなるばかりなので、メモしておく。2020年6月14日付の日本経済新聞1面から。適宜太字。
〈連絡先1カ月保存/人同士の距離2メートル/接待伴う飲食店に指針〉
〈西村康稔経済財政・再生相は13日、夜の繁華街で営業する接待を伴う飲食店など3業種の感染防止策の指針を公表した。客に連絡先の届け出を求めるほか、店内での人との間隔はできれば2メートルを確保する。19日に営業自粛の要請を解除する。
指針は業界団体がまとめたもので、キャバレー、ホストクラブ、スナックなどが対象となる。ナイトクラブやライブハウスにも同様の指針を示した。〉
▼なぜ、経済財政の再生を担当する人が、コロナウイルスの感染防止策を仕切っているのだろう。感染防止のためなら、当たり前だが、厚生労働大臣が担当するのがスジではないのだろうか。
これは、西村氏や総理大臣の安倍晋三氏の対策の手腕を問うているのではない。あくまでも構造の話であり、ある構造を受け入れて疑わない人々の思想の話であり、人々が無意識に受け入れている原理は何か、についての話である。
▼東京では病み上がりの街が少しずつ動き始めた。感染防止は目的ではなく、何かの手段であることを、少しずつ社会の側が思い出し始めている。では、「国としての」目的は何かといえば、掲げている旗に書かれているのは、あくまでも「経済と財政の再生」なのである。
つまり、「国民の生命を守る」ことが、第一の目的ではない、のかもしれない。「国民の生命を守る」こともまた、「経済と財政の再生」のための手段かもしれない。
個人が1万人ほど死んでも、国際社会において法人として振る舞う国家は死なない。法人の生き死にから見れば、個人の生き死にという案件は圏外にある。
だから、政治家は、国民の命を絶対に守り抜く、と言い続けなければならない。それは、偽善でいいのだ。偽善が希望になる歴史の瞬間を、人間は何度も経験してきた。偽善を最後まで貫けば、それは偽善ではない。善になる。
国の政治家に求めるべき美徳は、偽善なのである。
▼コロナの流行が長引けば長引くほど、「感染症対策」を「経済」の大臣が仕切っている違和感は大きくなるだろう。具体的には、「要請」と「生活補償」との激しい落差が、ますます露わになるだろう。
この違和感は、少し前だが、一瞬、いくつかの新聞が触れていた。そうしたニュースとしての扱いも含めて、西村氏による感染症対策は、結果的に、日本という国が経済第一主義であることを雄弁に物語っている。
(2020年6月14日)