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「薬物依存」をなくすための、清原和博氏のお願い

▼2019年6月23日付の朝日新聞に、「薬物依存 どうすれば」という見出しで、清原和博氏のインタビューが載っていた。(大岩ゆり記者)

若い頃から自分は「二度死ぬ」と考えていました。野球人生と、その後の人生においてです。〉という、この冒頭の一文から、清原氏には過度なストレスがかかっていたことがわかる。適宜改行。

〈薬物依存の後遺症で患ったうつ病の治療は思うように進んでいません。今も感情に波があり、3歩進んで2歩下がるという状態です。自分自身に「過去を受け入れ前を向いて歩いていくしかない」と言い聞かせています。

 何年かかっても立ち直り、社会復帰したい。体験者の一人として少しでも、薬物で悩む方の役に立てるようになりたい。いつの日か、野球を通じて子どもたちに何かを教えることができればとも願っています。

▼この箇所で筆者は涙が出てしまった。清原ファンなのでね。

▼いちばん重い一言は、この直後の〈逮捕前は、誰にもSOSを出しませんでした〉というところだ。

依存症は、種類によって程度の差はあれど、「否認の病」であり、「孤立の病」である。

誰にもSOSを出さない人が、「強い人」では決してないのである。

「自立」とは、「頼る先がたくさんある」ということだ。

筆者は清原氏を応援する。

▼清原氏は、〈周りの方は、お願いですから、しかったり怒ったりしないでください〉と語る。

依存症の当事者にとって、「自己責任」論という名の、浅薄な「自己満足」は、百害あって一利なしである。この道理の通じなさ、残酷さは、現在の日本社会では、当事者でないとわからないような構造になっている。

依存症の問題について、日本社会は、とても冷酷な社会だといえる。

▼清原氏のインタビューとあわせて載っているのが、依存症治療の最前線にいる松本俊彦氏のインタビュー。依存は「犯罪」である、という考えではなく、依存は「病気」である、ととらえる「良識の人」の一人だ。

松本氏の考えは、これまで何度か紹介してきた。たとえば、

▼〈薬物による健康問題道徳問題を混同した薬物乱用防止教育により、薬物を使った人はあっち側の人といった偏見が、子どもから大人にまで刷り込まれています。

こんな雰囲気では、薬物の悩みを誰にも打ち明けられません。医療機関や行政機関に相談したら警察に通報されるのではないかと恐れ、治療も受けづらいのです。

まずは薬物について安心して正直に話せる場を社会にたくさん作ることが重要です。

こうした松本氏の意見を、生理的に拒否する人も、おそらくいるだろう。気の毒なことである。どう感じるかは人の自由なのだが、〈薬物使用者を排除する社会は、マイノリティーを切り捨てる社会です〉という松本氏の意見に筆者は同意するから、黙ってはいられないわけだ。

薬物は「ダメ、絶対」という意見の人が、「それはマイノリティーを排除する社会につながる」という意見を、論理的に受け止めることができるかどうか。ここに一つの重要な問題がある。

感情的な反射、瞬間的な反応が、「優生思想」の蔓延につながってしまう、とてもおそろしい社会の中で、この文章を読んでいる人は、いま生きている。

▼「健康問題」と「道徳問題」の混同、という一言でふと思ったが、小学校の道徳の教科書でも、たとえば「ある仕事場(たとえば文部科学省)で、〇〇さんが薬物を使って仕事をしています。本人は隠れて使っているつもりですが、上司や同僚は「どうも様子がおかしいな」と気づいています。上司や同僚は〇〇さんにどう接したらいいでしょう」という問いを立てて議論したほうが、指導要領に一言一句縛られた教科書よりも、1000倍「国益」に資すると思う。

(2019年6月27日)

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