読みくらべてみたーー河野外相の「黙殺」報道
▼2018年12月11日に、河野太郎外務大臣が記者の質問を4回無視した。無視というのは、「ノーコメント」とも言わなかった、ということである。寡聞(かぶん)にしてこれまで聞いたことのない対応である。くわしい内容がわかるのは14日付の朝日「メディアタイムズ」欄。
紙の見出しは〈外相が質問無視「知る権利軽視」/「メディアへの甘えか」「面倒な議論 避ける社会」〉。電子版の見出しは〈「甘え」「時間の無駄」… 河野外相、質問無視の背景は〉。(清宮涼、丸山ひかり、仲村和代、2018年12月14日07時00分)
〈河野太郎外相が11日午後の定例会見で日ロ関係をめぐる記者の質問を繰り返し無視した。外交交渉への影響を考慮するとしても、「答えられない」とさえ回答しないのは極めて異例。背景にあるものは。
河野氏は会見で、ロシアの外相が日ロ平和条約交渉について「日本が第2次大戦の結果を認めることが第一歩だ」と発言したことについて、記者に問われた。これに対し「次の質問どうぞ」とだけ返答。続けて2人の記者が関連質問をしても「次の質問どうぞ」と繰り返した。「なぜ『次の質問どうぞ』と言うのか」とただされても、「次の質問どうぞ」。「公の場での質問にそういう答弁をするのは適切ではないのではないか」と指摘され、「交渉に向けての環境をしっかりと整えたい」と語った。
ロシアとの平和条約交渉では、河野氏は交渉責任者を務め、臨時国会の委員会審議でも「(自らの発言が)交渉に影響を与えることが十分に考えられる」として、「政府の立場を申し上げるのを控える」などと繰り返し答弁していた。
記者会見では、質問そのものも無視した形だ。この様子は朝日新聞のほかNHKなども報じた。外務省の記者クラブは11日夕、「国民に対する説明責任を果たしているのかどうか、疑問を禁じ得ない」として、河野氏に「誠実な会見対応を求める」とした申入書を文書で提出。河野氏は、「神妙に受け止めます」とのコメントを出した。〉
▼この問題を取り上げた全国紙の社説をみておきたい。
▼朝日12月13日付社説
〈河野外相 質問無視はひどすぎる〉
〈公式の会見で、4度にわたって記者の質問を黙殺する。大臣としての説明責任を放棄した前代未聞の対応は、ひどすぎると言うほかない。(中略)質問に正面から答えず、論点をずらしたり、自説を滔々(とうとう)と述べたりするのは、安倍首相の常套(じょうとう)手段だ。説明責任をないがしろにする政権の姿勢は、今回の河野氏の質問無視で極まった観がある。〉
▼毎日12月13日付社説
〈河野外相の記者会見発言 「次の質問」という傲慢さ〉
〈木で鼻をくくったような対応には傲慢さを感じる。(中略)安倍首相や麻生太郎財務相ら安倍内閣には国会や記者会見などで質問や疑問に正面から答えなかったり、はぐらかしたりする政治家が多い。〉
▼産経12月13日付主張
〈回答拒む河野外相 日本の立場を捨てたのか〉
〈河野太郎外相が11日の記者会見で、日本が北方領土をロシア領と認めることが平和条約交渉入りの条件としたラブロフ露外相の発言について問われ、関連する4回の質問すべてに「次の質問どうぞ」とだけ述べた。
かたくなに回答を拒んだのは情けない。
北方領土返還を求める日本の立場は法と正義に基づく。その基本をはっきり主張できないような外相には、安心して領土交渉を任せられない。(中略)菅義偉官房長官は会見で「各閣僚の責任」による「個別の対応」との理由で、河野氏に対応の改善を促す考えはないとした。首相官邸が河野氏の姿勢を是としていると見られても仕方あるまい。〉
▼朝日も毎日も産経も、首相官邸の姿勢が悪影響を与えている点を指摘している。
朝日12月14日付の「メディアタイムズ」欄では、一橋大学教授・中北浩爾氏の「時間をかけて国民を説得し、理解を得るという、民主主義にとって重要なプロセスが失われつつあるのでは」と、面倒な議論を避ける傾向、「決められる政治」志向の狂いを指摘している。
河野氏は、これまで国会や記者会見で散々質問を無視し、論点のすり替えを繰り返してきた安倍・菅・麻生のお三方をお手本にしたのだろう。それにしても、無視に比べたら、安倍・菅・麻生のお三方がどんなに薄っぺらい答えをしても、「答えないよりマシ」のように感じる。
記者の質問に対して何かしら答えれば、民主主義というプラットホームは前提されている。安倍・菅・麻生のお三方の傲慢は、日本の民主主義を部分的に壊死させており、麻生氏は「ナチスの手口」に造詣が深いことで有名だが、とはいえ彼の「ナチスに学べ」発言にしても、民主主義の擬制を前提にしたうえで、それを骨抜きにしようという提案だった。しかし、質問そのものの無視は、民主主義というプラットホームそのものを壊している。
▼朝日「メディアタイムズ」欄では、駒沢大学准教授・逢坂巌氏の「記者会見の歴史の中でまれなことだ」「記者の向こうに国民がいるにもかかわらず、人をなめた言い方を繰り返した背景には、ごうまんさだけでなく、以前からこの問題への言及を控えてきた河野外相が、『答えないのは分かっているだろう』と、メディアに甘えていた可能性も考えられる」というコメントを紹介している。
そのとおりだと思う。なぜ甘えが許されると思ったのか。河野氏がなめくさった態度をとったのには幾つかの理由が考えられるが、間違いなくいえることは、こうした国会議員の傍若無人な振る舞いを「マスメディアがニュースにしなくなったから」だ。近年経験したことのない権力者の傲慢に「馴(な)れた」とも言えるし、報道の価値を「忘れた」ともいえる。
そうした編集には、読者を権力者の傲慢に馴れさせ、権力者が傲慢であることを忘れさせる効用がある。編集の際、こうした効用を意図していなければその編集者は無能だ。
実際に、読売と日経の社説は、この「河野黙殺」を「黙殺」した。筆者は河野氏による質問黙殺よりも、読売と日経の社説がこのニュースを黙殺したことに驚いた。新聞社にとって、自分たちの質問を外務大臣に完全に無視されることよりも重要なニュースがある、という社論が興味深い。
読売は政治的に考えて、安倍政権のマイナス要素は黙殺することに決めたのかもしれない。日経は経済的に考えて、自分たちの商売と関係ないと判断したのかもしれない。
ある局面で、民主主義よりも政局を優先し、民主主義よりも商売を優先する、という姿勢を取るジャーナリズムがあるとすれば、その局面での彼らの仕事は「検証のジャーナリズム」の名には値しない。
(2018年12月16日)