きっとたりないままで
ひとつ、またひとつと、夢が潰れていく。
思い付きで語った夢も、背伸びしてカッコつけて語った夢も、高校生の頃から温めていた夢も。
メール1通であっさりと握りつぶされてしまう。挑戦権さえ与えられずに。なにが"お祈り"だ、気持ちがこもってない祈りなど冒涜だろうが。何への冒涜かはしらないけど。
そんな日々にも慣れ、場に合わせた「自分のやりたいこと」を繕って喋るようになった。本心を話してないから、結果に一喜一憂しなくなった。そのうちに、自分のやりたいことが分からなくなった。
幸運なことに、ストレスは少なく、待遇も不満がなくて、程よくやりがいもありそうな仕事にはたどり着けそうだ。世間的に言われる「充実」が手に入りそうな仕事。やりがいをもって仕事して、リフレッシュとして遊んで、円満な家庭を築いていく、そんな充実した幸せを目指せそうだ。自分の本心には蓋をしたまま、そんな風に考えていた。
そして、6月1日。
世間的には「就活の面接解禁日」とされ、皆があわただしく過ごす中、オンライン面接1件しか予定がなかった僕は、昨日バイトで見れなかったオンラインライブを見ることにした。
「明日のたりないふたり」だ。
正直言うと、熱は少し冷めていた。
理由はともかく、オードリーのラジオも山里さんのラジオもたまにしか聞かなくなっていた。Huluに契約して見ようと思っていた春夏秋冬のフルバージョンはまだ見れていない。その気になればバイトを別日にすることもできたのに、それもしなかった。
「さよならたりないふたり」の衝撃はすっかり忘れていた。
それを「忙しいから」「大人になったから」なんてごまかしていた。
ライブを見て、蓋をしていた自分の「たりなさ」に気付いた。
若林さん山里さんの「たりなさ」を見せつけられて、「たりなさ」への向き合い方も見せつけられた。周りに言われたから、結婚してアップデートしないといけないから、そんな理由で「たりなさ」は片付けて良いものじゃない。自虐の竹槍で聞く笑い声が好きで、自虐の竹槍が自分の1番の武器なら、それを貫き通した方が良い。
自分の本心をもっと考えろ!と言われたようだった。
分かりやすい形で叶えられないからって、自分のやりたいことを諦めていいわけじゃない。擬態や努力は必要かもしれないが、自分の本心は大事に守っておかなければならない。
若林さんが「あちこちオードリー」を告知しているシーンが、やけに印象に残っている。若林さんが山里さんに宝物を見せつけて自慢しているように見えた。
顔つきは変わってるのに、「こんなもんじゃねえ」って目だけはやめられない。これに関しては自分の写し鏡のようだった。
丸くなって、「たりてる」風に振る舞って、「たりてる」先の充実や幸せを見据えてるように見せて。なのに「こんなもんじゃねえ」って目をして、周囲を睨みつけたりなんかして。
そんなのおかしいよな。
結局、自分が擬態しようとした「たりてる」側の世界に、自分のやりたいことはないんだろう。
最後のシーン。
おじさん2人が棒立ちして、目を潤ませてるだけなのに、あんなに絵になるのか。
あのシーンを見て、ようやく気づいた。
12年の歴史を追いかけてくれて、お金を払って見てくれるファンがいる。影響を受けて、ルートは違えど後を追ってきてくれる後輩がいる。そして、演者がいて、演者の表現で笑い、感動し、涙する。
すべては、1つのコンテンツという物語に帰着する。今回で言えば、「たりないふたり」という番組のストーリーに終止符を打つ。
「たりない」と言われても、自分がやりたいことは、コンテンツによる物語作りなんだと思う。だから、ラジオが好きだしライブが好きなんだ。2分の切り抜きや1曲ごとのプレイリスト、10行の書き起こしは嫌なんだ。少しでもいいから本心が叶えられるように、この気持ちを大切に覚えておきたい。
明日も面接があるみたいだ。
この1ヵ月で、働く会社を決めなければならないことも事実だ。人生を左右する大きな決断なんだろう。
その時、このライブを見て思い出した自分の本心を忘れないようにしたい。擬態して語った綺麗ごとの「夢」ではなくて、自分の本当にやりたいことを大切に、決めたいと思う。
P.S.
自分は、山里さんやオードリーの「良きリスナー」ではないのかもしれない。これからも毎週は聞かないかもしれないし、ずっと離れてしまうこともあるかもしれない。そのわりに、こんなまとまりのない文章はアップしてしまう。
そこも自分の「たりなさ」として受け止めることにしよう。それぞれの節目で出会うような、このストーリーの楽しみ方も、僕は気に入ってるから。
「さよなら」の時の感想です。
僕の人生に相棒やライバルが「たりない」ことも抱えたまま生き続けていこうと思います。