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敗金主義社の戯言:連なる鎖の罪と罰

 マネーが寄り付かないものは常に戯言を口にしている。だから、マネーが寄り付かないという負の連鎖が始まっているというのも知らずに。敗金主義者もそうなりたく無いが戯言は辞められないのです。

 さて、今回は不幸の連鎖の話であるからして、決して儲からないし利益とはならないと思うので読み飛ばす方が精神衛生上好ましいと前置きしておいて、早速本題に入りたいと思う。
 まず、人間の不幸は概ね生まれた時の素質と育つ環境に大きく左右されてしまうだろう、と問題提起したい。
 人は誰もが生まれを選べないし、素質も選べない。要するにここは親の影響が大きいということだ。その選べない時間に自身の性格が形成されてしまう。価値観の基準が作り出されてしまう。この基準と元々の欲求が幸福の基準になるになると考えるならば、我々の幸福は自分が定められる範囲がかなり少ない、と言えるだろう。そう考えると、子供の時に本能的な欲求すら満たせない場合、その人の幸福のボーダーはかなり低い設定になる。加えて、それが満たせていない記憶は価値観の基準に大いに反映する。ご飯が食べれなかった人はご飯が食べれるだけで満足し幸せになるが、そのご飯に対する執着心が増す、といった具合だ。これはいわゆる「愛」でもそう考えることができる。私は「愛=時間」論者であるが、それを活用すると親から「接する時間」を与えれなかった人はその時間を少しでも与えられたら幸福に感じるし、逆に与えられなかったら不幸に感じるし、その他者に対する時間に執着心がある、と言えるのでは無いだろうか?
 男親は多くの場合子供と接する時間があまり多くない。普通に働くだけでも少ないのに、男親が自分に時間を費やしているならば余計にそうである。子供に対する直接的に接する時間が少なくなりがちだから、それが極端になると、子供は男親に対する執着心が強くなる。そして、男親の代理を探そうとするならば、それは年上の男性になり、女性が子供の場合そういう恋愛志向があるし、男性でも
極端な例では男性に抱かれることでそれを埋めようとすることすらあるようだ。これらは母親の場合もそうであろう。
 刷り込みでは無いが、親に受けたことをそのまま子供にしてしまうのも、その時期に価値観が形成されてしまうからとも言えるし、とかくそれが「普通」と考えてしまうものである。
 これは良い場合もあれば悪い場合もある。
 虐待などは連鎖しやすい。教育も同様だ。教育熱心な親の子供はそうなる傾向にある。
 問題はその転換点はどこにあるかということだ。負の連鎖を断ち切るポイントとも言える。これには二つの視点が必要になってくると考えている。
 まずはマクロ、そしてミクロである。
 マクロとは社会、ミクロとは個人である。
 まず、社会は当然安定して成長していることが望ましいだろう。この状態であれば個人の働きが正常に反映される可能性が高いからだ。安定には当然「安全、平和」も含まれる。戦争などで不安定ならば、不況で不安定ならば、それどころではなくなるのは目に見えることだろう。
 また、個人で言えば、まず「自立」が必要になる。親からの独立、これは精神的経済的な独立を意味するが、それがあってこそ親の呪縛を解くベースがあると言える。それを踏まえて、やはり「自決」が必要になってくるだろう。要するに「自分とは何者であって、何をするべきか」を自分で決める、あるいは、その過程である種の再構成が生じるのである。自分自身に課せられた型を破る必要があるわけだ。
 これが本来の成人の儀式の意味である。ただその歳になったら同じ歳通しで集まって偉い人の話を聞くことでは無いのだ。
 負の連鎖を断ち切るには、上記ふたつが成り立たないとなかなか難しいと思う。ただ、社会を安定させるには個人の安定が必要だし、個人の安定をさせるには社会の安定が必要という、鶏と卵のようなもどかしい問題が存在するのだ。
 これを同時に解決するにはどうしたらいいだろうか?
 それは次回に提案していきたいと思う。
 今回はここまで。うーん、マネーには一ミリも掠らない話であった。

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