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第36回 まるで物語のヒロインの如く

 当日は朝から緊張していた。
 結婚すること自体に不安はなかった。あるとすれば、ここのところ不安定な状態の彼女に対しての不安だった。それこそ、当日朝になって、「やっぱり結婚は出来ない」と言い出されてしまうのではないかと心配で仕方なかった。

 彼女の家へ迎えに行った時、向こうの表情は心なしか暗いように思えた。それに対して自分もまた、あまり浮かれた態度は取れず、神妙な面持ちでいるしかなかった。

 役所へ行き、結婚届を提出した。
 ここで書類に不備があれば、差し戻しになる。そうしたらまた最初から結婚届を作り直すことになり、白けてしまうことだろう。その事態も避けたかった。

(頼む……無事に受理してくれ……)

 その祈りは通じたか、特に問題なく届出は終了した。

 私と彼女は、ついに夫婦となったのだ。

 ちなみにここから先は彼女のことを「お嫁様」と呼ぶことにする。彼女は「妻」とか「奥さん」といった呼ばれ方を嫌っており、「お嫁さん」と呼ばれるのがいいそうだ。なので、「お嫁様」である。

 さて、結婚したその日から、私とお嫁様は新居で一緒に住み始めることとなった。お互いの荷物を本格的に移しての引っ越しは、数日後先ではあったが、なるべく早い内から二人での生活に慣れておきたかった。

 結婚初日は特に問題なく、一日を終えることが出来た。

 ところが、次の日のことであった。
 私のある振る舞いが、お嫁様の逆鱗に触れることとなってしまった。

 それは、SNSに関することだった。
 念願の結婚を果たすことが出来た私は、嬉しさのあまり、お嫁様と一緒に写っている写真を、FacebookとLINEのタイムラインに投稿したのである。
 そうすることについて、特別疑問には思っていなかった。私の友人達はほとんどが、写真付きで結婚報告を上げていたので、ごく自然な行為だと考えていた。ましてやFacebookやLINEなので、公開範囲も限られている。何も問題は無い、と思い込んでいた。
 だけど、写真というのは、本来は写っている相手の了解を得て、初めて投稿出来るものだ。それがSNSにおけるマナーだと、現在の私は理解しているが、当時はまったくわかっていなかった。結婚で浮かれすぎていたこともあるのかもしれない。

 タイミングも悪かった。
 実は、結婚する数日前に、お嫁様が長年飼っていた大事なペットが、息を引き取ってしまっていたのである。
 それもあって、当人はすっかり落ち込んでおり、元々結婚に対して著しく不安を抱いていたこともあって、めでたい気分ではなかったようだ。

 そこへ、私が何の断りもなく、SNS上に結婚報告の投稿をしたもんだから、一気に爆発してしまった。なぜ勝手に写真を載せたのか、そっちは浮かれているかもしれないけど、こっちはそんな気分じゃない、と大激怒だった。

 私は、申し訳ないという思いとともに、(結婚二日目で早くも衝突か……)としょんぼりしていた。
 結婚生活というのは、もっと幸福で、楽しく明るいものだと思っていた。少なくとも最初の内はキラキラと輝いているものだと想像していた。それが、いざ始めてみれば、さっそく相手を怒らせてしまった。

 かように前途多難なスタートを切ったわけであるが、数日後、そんなトラブルも吹っ飛ぶような出来事が起こった。

 それは、お互いの引っ越しも終わってから、二日ほど経ってのことだった。

 近所で夕飯の買い物を済ませて、大通り沿いに歩いていた私達は、大きな交差点で信号が変わるのを待っていた。
 目の前にバイクがいる。やがて車道の信号が変わったところで、バイクは大きくカーブを描きながら、左折した――
 と思った次の瞬間、衝突音が交差点に響き渡り、ドライバーの体は空中高くに舞い上がった。突然のことに私は思考が追いつかず、何が起きたのか理解するのに時間がかかってしまった。

 だが、お嫁様は別だった。

「事故だよ! 助けに行かないと!」

 ちょうど歩道が青信号になった。他の歩行者達も呆然として見守る中、お嫁様はためらうことなく駆け出した。私は慌ててその横に並び、一緒になって走ってゆく。

 バイクは、曲がった際の進入角度が大きすぎたようだった。左折した先で一時停止していた車に正面衝突してしまったようで、その車のフロントは見るも無惨なほどに凹んでおり、破損した箇所から何かの液が漏れ落ちていた。車の運転手は中年の女性で、すっかりパニックになっている様子、ひたすら目を丸くして身動き一つ取れずにいる。

 私は、路上に倒れているドライバーの側に寄り、救命士の講習で習った通りに、相手の肩を叩きながら「大丈夫ですかー!」と何度か声をかけた。

 そうしている間にも、お嫁様はテキパキと動いていた。まずは、同じく様子を見に駆け寄ってきたサラリーマンに声をかけた。

「救急車は呼びましたか?」
「ええ、電話しました」
「そうしたら、私は警察に電話しますね」

 そして、すぐに携帯電話で110番通報をした。向こうの質問に対しても、手際よく答えを返していく。驚くほどに冷静で、落ち着いていた。
 後で話を聞いたところによると、交通事故を目の前で見るのは、今回が初めてではないとのことだった。それにしても、咄嗟に対処出来るのは凄いと思えた。

 しばらくしてから、救急車とパトカーがやって来た。
 結論から言うと、調べた結果、どうもバイクのほうが飲酒運転だったようだ。それもあって、私達夫婦は、目撃者として警察署へ連れていかれることとなったのであるが、その細かい話はまた別の機会にでも。

 ともあれ、この出来事がきっかけで、私はすっかりお嫁様に惚れ込んでしまった。こんな物語の世界から飛び出したような、行動力と正義感を備えた女性は、滅多にいないぞ、と感心していた。
 腹をくくった。ちょっとやそっとお嫁様に怒られたくらいで、しょげている場合ではない、と思った。これほどまでに芯が強い人と一緒に暮らすのであれば、こっちも相応にしっかりしていないといけない。そう心に誓った。
 本当の意味で新婚生活が始まった瞬間であった。

 時を同じくして――X社より、『金沢友禅ラプソディ』の初稿について、返事のメールが届いていた。

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