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仏教徒にキリスト教会で聞いた「身動きが取れなくなるのは、大事なものをたくさん持ちすぎてるからだよ」の話
エストニア南部に暮らす少数民族セトのキリスト教会に連れて行ってもらった。その日はキリストの復活祭の日で、深夜から朝方にかけて特別な儀式が行われる。
宗教はもともと好きではなかったけれど、宗教が人に必要なことを今はとても感じている。しんどかった時に、理屈でなくてすがれるものがあることは、人が生きる上でとても大事なんだ。それを自分の外に求めれば宗教になるし、内に求めると自分の夢になると私は思っている。
「キリスト教だと、毎週礼拝に行かないといけないんでしたっけ? 洗礼を受けるとか、なんかそういう決まりごとがありましたよね?」
「うん、そうだね。どの宗教もだいたい、戒律みたいなものがあるかもしれない」
私が声をかけた彼はフィンランド人で仏教徒だった。ブッダの哲学が好きだと彼は言っていた。
「私、そういうのが苦手なんですよね。毎日の自分の習慣はあるけど、誰かに日常のルールを決められたくないんです。ルールを自分で決められる生き方ができたらいいな。ルールがあいまいな状態で生きられたら、身軽でいいなぁっていう気がします」
「そうだね。僕もそう思う。だけどさ、身軽かどうかはルールに従って生きてるかで決まるわけじゃないと思うんだ」
「ルールがあっても身軽なことがある?」
私は背の高い彼を見上げる。彼のふわふわの金髪は、教会のオレンジの光を浴びて先端が光っていた。
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