#ライゾマティクス _マルティプレックス展から死ぬことのできなくなった世界について考える
東京都現代美術館でライゾマティクス_マルティプレックス展をやっています。期間は2021年3月20日(土・祝)から6月20日(日)まで。
時期的に事前予約がおすすめです!
会場では静止画の撮影がアリになってました。動画はダメです。
ちょっぴりネタばれしてしまうと、最初のほうの展示室にダンサーが踊る映像が流れているところがあります。その隣の会場では、彼女たちが踊ってたっぽい台とかが動いて映像だけが見えています。
2つの展示室が、ダンサーが踊っている映像を流した展示室、ダンサーだけがいないけど物体と映像と音楽がある展示室になっていて、相互に関係しているんです。
同時に、ダンサーが踊っている映像には、ダンサーがいないけど台が動いているのを見ている人々が映し出されます。たぶん、リアルタイムで映し出されてるんですね。
なので
展示室A:ダンサーの映像+今、ダンサーがいない状態を見てる観客C+それを見てる観客D
展示室B:ダンサーがいない状態+それを見てる観客C
みたいな構造になっています。
途中でカメラみたいなのが展示室を動き回るんですが、この子が見てる人たちを撮影して、展示室Aの映像に重ねるんだと思われます。
ぼんやり展示室を移動するだけで、ちゃんとそこらへんが分かるようになってるのはさすがだなと思いました。複雑な文脈が作品にのっかってても、作品を見るだけでは分かんないんですよね。分かりやすくするというのを自分は課題感として持っています。
映像もすごいんですが、音がおもしろかったので、ぜひ会場で体験していただきたいところです。
台だけが動いている展示室にいても、ダンサーたちがここで踊っていたであろう事象のことを想像することができます。事前に映像を見てからこの展示室に入っているので、すぐに「あ、ここで踊ってたのかな」って分かるんです。
そして死について考えました。
デジタルデータが残る現代において、私たちの多くは「完全に死ぬ」ことはもう不可能なんじゃないかなと。誰かが撮った私のデータはネット上のどこかに残っています。
死んだからといって、それらをすべて削除することはできません。10年前の私の写真に今出会った人は、私の過去と出会っていることになります。
私が死んだとしたら、その死を私は認識できるのでしょうか。自分の周りですでに亡くなってしまったはずの人がいて、でもその人の元気な投稿はネット状でいつでも見られます。投稿の日付からそれが過去だったように思えるだけ。もしも別の誰かが代わりに投稿したとしたら、それが本人かそうでないかは私には区別がつかないかもしれません。
世界というのが、そもそも自分の脳で認識している外界であるとするなら、自分が認識する世界の中に存在しているモノは、フィクションであろうと物体であろうと生きているモノなのかもしれません。
死が存在しないとするなら、私はいつから生き始めるんだろう。そんなことをちょっと思った展覧会でした。
作品の在り方として、アナログの作品との違いについても考えました。チームラボもそうですが、デジタル作品の没入感ってすごいですよね。VR技術の発展で、めちゃくちゃ中毒性が上がるんじゃないかみたいなことが書かれた本がありました。(ゲームやりすぎて死ぬ的なやつ)
刺激の強さや注目の集め方が強力なデジタル作品(それだけじゃないけど)ですが、アナログの良さがあるとしたら、小さな刺激を発見できること、休めること、その時その場でしか味わえない限定性みたいなものはありそうです。
東京近郊にいらっしゃる方はぜひ。