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「夜の案内者」死のない町10

 ネズミは少し前に歩いてアサを見下ろす。
「私は、生きていると思いますか?」
 アサはネズミの赤い目を見上げる。鼻の周りのひげが風でやわらかく揺れている。
「あなたは、生きていると思う。・・・あなた自身はどう思ってるの。自分は生きてるって思う?」
「私は、自分が死んだ理由を知りたかった。なぜ死ななければならなかったのか。自分はもうずっと、死んでいると思っていました。でも今は、自分は生きているように感じています。ふふ、おかしいな、死んだはずなのに」
 ネズミは時計塔に目を向け、アサもそれにならう。
「あの時計塔、本当は生きてるんじゃないでしょうか。それで、ずっと誰かが治療してくれるのを待ってる」
「治療を待ってる? 時計塔が。どうしてそう思うの?」
「本当はずっと声を上げているのかもしれない。私たちがその声を聞き取れないというだけで」
そこで言葉を切り、少しの沈黙の後、ネズミは言う。
「私は死んだ後もずっと、あなたに話しかけていたんです。でも、あなたには届かなかった。・・・私が流してしまった小さな虫も、今この瞬間にどこかで私に向かって話しかけているかもしれない。私にその声が聞こえていないだけで」
 アサは立ち上がり、ネズミと並んで時計塔に向かう。
「物が、あるいは死者が、治療を必要とするのはおかしいことでしょうか」
「おかしいと思ってたよ、もともとは。でもそれはただ、わたしの常識なだけかもしれない。物が生きてたっていいはずだよね。死んだ人が生きてたって」
「生きているならきっと、鐘を鳴らすはずです。だからきっと、あの時計塔には治療が必要なんです。元通りの力を取り戻すための。それに、私自身があの鐘の音を聞いてみたい。だから治療します」
 ネズミは準備をするために列車に戻ると言う。アサも後につづいて岩場を下りていく。
「勝手にやって、怒られないかな」
「その時は私が怒られますよ」
 ネズミは帽子の端を手で持ち上げて、わずかに振り返り、また岩場を下りていく。

 列車に着くと、ネズミは車両の切り離しについて車掌と相談してくると言って、先頭車両に向かって歩き出す。アサは食堂車から果物用のナイフを取り、扉の前の小さな階段を下りながら、「わたし、中途半端だなぁ」とつぶやいた。
「わたしは、どうしたいんだろう」
 この町に死を持ち込んだことが正しかったのかは分からない。それはすでに起こってしまった。時計塔に書いた名前を消して、自分たちが去れば、町は元の形を取り戻すかもしれない。
「わたしは、わたしの正義の中で生きてるんだなぁ」
 アサは手元のナイフを見た。これで木のつるを切り、線路を引っぱる縄をつくる。車両を落として時計塔にぶつけるにしても、町の人の協力がいる。説得して、町の秩序を変えたとしても、自分たちはずっとここにいるわけではないのだ。
「中途半端で、すっごく無責任」
 アサはナイフを持ったまま車両に戻り、いつもの席に座る。波一つない海と、窓に映る自分の顔を交互に見ていると、ネズミが列車に戻ってきて言った。
「車両の切り離しはしてもいいそうです。この車両の後ろを切り離しますね」
 ネズミの手にはすでに車両の連結を外す鉤状の器具が握られていた。
「あ、うん」
 ネズミは列車を降りるが、アサは後を追わずに席に座っていた。アサは迷っていた。自分が言い出したことなのに、もうやめたいという思いが心を侵食してくる。そういう自分自身に苛立ち、アサは握ったナイフを見つめたまま、席を立てずにいた。

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小説投稿サイト「エブリスタ」で連載中の「夜の案内者」の転載投稿です。
物語のつづきはエブリスタで先に見られます。

▼夜の案内者(エブリスタ)
https://estar.jp/novels/25491597/viewer?page=1

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