手作りケーキを食べながら聞いた「生活を支える好きなことは呼吸と同じようなこと」の話
私はもう一度チーズを手に取る。それから今度はじっくりと味を確かめるようにしてチーズを噛んだ。チーズの弾力が感じられた後に、鼻に香りが抜けてくる。意識して味わうとこんなに味が違う。
「おいしいかね?」
デンマークのコペンハーゲンに暮らすアートコレクターの老人は、レモンの入った炭酸水を飲みながら私に聞く。彼の部屋には小さなアート作品が壁いっぱいに飾られている。
「すごく。なんか味がさっきと違って感じられます」
「食べるというのは、空腹を埋めるためにあるわけじゃないからね。五感のすべてを使って味わうというのは、アートと同じくとてもクリエイティブなことなんだ。
少なくとも私はそう思っている」
老人はチーズをつまんで口に入れる。
「私は香りがとても好きでね。今は友達のオーガニックショップを手伝っているよ。アロマや石鹸をつくっている。服を変えると気分が変わるだろう? 同じように、自分が好む匂いに囲まれていることは、私の生活を豊かにしてくれる」
そういえば老人はコーヒーを飲む前に必ず匂いを嗅いでいた。匂いを味わっていたというほうが正しいだろうか。
「好きなことが仕事にもなっているっていいですね」
「好き、そうだね。好きだ。ただ、改めてそう聞かれるとちょっと違うかもしれない」
老人はチーズをつまみながら「食べる前にこうして触感を味わうのも大事だ。チーズとのコミュニケーションだね」とつぶやく。
「香りは私にとって大切だけど、同時に当たり前のことだ。言ってしまえば、呼吸をしていることに似ているよ。いつも自然にやっていることで、やらなければ死んでしまうけどそれほど大切だという意識もふだんはほとんど持っていない」
「なるほど。なんか最近、好きなことで生きて行こうっていうのが流行ってるんですよね。私もそうできたらいいなって思ってるんですけど」
「できてないの?」
「今は。できてるような気がしないかも」
「デンマークまで来ているのに? アートのプログラムに参加してるんじゃなかったかな」
「そうなんですけど、三週間だけです。ただ暮らしてつくるだけ。生活費がもらえるわけじゃないし、生活コストを節約してつくって帰るだけです。それでも海外で制作できるっていうのは最高なんですけど、もっとちゃんとアート制作で稼げないと、身体が動かなくなったらどうやって生活していけばいいんだって思っちゃいます」
「ふうむ、君はケーキは好きかい?」
「ああ、はい」
「友達が今朝焼いてくれたものがあるんだ。ちょっと持ってくるよ」
老人は空になった炭酸水のグラスを持ってキッチンに向かう。チーズが一枚残っていたが、それもボードに乗せたまま持って行ってしまった。
この家はいろんなものが出てくる。彼は小さく食べるのが好きなのかもしれない。アート作品に囲まれた部屋で、私は一人残される。時間の合っていない壁掛け時計が規則正しく音を立てていた。
私が部屋の中にあるアート作品に目をやっていると、彼はトレーにイチゴのショートケーキとフルーツがたくさん入ったガラスのポットを乗せて戻ってきた。見た目も華やかなフルーツティーがカップに注がれると、果物の香りがあふれて部屋に広がっていく。
「私のお気に入りだ。どうぞ」
ケーキはイチゴがたくさん入っていて、口にするとスポンジが生クリームを受け止めながらサラリと溶けた。
「わあ、おいしいですね、これ。スポンジが特に」
「だろう。彼はケーキを焼くのが好きでね。遊びに来るたびに持ってきてくれるんだ。私はずっと味見役だったんだが、ずいぶん上手になった」
「最初はこんなに上手じゃなかったんですね」
「はは、そりゃもうひどいもんだったよ。スポンジは粘土みたいだった。固くなっちゃってね」
老人はケーキを一切れ口にしてよく味わった後、イチゴを一つ口に入れた。
「彼はケーキをつくるのが好きだけど、これを仕事にするとか、これで生活するとかは無理だと思うよ」
こんなに上手に焼けるようになっているのに、無理だなんて断言しなくてもいいのに。
「その人がケーキで生活しようと思ってないからですか?」
「いや、ケーキ屋をやりたいと言ってるよ。ネット予約にして自宅で販売すると」
自宅で販売するなら初期費用もあまりかからなそうだ。やりたいならチャレンジすればいいし、友人なら応援くらいしてもいいんじゃないかと私は思った。
「もう三年も前から同じことを言っていて、何も変わっていないからね。彼にとってケーキづくりは好きなことというより、好きなことに飽きた時の娯楽だ。本当に好きなことはやめようとしてもやめられないことだからね」
「娯楽というのは? やめようとしてもやめられないっていうと、なんか中毒みたいです。そこまでハマることがいいことなんでしょうか」
老人は私の言葉を聞いてケーキの皿をテーブルに置き、軽く人差し指を立てて言った。
「ちょっと息を止めてみてくれるかな」
老人の提案に戸惑いながらも、私は目の前で息を止めてみせる。息を止めて黙ったまま数を数える。時計の音が沈黙の間に響いていた。
三十秒くらいして、私は息を大きく吐き「これでいいですか?」と答えた。
「いいね。自分にとって大切なことは、本来そういうことなんだ」
私は老人の言う意味が分からずに聞き返した。
「大切なことは息を止めること?」
「いや、君は呼吸が好きかい?」
「好きっていうか、好きでも嫌いでもないです。自動的にやってることだし」
「心臓と違って自分で止めることができるのに、二十四時間休まずに呼吸し続けている。好きじゃないのにやっているとしたら、ずいぶん立派じゃないか」
「身体の反応ですもん。無理に止めると苦しいし」
「それだよ。それが大事なことだ。ケーキが好きでも、二十四時間食べ続けたり考えつづけたりするのは難しいだろう? そういうのは一時的な娯楽なんだ。
そうじゃなくて、一時的にやめられても苦しくなってまた始めてしまうことは? 人は呼吸をやめられないだろう。息を止めることはできても、すぐにまた始めてしまう。それは私が生きたがっているからだ。
好きっていうほど強い実感がなくても、自分にとって自然で当たり前のことをやるといい。そういうのはちゃんと生活を支える仕事になっていく。生きることと等しいことが好きなことだと私は思っているよ」
「確かに二十四時間続けられるかって考えたら、だいたいのことはそこまで続けられないかも。美味しいお寿司もずっとは食べられないし、好きな音楽もぜんぜん聞かない時期もあるし」
「そう、呼吸と同じくらい当たり前にできることが自分のコアなことだ。だからまず、続けたいことが思い浮かんだら、呼吸と同じようにやれるかどうかを考えてみるといい。だいたいのことは呼吸ほどじゃないからね。誰かがこっちがいいって言ってることを鵜呑みにしてるだけだ」
ゲームやマンガ、映画、動画サイトやビジネス書、なんかの役に立ちそうないい言葉。楽しいって思えることはたくさんあるけど、それだけをずっとやれるかって言われるときついかもしれない。
「ああ、でも私、文章が好きで子供の頃からずっと書き続けているのに、生活を支えるほどの仕事になんかなってないですよ。ちょっとお小遣いが稼げるかな程度。大学時代に童話賞に三百本出して、ぜんぶ落ちたこともあったし」
「小説家になりたかったの?」
「その時は、世界中を旅しながら旅先で出会ったことを紹介する物語を書いて暮らしたいなって思ってました。でも、好きなだけ好きなことを書いてもぜんぜん読まれなかったです」
「その後もずっと書き続けていた?」
「…いいえ。でも書くことは好きです。もしもこれで生活できるなら二十四時間だってやれると思う」
「でもやめていた時期もあった。なるほど、なんとなく分かってきたよ。君は書くことが好きなわけじゃないんじゃないかな。呼吸と同じくらい当たり前のことを探す時には、条件をつけないこと。生活できるならやるけど生活できないならやらないというのは条件だ。君は息をするのにいちいち条件をつけないだろう? いい家に暮らせたら深呼吸するけど、そうじゃないなら息はしない、なんてね。
もう一つ、特定の動作や職業を決めてしまわないほうがいいな」
老人はケーキをフォークで細切れにし、考えながら一口、二口と口にした。それからフォークを置いてフルーツティーを飲み、足を組み直して話し始めた。
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