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【アート企画】言語から法則を排除して感覚的かつ複雑なコミュニケーションを行えないかの考察~「あ」だけで話すゲーム
『宇宙兄弟』という人気マンガから生まれた難病ALSの支援ファンド「せりか基金」。物語が現実世界に影響を与えているプロジェクトとして、とても好きで、みじんことオーマも月額支援をしています。
同時に支援額3265(みじんこ)円と同額のアート企画をALSに絡めながら毎月2点発表しています。これは2020年11月分の1点目です。
ALSは身体が動かなくなる病気なんですが、知性はもとのままなんですね。有名人だと車椅子の天才科学者ホーキング博士がいます。
言葉がうまく話せないという状態だと、周りの人から頭が悪いと誤解されてしまうということがあります。たとえば聴覚に障がいがあるとそう思われやすいというのが、聴覚障がいがあるために筆談で接客するホステスさんのお話しにも書かれていました。
私はよく海外に行っていますが、英語があんまり得意ではなく、複雑な話はできないので、怒ってるとか人と関わりたくないのかとか誤解されることがあります。
自分の暮らしの中で、周りの人と同レベルに扱える共通言語が少ないというのは、誤解を生むなぁって思っています。
なんとかこの誤解を生まずにコミュニケーションできる状態にならないか、というのが今回考えているアート企画です。
知性の判断は優劣の意識を生む
この誤解を解きたいなって思うのは、知性を判断する習慣が抜けないと、自分自身が優劣の意識から抜けられないからですね。相手を優ってると思ってしまったり、劣っていると思ってしまったり。そういう状態って自分も含めてみんなにとってあんまり幸せじゃないんじゃないかと思っています。
劣ってると思えばしょんぼりしちゃうし、優ってると思っても別に何も起こらないし(ちょっといい気分になったところで現実は変わらない)。そもそも現代における「優」っていうのが、あまりにも多様化しすぎていて、既存の優劣ランクでは立ちいかない気がするんです。なんというか、あんまり基準値をもたないほうが幸せな気がするんですね。時代が変わったことに気づかないままになってしまいそうだから。
そもそもコミュニケーション段階で優劣意識があると、コミュニケーションによって得られることが少なくなってしまう気もして。相手より優れてるような発言をしてしまうとかね。
知性は何によって判断してるのか
我々が相手の知性をどこで判断してるのかなって考えると、自分自身が(正確に)受け取ることができた情報量の多さ、なんじゃないかと思ったのです。これは実のところ、自分自身の知識に比例します。自分が知識があればあるほど、受け取る情報量が多いですよね。
相手の話してる言葉がたどたどしいと、自分が受け取る情報量はかなり制限されます。「分からない」部分が増えるということ。それによって自動的に評価しているのは、自分の知性ではなくて「相手の」知性なんじゃないかなと思うんですね。
ソースをすぐに出せないのですが、「自分の話をひたすら聞いてくれる人」を知性が高いと判断するという研究もあったよな(嘘かもしれません)。
もしこれが本当だと、自分が話した量(=自分が理解していること)が相手の知性の評価に影響していることになりそうです。
日本語同士、英語同士など、共通の言語があると、お互いの知性(お互いが理解できる情報量)が担保されますよね。逆に言うと、共通言語が少ないと理解し合える情報が少なく、マイノリティ側が劣とされやすいのかもしれません。
言語から法則を排除したらどうなる?
日本語みたいな言語って、訓練によって身に着けるので、大人になってからそのニュアンスまで含めて母国語じゃない言語を身に着けるのってそこそこ大変だと思うんですよね。
また、単純に同じ言葉であっても、文化背景によって意図が微妙に違うとかもあると思うんですよ。いけにえの動物に対するイメージとか、国によって違うかもしれません。そういえば昔、インドネシア人の友達が「アドレス帳」っていう言葉にとても違和感があると言ってました。アドレスって英語で、帳は日本語。なんで住所帳とかアドレスブックにならずに、アドレス帳って混ざってるの、って彼女は言ってました。
日本はオノマトペがとても豊かな文化なんですが、オノマトペと図形の関係を表す実験でこんなのがあります。
2つの図形があり、片方が「ふおんふおん」、もう片方が「チャッキンジャキ」だとします。
初めて聞くオノマトペであっても、だいたいの人がどっちがどっちだと言うことができるようなんですね。上の図形は左が「ふおんふおん」、右が「チャッキンジャキ」のつもりで書いています。なんか、分かりますよね、たぶん。
ということは、学ぶ言語以外に、人類に共通の感覚的な法則があるんじゃないかなっていう気がするんです。この感覚要素をもっと言語に取り入れて、もともと言語がもっている法則をあいまいにしたら、言語スキルに関わらず潜在的な評価を受けないコミュニケーションができるのではないかと考えました。
もともと誰も法則として持っていないものをコミュニケーションツールとして使い、誰もがゼロスタートな状態からコミュニケーションを試みたらどうなるか、というのが今回の試みです。
ゼロ地点としての「あ」
そこで考えたのが、今回のアート企画なんですが、「あ」のみで会話するという企画です。使える言語を絞ってみたらどうだろうって考えたんですね。
「あ」というのは言語のゼロ地点を意味していて、日本語を勉強していれば、ほぼ誰でも「あ」は言語で「あ」だと分かるという状態を表しています。
ゼロ地点を構築したのは、見たこともない図形だと「言語」であることが分かりにくいためです。言語であることが最低限認識できるシンボルとしての「あ」なんです。海外だったらたぶん、「a」とかになりますかね。
ほかの言葉は使ってはダメなので、組み合わせによる法則が生まれません。「あ」という形状と音だけが提示されています。
シェアハウスで実験
現在同居中のイケメンたちにやってもらいました。
みじんこ「あ、だけを使って自己紹介して欲しいんだけど」
心優しいイケメンたちは、一応やってくれました。この辺りの経過をまとめたのがこちらのマンガです。
とりあえず分かったのは「あ」のみに絞った場合、補完するように他の情報量が多くなる、ということでした。
音にした場合:音程や長さ、声の大きさなどの情報が付随
書いた場合:色や形、サイズなどの情報が付随
「あ」を単純に同サイズにコピーして散布図によって表した場合は、その広がりや回転、量などの情報が付随することになりそうです。
自己紹介というそこそこ情報量が多いことを伝えるとしたら、「あーあ~~~あああ」みたいな情報量の多い発声になっちゃうんですね。たとえ「あ」だけだったとしても、その表現方法によって伝えられる情報量は、無限に増えるんだなあと気づきました。ただ、法則はないので、何が伝わるかは受け取り手の解釈に依存する感じになりそうです。
「あ」でモールス信号をつくってしまえば、という意見も出てましたが、それだと言語法則をつくるのと同じになってしまうので、既存法則を使うというより、法則を生み出すか法則をなくしてしまうほうを考えています。
フランスの哲学でシニフィアン、シニフィエというのがありますが、言語によって概念が知覚できるようにもなりますが、それは言語化されていない概念を見逃すという弊害も生むわけです。
コミュニケーションしながらリアルタイムで法則をつくれないか
最初のコミュニケーションはたどたどしくても、徐々に法則を自分たちで発見し、複雑な対話が可能になっていくのではないかという気もしています。「あああ」と3つ繰り返しが出てきたらハッピーなんだな、では自分も「あああ」を繰り返そう、みたいな感じで。
友人とオノマトペのみでの会話を試みたことがあったのですが、その場で創作したオノマトペのみでもなんとなく伝わるんですね。詳細は分からないんですが、伝わってそうかなっていうのが分かる。それは、相手が自分の使った文字の一部を使ったり、繰り返し同じ言葉を使われたりすることで感じます。
ということは、共通言語の始まりは反復(お互いの会話に同じパターンが繰り返し出てくること)なのかもしれませんね。
であれば、文字を1つに絞ってしまえば、反復は生まれやすいかもしれません。そもそもDNA自体、4つの単語の反復によって、たんぱく質を生み出しているわけですから。
ゲームという認識から始めるコミュニケーション
コミュニケーションをそもそもゲームとして行ったらどうかと思いつきました。普通の会話をする前に「今からコミュニケーションゲームを始めます」と言っていつもの会話を始めるというイメージです。
職場や家庭でうまく会話ができないような時に、ゲームだと考えたら、気持ちがちょっと楽になることってないですかね。ゲームだって思うだけでちょっと俯瞰した気持ちになれるというか。うまくいかないのをどうしたらいいかと考える視点になれるというか。
コミュニケーションのスタート地点を会話(グルーミング)や相互理解、伝達ではなく、ゲーム(遊び)と考えられたら、うまく伝えられないことがむしろ面白要素に変わるんじゃないかなと。
それでも普通の会話だと、前提をみんなで認識してから始めたとしてもすぐに普通の会話状態に戻っちゃうと思うのです。ゲーム盤の上に乗っているのだと常に認識するための「あ」です。
「ゲームだよ」という合図としての「あ」。
そんなわけで、長くなりましたが、11月のせりか基金用のアート企画は、「あ」で会話することから始めるゲームです。
今日やることや今したいこと、未来について考えたことを「あ」だけで表現してみました。伝わりますか?
こちらの企画はみじんこショップから購入できます。
ご購入いただけたら、いろんな「あ」を描いてお送りいたします。
この記事は書いてるところを00:00 Studio(ふぉーぜろすたじお)という配信サイトで配信しながら書いていました。アーカイブも残しているので、もし気になる方はのぞいてみてください!
飽きっぽいので作業は分割平行作業することが多いのですが(絵を描く、文章を書く、何かをまとめる、みたいな作業をちょっとずつ並行してやってる)、今回は配信してることもあり、一気に書いた分、後半の集中力が落ち気味でした。
ライブ配信ってコメントを入れられるのですが、なんか質問あるーみたいな方はそこに入れてもらえると答えやすいかもです。
ではでは、のぞいてくださった方もありがとうございました!
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