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「夜の案内者」世界の摂理
列車に戻り、アサはいつものように車掌に乗車券を見せた。黒い乗車券を手に取った車掌は、それを両手で抱え、面を被った顔に近づける。無言のまま動かない。
「どうしたの?」
「切り取りましたね」
「え?」
車掌は乗車券の端を指でなでながら言う。
「この面がわずかに切り取られています」
鐘が鳴って急いでいたので、乗車券が本物なことしか確認しなかった。
「切れてると、なんかダメ?」
車掌は答えずに乗車券の端をなでつづける。
「いいえ、どうぞ」
アサは乗車券を受け取り、階段を駆け上がって列車に入る。車掌はネズミの後から車内に入ってきて、アサに向かって片手を伸ばして話しかける。
「気をつけてください。こういうことが起こると世界の摂理が崩れてしまいます」
列車が移動している間、アサはまた通路で絵を描いていた。黒いインクを水で薄めて指と手のひら全体で描く。紙の質感を感じ、インクと水の重みを指で感じながら混ぜていくうちに、紙の上に染みのような形が出来上がっていく。ネズミが筆を使って描かないのかと聞くと、アサは指で水と紙の質感を感じながら描くのが好きだと答える。
「お湯の中に浸かってると、自分がいなくなるような感じがしない?こうして指を水につけると、水と指の差が分からなくなるのね。自分が全部水になったみたい。自分という存在がなくなったみたいな感じがする。それが気持ちよくて好きなの」
アサは青い人たちのことを思い出す。彼らには『死』しか娯楽がなかったのだろうか。紙の上で指を動かしながら、死んだらどうなるんだろうね、とつぶやいてしまって、アサは黙る。ネズミはすでに死んでいるのだ。アサに解剖されて。ネズミの首の傷は、アサがハサミでネズミの首を切った時にできたものだった。皮膚がゆがむように切れている。肉を切る感触が、まだ指先に残っている。
死んでしまったものが幸福を感じられる世界とは、どんな世界だろうとアサは考える。ネズミはアサが絵を描いているのを見ながら、アサの横に立っていた。アサはネズミの視線を後頭部に感じて、顔を上げられないまま絵を描き続ける。
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小説投稿サイト「エブリスタ」で連載中の「夜の案内者」の転載投稿です。
物語のつづきはエブリスタで先に見られます。
▼夜の案内者(エブリスタ)
https://estar.jp/novels/25491597/viewer?page=1
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