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其之五 父と母との問答
「2階はピカピカにしょーるけぇ、あんた達がいつ戻ってくるのか心待ちにしょーるんで。」
母はそう言うと「ちっと待ちんさいよ」と父に電話を代わった。
「もしもし、マサか。突然どうした?」
「…あ、いや…」
突然、母から父に電話を代わったので、僕は狼狽えて速やかにまともな返答ができなかった。
「…あ、いや…もうそっちに戻ろうかと思って…」たどたどしく応える僕に父は見透かしたかのようにこう言った。
「そうか。戻ってくるのはいいが、仕事と家族はどうする?奥さんときちんと話し合っているのか?一人ではないんだから、その辺をきちんと段取りした上で戻ってきなさい。」
さすがに常識人の父だ。至極まっとうなことを言う。
正論をぶつける父を余所に、僕は自分の主張を述べる。
「今晩にでもそっちへ戻りたいんだ。」
「おいおい、戻ってくるな、と言っているわけではないんだ。むしろ戻って来て欲しい、と思っている。お前は何を急いでいるんだ?考えるべきは、お前の家族だろう。ユウコさんともきちんと話し合って、きちんと段取りを踏んでからにしなさい。子供の学校のこともあるだろう。一番タイミングとして良いのは、まあ年度替わりだな。」
父は僕に子供を諭すようにそう言った。
大人として、ましてや妻帯者として、当然に考慮しなければならないことだ。それは僕も良く分かっている。頭では理解しているし、むしろ仕事人としては、僕は人一倍、段取りや手順には“やかましい”ほうである。
ただその時の僕は、どうしようもなく虚しい想いを抱え、突発的に動きたい衝動に駆られていた。
父としてはかなり優しく、丁寧に言葉を選び話してくれたと感じる。ただ、ド正論であるため、すがりたい気持ちの僕にとってはタチが悪い。
僕がまだ幼い頃、バリバリ仕事をして上を目指していた父は、その当時でも最早珍しかった所謂“カミナリ親父”で、子供の戯言なぞひと言目から看破し、頭ごなしに要求を撥ね退けるような人であった。
そんな父は、僕にとって恐怖の対象でしかなく、成人してある程度社会人として仕事をしてきたのにも関わらず、僕にとって未だに臆する存在である。
「親父の言うことはよく解るよ。ユウコや息子達ときちんと話し合っていないのは事実だ。突発的にそっちに戻りたい、と言っているのも自覚してるよ。それでも今動きたいんだ。今晩、夜行バスに乗って福山へ戻るよ。」
無茶は自覚しているし、父からの承認は得られないだろうと半ば諦めながらも、自分の気持ちを伝えるだけはしておこうと、僕はまくし立てた。
「まあ、待て。何度も言うが戻って来るな、と言っているわけじゃない。しかるべき順序でやるべきことを行った上で来い、と言っているのが解らんのか?決して難しいことではないだろうが…」
僕の言動に呆れたのか、そう言って父は電話を母に代わった。
「あんた、会話が聞こえとったけど、今日の晩に戻るゆーんは本気か?」
と電話を代わるなり母は言った。どこか声が弾んでいる。事情はどうあれ、我が息子と久しぶりに会えるかもしれないのは嬉しいようだ。
母の弾む声色で先程までの緊張感が一気に無くなり、僕はまるで別人のようにはっきりと断言した。
「ああ。今晩夜行バスに乗って福山に戻るよ。バスのチケットはまだ購入してはいないけど。」
「まあ、ええわ。解ったわ。しばらくこっちでゆっくりしなさい。お前も色々あったんじゃろう?心配せんで、お父さんには私から言うとくけぇ。」
「悪いな。いい年こいてシャンシャンせん息子で。」
「何を言ょーるんな!自分の子供は、一生子供で。そがなことはいちいち気にすな!ただし、ユウコさんにはきちんと話をしてから来るんよ。」
「解ってる。それじゃあ、また明日。」
電話を切ると、僕はスマホに向って東京から福山への夜行バスの空きがないかチェックを始めた。
コロナ禍のこの世情なので、当日予約もたやすいと思い込んでいたが、いざ調べてみると、そもそもの本数が少ないのもあって、どこのバス会社も東京駅~福山駅は“空席無し”だった。
費用は高くついてしまうが、新幹線を使おうか検討していると、予約サイトに東京駅発~岡山駅行に空きがあるのを見つけた。東京駅出発が午後9時で岡山駅到着の時間は午前8時とある。
岡山駅からなら福山駅まで電車で1時間程度だ。
「これなら9時頃に福山に到着するから丁度良い」と思い、すぐに予約画面へと遷移させた。氏名や住所等の情報を入力し、最後の予約確認画面へ。
大見得を切ったが、いざ本当に予約するとなると、話が一気に現実的となる。実家とはいえ距離にして700㎞以上の移動だ。しかも9年振りだ。物理的距離も心的距離も近くはない。
予約ボタンを押せば、もう後戻りはできない。僕は予約確認画面を眺めながら、公園のベンチで改めて考え込んでしまった。
「今ならまだ、叔父や両親に謝ればなんとかなる。」
「いや、一旦言葉にした以上は実行しないと男が廃る。二言は恥だ。」
対極の考えが自分の中で、堂々巡りする。
「よし!悩んでいてもしょーがない。こうなったら最終手段だ!」と僕は息巻き立ち上がった。
そこから近くのコンビニまで走り、500mlの缶ビールを購入。そう、最終兵器とは、情けない話だがアルコールのことだ。
そそくさと公園に戻り、昼間なのにも関わらず缶ビールのプルタブをプシューと開け、500mlをほとんど一気飲みする。
「本当に決めた!今晩出発する!」
アルコールの力を借りて僕は、予約確認画面の“予約する”のボタンを力強く押下した。
つづく