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其之二 “じいちゃん”と“しんくん”
僕には3人の父親がいる。
1人は実の父なのだが、あとの2人は祖父と叔父。
三者三様のキャラクターで、僕の人格・思考・言動は、この三人から構成されている。
今回は、祖父と叔父について紹介したい。
まずは祖父について。
祖父は8年前、2013年6月末に他界した。84歳だった。
死因は老衰。一般的に言えば天寿を全うした、という事になるだろう。
十代半ばで太平洋戦争に徴集され「東京の中野まで試験を受けに行った事がある」という事が専らの自慢だった。
新幹線も開通しておらず、民間の航空会社も存在しない時代に、広島県の片田舎から花の都、東京へ行った事があるというのは、地元では英雄視されたに違いない。
軍隊での祖父の役目は通信士。所謂モールス信号を駆使し情報交換に従事していたそうだ。まだ下っ端だった祖父は、それほど主要な業務には当たっていなかったかとは思うが、業務の役割上、“終戦”についても8月15日の玉音放送より一足先に知りえる事ができたそうである。
毎年毎年、終戦日の8月15日前後になると、僕らにメッセージを伝えるように戦時中の記憶を語る祖父が、僕は大好きだった。
そして祖父は終戦後、通信士だった事もあり政府の斡旋で郵便局に就職する事になるも、すぐに辞めてしまい、先祖代々所有している土地で果物農家をしばらくやったそうだ。
転機は27歳の時、知り合いづてで植木職人に弟子入りした事だろう。30歳を越えた頃には独立し、親方として75歳まで現役を続けた。
75歳の時、お客様の庭で木の剪定をしている作業中、寄ってくる蜂を振り払おうとして脚立から落下。
その際に頭を強打し、客先から病院に担ぎ込まれた。頭を打った衝撃で脳梗塞も併発してしまい、病院では右半身に麻痺が残るだろうと診察された。
気丈な人だった。
地元では高名な武家の末裔として生まれ、6人兄弟の長兄である祖父は、幼い頃から武家の長男としての教育を受けてきたそうだ。そのような教育を受けた最期の世代の人間かも知れない。習わしなのか不明だが、一家の大黒柱として終戦後もしばらく家族・兄弟達を食わしていたそうだ。
客先からの救急搬送の後、しばらくの間、祖父は入院を余儀なくされた。その際、身体が自由に動かせなくなった祖父は、所謂“シモ”の世話も病院の人にしてもらわなければならない。
それを嫌がった祖父は、便意を催しても担当者を呼ばず、自らベッドの上で“コト”を済まし、どこからか調達してきたビニール袋の中へとその排泄物を入れ、見つからないように隠していたそうだ。
“武士は食わねど高楊枝”ではないが、体面を保つ気風はまさに古き侍の矜持の名残である。
そんな祖父が56歳の時、待望の初孫として僕は生まれた。
僕への溺愛ぶりはすさまじく、職人気質でどちらかといえば偏屈な祖父が、僕にはとことん甘かった。
幼い頃は祖父に怒られた事もないし、おねだりすれば大概のものは買ってもらえたように記憶している。そんな感じなので、僕は常に祖父の後ろをついて回るような子供だった。
続いて、しんくん。
“しんくん”とは叔父の昔からの愛称だ。これまで“おじさん”と呼んだ事は一度もない。年齢は僕の二回り上の丑年の60歳。
今から30年以上前、1980年代半ばから1990年代初頭、大手保険会社に勤め法人営業でしこたま稼いた叔父は、一年に一度は車を買い換え(しかも外車)、連れている女性も毎回違う。
そんな煌びやかな人だった。
その世代の多くがそうであったように、まさにバブルの恩恵を有り余るほど享受していた。現在の日本経済とは大違いで隔世の感がある。当時は好景気が地方まで浸透していたようだ。
さらに叔父はピアノマンだった。ヤマハのポプコンに出場しては毎回良いところまで行くようだが、ついにバンドデビューの夢は叶わなかったそうだ。その際、しのぎを削った音楽仲間の中には今でも業界で第一線で活躍している人もいるらしい。
僕が物心ついた頃には会社員になっていたが、ピアノは続けており、地元のテレビのCMに作曲した曲が採用される程だった。
休みの日の夕方はピアノの練習の時間で、よく聴いたのがビートルズやカーペンターズのスタンダードナンバーをジャズ調にアレンジしたものだ。
叔父ならではの世界観と軽快なハネた節回しが独特で、とても心地良い演奏である。技術が叔父以上のプレイヤーは山ほどいるだろうが、僕はこれまで叔父以上のかっこいいピアノの演奏を聴いたことがない。
このように多彩な叔父は、30歳を越えた頃に大手保険会社に勤めながら、週末を活用してサイドビジネスを始める。
内容は結婚相談所。独身の男女を募り会員登録してもらい、週末に婚活パーティーを開催するというモデルだ。
今でこそ様々な形で男女のマッチングはビジネスになっているが、1990年代半ばで結婚相談の事業を始めるのは先見の明があったように感じる。地方なら尚更だ。
当時は地元の情報雑誌に広告を掲載すると、入れ食い状態で人が集まったそうだ。
週末だけでもそれなりの収益をあげていたため事業に本腰を入れるべく、十数年務めた大手保険会社を退職し、気が付くと叔父は会社員から会社社長となっていた。
振り返ると、僕の中の“ビジネス”の原風景は、地元の情報誌に掲載された叔父の会社の広告だ。
仕事人として僕は、叔父をずっと追いかけているのかも知れない。
つづく