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11月12日は孫文の日(架空記念日ブログ)

おはようございます。本日は令和5年11月12日(日)現在の気温は10°(スマホ調べ)一昨日の雨から一気に寒くなりましたね。先週は冷房を入れてたのに、今は暖房を付けて震えながら過ごしています。

さてさて、今日の日本記念日協会の記念日数は10、昨日の63と比べると可哀想になってきますね。昨日も今日も同じ1日ですのにね。

102年前の1921年11月12日にワシントンD.C.で世界で初めて国際軍縮会議(ワシントン会議)が行われました。これは第一次世界大戦後の太平洋極東問題を解決すると言う名目ですが、第一次世界大戦の間隙をついて中国を切り取りまくってた大日本帝国にお灸を据えるのが目的でした。参加国は大日本帝国、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの計9ヶ国。日本は切り取った中国の領土を返還して、これ以上新しい領土を求めない事を約束させられるのですが、聞かん坊の大日本帝国は1931年に満州事変、1937年に日中戦争(支那事変)さらには1940年には当時フランス領だったインドシナに兵を進軍しようとしていました。これらの単独行動が世界中の怒りを買い、第二次世界大戦に繋がるのでした。

ワシントン会議の日本首席全権委員を務めた
加藤友三郎海相(1861-1923)

今日の架空記念日は?

157年前の今日

1866年11月12日清国広東省香山県翠亨村の貧しい農家に三男として生まれました。その男は後に「中国革命の父」と呼ばれました。はい、今日は孫文を見ていこうと思います。日本に2度の亡命して、中山 樵(なかやま きこり)と名乗っていた時期もあったそうです。本日もよろしくお願いします。

孫文(1866-1925)

革命家になるまで

孫文9歳の時に父は他界、12歳の時に地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供達と破壊した事で手に負えないと兄の監視下に置かれることになる。当時兄孫眉はハワイ王国にいた為、1878年オアフ島ホノルルに移住。同地のイオラル・スクール(高校と同等)を卒業。同市のプナホウ・スクールにも学ぶと、西洋思想に目覚め、キリスト教に傾倒する孫文を母と兄が心配して、中国に戻される。中国に戻ると当時イギリスの植民地だった香港の香港西医書院(現在の香港大学)で医学を学び、ポルトガルの植民地マカオで医師として開業した。 

香港の洪聖廟、海の神様と言われている。

興中会結成

清仏戦争(1884-1885)から政治問題に関心を抱き、1894年11月24日ハワイで興中会を立ち上げる。興中会は華僑や党会員で編成されている清朝打倒を目指す革命団体。スローガンは「駆除韃虜、恢復中華、創立合衆政府」(タタール人を排除し、中国を復興し、連邦政府を樹立する※Google翻訳)
日清戦争(1894-1895)の直後、1895年10月10日広州で蜂起する(広州蜂起)が密告により失敗に終わり、メンバーの陸皓東(孫文の幼馴染1868-1895)が処刑され、孫文は日本に亡命した。

日本亡命

1897年宮崎滔天(日本の社会運動家1871-1922)に玄洋社(旧福岡藩士が中心となった政治団体)の頭山満(玄洋社メンバー1855-1944)を紹介してもらい、頭山を通じて平岡浩太郎(玄洋社社長1851-1906)から東京での活動費と生活費の援助を受けた。住居は早稲田鶴巻町の二千平方メートルの屋敷は当時衆議院議員だった犬養毅が用意した。

犬飼毅(1855-1932)

倫敦被難記

1899年に義和団の乱(秘密宗教結社義和団に清国が賛同して欧州国に宣戦布告するが直ぐに連合軍に鎮圧される)が発生し、国内の混乱に乗じて恵州で挙兵するが失敗に終わる。孫文は広州蜂起以来、清朝の裁判所から国際指名手配を受けていた為にイギリス滞在中の1896年10月11日に大使館職員に拉致され清国に送り返された。その経験を本に執筆し「倫敦被難記(ロンドンの大惨事)」と言うタイトルで発表すると。世界的に革命家として有名になった。1904年にアメリカ国籍を取得し、革命資金を集めるために世界中を回った。

1896年10月31日イギリスの「グラフィック」紙
孫文が釈放されたと報じた。

日露戦争

1905年日露戦争(1904-1905)で日本が勝利した。エジプト人が日本の勝利を喜んでいるのを目の当たりにして、この勝利に有色人種の意識が向上していると感じた。同年、宮崎滔天らの援助で、東京都池袋で興中会光復会華興会を糾合して中国同盟会を結成した。この時に中国同盟会のメンバー陳其美(1878-1916)を介して東京に留学中だった蒋介石(後の中華民国初代総統)と出会う。

蒋介石(1887-1975)

中華民国建国

1911年10月10日孫文に影響を受けた共進会と同学会の指導のもと武昌蜂起が起き、武昌と漢陽を武力制圧した。それが発端で辛亥革命(1911-1912)まで発展した。そして武昌で革命軍が捕らえた湖北将校の黎元洪(1864-1928)を都督として、中華民国軍政府の成立を宣言した。清国は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言した。1911年12月29日上海で孫文が中華民国臨時大総統に選出され、1912年1月1日中華民国臨時政府が南京で成立した。同年2月12日に清国最後の皇帝宣統帝が退位し、清国が滅亡した。

宣統帝 愛新覚羅溥儀(1906-1967)

まとめ

革命家孫文のお話はここまでです。この後は政治家孫文となりますのでまたいずれかの機会に書きたいなと思います。それにしても革命家っていうと過激なイメージがあるけど、人に好かれて無ければここまで協力者は現れないですよね。本当にすごい人です。

今日のさわだくん

111日チャレンジ35日目

栄光の架橋/ゆず

2004年7月22日リリース、ゆず21枚目のシングル曲。NHK『アテネオリンピック中継』公式テーマソング

あとがき

今日はお仕事ですので、夕方から出掛けます。午前中はあーちゃんを病院に連れて行きました。15歳の老猫ですので、飲み薬は欠かせないのです。定期的に先生に見てもらうのも安心出来ますよね。それではまた明日。