11月17日はスエズ運河開通の日(架空記念日ブログ)
おはようございます。本日は令和5年11月17日(金)です。今日は夜勤明け、ただ今12時12分所要を済ませて電車に乗ったところです。久しぶりに通勤経路から離れていたので金山駅の筑豊ラーメンの麺屋原宿を目指したのですが、すでに行列が出来ていたので退散。もう少し早く着く予定でしたが、着いたのが12時、流石に無理ですよね。
178年前の1845年11月17日にフランスの小説家ヴィクトル・ユーゴがフランス文学史上屈指の名作『レ・ミゼーラブル』の執筆を開始しました。それから17年の月日を経て1862年に出版されます。
今日の架空記念日は?
154年前の今日
1869年 スエズ運河が開通しました。
スエズ運河とは地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断する人口海面水路で、1859年〜1869年にかけて、スエズ運河会社のチロルの土木技師アロイス・ネグレッリ指揮の元建設され、1869年11月17日に開通しました。
アイロス・ネグレッリという人
1799年1月23日にイタリア北部ドロミテのフィエーラ・デ・プリミエーロでイタリア語を話す父親とドイツ語を話す母親(共に人種不明)の間に生まれました。ネグレッリ家は裕福でアイロスは10人兄弟の7番目、当時はルイージ・ネグレッリという名前でした。
かつてこの辺りはチロル郡と呼ばれ、オーストリア帝国の統治下にありました。ロマンス語(後のラテン語)を話す南チロル人、ウェールシュチロルの血統の一員として、父親の姉の一人はナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍とバイエルン軍による祖国占領を反対し、1809年に起きたアンドレス・ホーファーによるチロル反乱(第5次連合戦争)を積極的に支援した。反乱軍が敗戦するとアイロスの父親は何年にも渡って投獄された。
学生時代
反乱軍の支援により、家族が財産のほとんどを失った為、アイロスと彼の兄弟達のために質の高い教育を受けるのにとても苦労しました。しかし、その苦労が政府当局に功績として認められ奨学金を受けられる事となりました。
1812年アイロスと兄弟達はフェルトレの中学校に通った。
1814年にようやく父親帰還
1817年に首都インスブルックで学んだ。
土木工学
1818年にオーストリアのインスブルック建設省の助手として働き始める。
1825年からフォアアールベルクで働き、ベレケンツに居住した。この時にリンゲナウに橋を建設した。その他にもアルペンルートとそれに関連するオーストリアとスペインの流通に関わる建築物に携わり多くの名声を得ました。
1835年アイロスはチューリッヒ(スイス最大都市)にも依頼され同じように流通に関わる建築をした。その中でもスイスの建築家フェルディナンド・シュタドラーとリマト川を渡るミュンスター橋の建設に取り組んだ。
鉄道建築
1836年から、アイロスはこの国で最初の鉄道路線の計画を立てました。このスイス北方鉄道は1846年にアイロス監督の元、チューリッヒからバーデンまでを繋いだ。
1837年にインスブルックからクーフシュタイン間の鉄道の創設を提唱し、そのための予備計画を作成、これがそのプロジェクトの基礎になりました。
1839年にコルンハウス(穀物倉庫)を建築する。この倉庫は後にトーンハレ(コンサートホール)になった為、1895年に別の場所にまたコルンハウスを作りました。
1840年にオーストリアに戻り、私設の皇帝フェルナンド北鉄道の監察官に任命される。
1842年に北鉄道線の監察官に任命される。アイロスはウィーンからプラハを経由してドイツ国境に至る鉄道路線の建設を担当しました。ドイツのドレスデン市からオストラヴァ経由でポーランドのクラクフ市までの鉄道と、さらに東のロシア国境まで延長する準備もした。
1846年から1849年にかけて、モルダウ川を渡る鉄道橋、ネグレリ高架橋の建設を指揮。1,110mのこの橋は1910年迄ヨーロッパ最長でした。
1848年にカール・フォン・ゲーガ指揮する山岳地帯のゼメリング鉄道の建設にコンサルティングするなど、ヴュルテンブルグ王国やザクセン王国などからもコンサルタントを求められました。
1849年に公共の建物、鉄道、電信線の工事を監督。ポー川の交通を規制する委員会の仕事で、オーストリア領ロンバルディア王国ヴェネツィアを視察した。
1950年にモルダウ川とエルベ川での建築が評価されて、リッターの称号を持つ貴族の位を与えられる。
1855年から1857年まで新しく作られる帝国王立特権オーストリア国営鉄道会社(後のインペリアル・ロイヤル・プリビレッジド・オーストリア国営鉄道会社)の監察官に任命される。
スエズ運河
1836年頃から他の多くの技術者同様、地中海と紅海を結ぶ人口水路を建設する可能性を考えていた。
1846年フランスのバルテルミー=プロスペル・アンファンタン(サン・シモニズム創始者)にスエズ運河教育学会に招待される。
1847年にスエズ地峡の視察に参加
1848年に1848年革命(ヨーロッパ各地で起きた、ウィーン体制の崩壊を招いた革命)が起きたため、スエズ運河教育学会は活動を停止した。その頃アイロスはロンバルディア・ヴェネツィア(現在の北イタリア)に派遣されていた。
1855年フランスの外交官フェルディナンド・デ・レセップスに招待され、スエズ地峡穿孔国際委員会に参加した。委員会は7カ国13人の専門家で構成され、フランスの冒険家リナン・ド・ベルフォンによって作成された計画を検討した。
1855年末から1856年初めにかけて、エジプトで測量。
1856年6月にパリで行われた最終審議で、水門の無い運河と西に北側の入り口を設けるという、アイロスのアイデアが採用されて、最終報告書が作成された。
1858年にフェルディナンド・デ・レセップスによりスエズ運河会社を設立。この会社がスエズ運河を建設することになった。
1858年10月1日アイロスは食中毒が原因で他界する。工事着工半年前の出来事だった。
1859年から始まった工事はエジプトの強制労働者など30,000人を常時使役しながら10年の月日を要した。様々な国から約150万人がこの労働に従事した。
1869年11月17日スエズ運河は開通した。
まとめ
スエズ運河に関わった人を一人ピックアップしようと書き始めたのですが、すごい鉄道王、インフラ王でしたね。そしてまさか工事着工前に亡くなるとはびっくりしました。この工事には奴隷制度を各国が廃止する中で、大量の強制労働者を使役した事が大きな問題となり、馬鹿高い通行料の問題も含めて各国から猛烈な野次が飛びながらの完成でした。しかし渡航期間の短縮は何より勝るメリットになったからこそ、今でも利用されているのが何よりの証拠ではないでしょうか。
スタジオジブリ週間3日目
111日チャレンジ40日目
風になる/つじあやの
映画『猫の恩返し』は2002年7月20日公開、森田宏幸監督作品。映画『耳をすませば』の主人公月島雫がが書いた設定のスピンオフ作品。漫画家柊あおいが書き下ろした『バロン猫の男爵』が原作。キャッチコピーは「猫になっても、いいんじゃないッ?」主題歌はつじあやのの『風になる』
『風になる』は2002年6月26日リリース。つじあやの6枚目のシングル曲
あとがき
このあとがきを書いているのは18日です。昨日はちょっと忙しくて書ききれなかったので2回に分けてアップしました。今日のアイロスさんはWikipediaの日本語版に無かったので、英語版を見ながら書きました。ほとんどは翻訳できるのですが、直訳なので言い回しが無茶苦茶でそれを言い直すのに四苦八苦しました。
今晩は知り合いのお宅で日本酒の会がありますので、つまみやら日本酒などを先程買ってきました。誰かに喜んでもらうのを想像しながらの品選びはとても楽しいですよね。
今は井端ジャパンのオーストラリア戦をAmazonプライムで視聴しながらこれを書いています。岡林に初ヒットが出てホッとしました。それでは今日のを今から書きます。