10月29日はクルス・アイスナーの日(架空記念日ブログ)
おはようございます。
本日は令和5年10月29日(日)です。今から105年前の1918年10月29日、第一次世界大戦の真っ只中、4年間という長い年月戦い続けたドイツ海軍はついに水兵がボイコットし出撃を断念しました。中央同盟国軍の中心であったドイツ帝国の戦闘不参加はそのまま終戦(11月11日)へと繋がりました。その後に起こったミュンヘン革命でドイツ帝国は崩壊するのですが、今日はそのミュンヘン革命の中心人物の1人クルト・アイスナーをご紹介します。
今日の架空記念日は?
クルス・アイスナーという人
1867年5月14日ユダヤ人の息子としてベルリン州で生まれます。フンボルト大学で哲学とドイツ学を学び、卒業後は「フンボルト新聞」などの様々な新聞社の編集に携わりました。1892年に結婚し5児をもうける。フリードリヒ・ニーチェ(この人は本質を先に立たせて物事を考える実存主義)を批判してちょっとした有名人になる。皇帝ヴェイルヘルム2世を攻撃する記事を執筆して不敬罪として9ヶ月投獄される。
社会民主党
1898年にドイツの社会民主党に招聘されて、機関紙「前進」の編集員になり社会民主党に入党する。1900年に編集長のヴィルヘルム・リームクネヒト(ドイツ社会民主党の創設者)が死去すると最初の伝記を書く。しかしエドゥアルト・ベルンシュタインの修正主義(階級の無い社会を目指すマルクス主義に重大な修正をしようとする思想)を巡って対立、多数の教条主義(偉い人の言う事を深く考えず従う事)を抱える編集部を去りました。この頃に妻とも離婚している。1907年にニュンベルト(バイエルン州)に移り社会民主党系の編集員になる。その後ミュンヘン(バイエルン州)の新聞社に移る。1917年に再婚2児をもうける。
平和主義
1914年に第一次世界大戦が勃発、アイスナーは当初は戦争に賛成していたが、しかし戦争が塹壕戦となって一向に終わらず、犠牲者を無限に生み出す戦争に嫌気がさして平和主義に転じました。この戦争の首謀者が最初こそロシア帝国だと信じていたが、ドイツ帝国だと思うようになると、戦争を肯定する社会民主党に不満を持ち、クララ・ツェトキン(女性解放運動の母)やアルベルト・アインシュタイン(理論物理学者)と共に反戦団体「新ドイツ連盟」に加入する。
無血革命・暫定首相
1917年に社会民主党から反戦派が分離して結党すると、その独立社会民主党に入党し、バイエルンの党代表に就任する。翌年、労働者デモを煽動したとして反逆罪で逮捕される。敗戦濃厚になった1918年10月に釈放されると、敗戦とドイツ革命の混乱の中でバイエルン王家打倒を叫ぶ革命を組織する。11月7日ミュンヘンで大集会。11月8日労働者・兵士評議会(レーテ)で王政廃止とバイエルンの共和国化を決定。暫定首相に選出される。社会民主党及び独立社会民主党からなる臨時内閣を組閣。国王ルートヴィヒ3世はオーストリアに亡命して、ここに無血革命が完了した。
まとめ
この後、暫定首相は100日間続いた。改革はその後の選挙後に行う手筈だったが、アイスナーの社会主義化政策は受けいられなかった。その頃アイスナーは左翼から批判されていた。共産党は失業者4000人を動員してミュンヘンの社会省を占拠しようとする。警察で阻止し、共産党指導者を逮捕させるが、デモの圧力に負けて釈放する。共産党と無政府主義者は選挙のボイコットを呼びかける。結果1912年1月12日の選挙ではバイエルン人民党35%で第一党、社会民主党が33%で第二党、アイスナーの独立社会民主党は僅か2.5%で惨敗、アイスナーは辞任した。1919年2月21日連合軍のスパイと右翼将校アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライとトゥーレ協会の学生に襲撃され、頭と背中に銃弾2発を受け即死した。
今日のさわだくん
111日チャレンジ21曲目
サボテンの花/チューリップ
1975年2月5日リリース、チューリップ8枚目のシングル曲。1993年4月21日に財津和夫のソロでセルフカバーしている。
あとがき
昨日、宮沢和史のライブを観に幸田町民会館に行ってきました。
2時間半、全18曲。古い曲も聴けたのでとても楽しかったです。
セットリストが無かったので暗闇の中、レシートの裏に必死にメモしてました。最後は谷村新司さんを追悼してるのかなと思いました。
入場前に近くの鶏そば小路でお昼ご飯を頂きました。鶏スープが濃厚でとても美味しかったです。
それではまた明日。