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10月25日は天草四郎時貞の日(架空記念日ブログ)

おはようございます。
本日は令和5年10月25日(水)です。
寛永15年(1637年)10月25日(12月11日)天草四郎による島原の乱が起こりました。本日は島原の乱の日になっているので、この戦の中心人物、天草四郎こと益田時貞さんについて書きたいと思います。それでは本日もよろしくお願いします。


今日の架空記念日は?

益田時貞という人

1621年肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市旭町)で生まれ育ったってのは時貞の母が取り調べを受けた時の申し立てにより明らかになっています。生まれながらにしてカリスマ性があり、小西行長の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化されました。

・盲目の少女の目を時貞が触れただけで見えるようになった
・手から鳩を出した(マジックかよ)
・天草から島原の間にある湯島まで海面を歩いた
・豊臣秀頼の落し子

これらは聖書にも記載されている、キリストが行った奇跡と同一、時貞を神格化するためにこう言った噂を流したと言われています。

天草四郎

予言の子

また時を遡って1614年に宣教師ママコスが「25年後に天変地異が起きて人類は滅亡の危機に晒される。しかし、天人に扮する16歳の少年がキリストの教えに帰依する者たちを救う」と言って日本を去ったと言われています。

この予言の子が時貞ではないかとなった為、より時貞が神の子となったわけです。1614年の25年後の1639年に16歳というと、1623年に生まれた事になります。時貞はその頃18歳ですがその辺りはモヤッとしますね。

天草四郎像(熊本県上天草市)

キリスト教弾圧

当時ポルトガルやスペインとの公益はキリスト教の布教がセットでした。日本国民約1200万人中50万人がキリスト教の信徒でした。1549年にフランシスコザビエルが初めて日本にキリスト教を布教してから50年で爆発的な増殖でした。

フランシスコ・ザビエル

また鉄砲の原料は貿易を頼るしかなかった為、いわゆるキリシタン大名の元には軍事物資が多く集まり、どんどん力を付けていたり、キリシタンによる日本の神社仏閣の長い活動など見過ごせなくなっていました。秀吉も宣教師を排除してキリスト教が広まらないような政策をとってましたが、信仰は許してました。それでは意味がなかったと家康は弾圧しようとかんがえたのです。

1610年デウス号事件、1612年の岡本大八事件を経て家康はいよいよ禁教令を施行します。

・キリスト教の布教禁止
・キリシタンを検挙し、信仰を捨てさせる(棄教)捨てなかったものは改易処分(身分剥奪)
・キリシタン寺院の破壊
・キリシタン宣教師の国外追放

これらは京都や江戸、長崎などを中心に施行されて来ましたが、1616年に家康が亡くなり、秀忠が跡を継ぐと日本全国に対してキリスト教を禁止します。

島原の乱

キリシタンの弾圧はただキリスト教を棄教させられるだけではなく、人間の尊厳まで奪い去りました。各地領主による重課税、そして執拗な取り立て。一揆が起こった背景にはあくまでも生活に困窮していたのが1番の原因であり、キリスト教は理由の一つに過ぎません。そして島原の各地で起こった一揆の中心人物として、まだ少年であった時貞が担ぎ上げられたのです。

1637年10月25日 キリシタンを中心に強談に赴き代官の林兵左衛門を殺害、これをきっかけに島原各地で一揆軍が結成される。

島原藩はすぐに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と衝突するがすぐに島原城に籠城する。

数日後、天草でも一揆が蜂起

11月14日に天草四郎率いる一揆軍は本土城な攻め込み、富岡城代の三宅重利を討ち取る。そのいきおいで富岡城を落城寸前まで追い詰めるが、九州諸藩の幕府討伐軍が天草に近づいている事を察知し、島原半島の廃城の原城に立て篭もる。ここで島原と天草の一揆軍は合流するその数37000人

原城の遺跡

原城は廃城とはいえ、強固に作られており、12月10日と20日の板倉重昌率いる幕府軍は総攻撃をするが悉く敗走する。戦意の高い一揆軍に比べて、寄せ集めの幕府軍は板倉重昌の身分が低く諸大名が従わなかった為統率が取れず戦意も低かった。自体を重く見た幕府は老中松平信綱と副将戸田氏鉄を派遣をした。功を奪われる事をおそれた重昌は、信綱到着前の1月1日に総攻撃をかけるが強引な突撃だった為、さらに4000人の被害を出し重昌も討死する。この知らせを聞いた幕府はさらに水野勝成と小笠原忠真を派遣。幕府軍は12万人まで膨れ上がった。

原城落城

信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者を原城に忍び込ませて、原城の兵糧が少ない事を知ると兵糧攻めに切り替えた。投降すれば命を助けると書いた矢文を場内に射たり、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投稿を呼べかけさせるが全て上手くいかなかった。ある日の小競り合いで討ち取った一揆軍の胃を解剖すると海藻しか出てこなかった為、兵糧が無くなった事を知る。

2月28日総攻撃前日の鍋島勝茂の抜け駆けによりそのまま総攻撃が始まる。兵糧も弾薬も尽きていた一揆軍はこの総攻撃により壊滅、原城は落城した。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しされる。

この一揆の代償として島原藩主松倉勝家の斬首と唐津藩主寺沢堅高の天草領没収された。

まとめ

もともとは関ヶ原の戦いの功績で1600年に与えられた唐津初代藩主寺沢広高が天草の石高の算定を間違えて、本当に取れる石高の倍以上で見積もった為に、領民常に困窮していたと考えられています。この算定方法が是正されたのは島原の乱の30年後と言われていますが、時間のかかった理由として島原の乱で4000人にまで激減した人口を元に戻す為だったとか。

一揆をした人たちは幸せになれなかったけど、その後の人たちの影響は計り知れないですね。

今日のさわだくん

111日チャレンジ17曲目

星空のディスタンス/THE ALFEE

1984年1月21日リリース、THE ALFEE17枚目のシングル曲。前作の「メリーアン」がヒットせて全国的に知られるようになりその次作としてとても期待されている中のリリースとなりました。THEALFEEとしては2番目に売れた客となります。

子供の頃ベストテンで毎週見てたけど、調べたら1984年2月9日から、5月3日までの3ヶ月間ランクインしてたとか、そりゃ覚えてますよね。

あとがき

今週末は宮沢和史のライブに幸田町まで行って来ます。なんで幸田町なのか謎ですがとても楽しみ。新曲の「午前0時の近影」歌ってくれるかな〜

それではまた明日。