10月21日は黒田如水の日(架空記念日ブログ)
おはようございます。
本日は令和5年10月21日(土)です。423年前の今日1600年10月21日に関ヶ原の戦いがありました。NHK大河ドラマ「どうする家康」も秀吉が亡くなってそろそろこの辺りの事が出てきそうですよね、という事で今日は関ヶ原の戦いに関連したお話を脱線したりしなかったりしたがら書きたいと思います。
今日の架空記念日は?
黒田官兵衛孝高という男
1546年11月29日播磨国姫路に黒田職隆の嫡男として生まれる。よく嫡男って聞くと思いますが、嫡男は正室が産んだって意味で、側室が最初に産んで長男になりますが、その後正室が男子を産んだ場合、次男ではあるが嫡男となり跡取りとなります。正室が産んだ子供は嫡子と称し女子の場合は嫡女、側室や正室以外が産んだ子供は庶子と称されます。そして嫡男の嫡男は嫡孫、嫡男が代々続くと嫡流と呼びます。
赤松家のお家騒動
1558年頃に黒田家の社長にあたる播磨守護赤松家でお家騒動が起こります。浦上政宗に擁立された赤松義祐が父赤松晴政を追放して置塩城と家督を強奪。その父を龍野城主で娘婿の政秀が匿ったことにより、本家赤松家と龍野赤松家が対立。晴政が亡くなった時に一度は和睦するが、政秀は本家の言う事を全く聞かず冷戦状態が続く。
足利将軍の激文
1567年に放浪中の足利義昭の激文が本家ではなく赤松政秀の元に届く。政秀はすぐに行動を起こし義昭と懇意にする。1568年に義昭が織田信長の助けで上洛を果たすと政秀は自分の娘を将軍の侍女として側使えさせようと京に向かわせる。
お家騒動リターンズ
一連の赤松政秀の行動は播磨の守護を狙っているに違いないと確信した赤松義祐は、小寺政職(職隆の直属の上司)に政秀の娘の身柄を拘束するように要請、浦上宗景(政宗の弟)に龍野城に攻め込むように要請、自身も挟撃しようと兵を出した。1969年2月政秀の娘は京に着くことが出来たが義祐の攻勢が止まず、足利義昭に助けを求める。
信長の介入
赤松政秀から救援を求められた足利義昭は、織田家に播磨攻略を促す。そこで信長は池田勝正ら摂津国衆を政秀救援に向かわせる。それと同時に宇喜多直家が備前で浦上宗景に対し謀反を起こした為、龍野城攻めをしていた宗景は備前に兵を返します。一転優位に立った政秀は赤松義祐に従った、小寺政職の御着城の支城の黒田親子の守る姫路城に攻め込んだ。
青山の戦い
1969年5月に赤松政秀は3000人の兵を率いて出陣する。黒田軍のほとんどは赤松義祐と一緒に置塩城に篭ってしまった為、手勢は300人程しかなかった。そこで黒田孝高は守りに向いてない姫路城(当時は支城で簡素な作りだった)での籠城を諦めて野戦で挑むべく、姫路城西の青山に兵を伏して、政秀軍を奇襲で撃退した。
土器山の戦い
翌月の1969年6月、赤松政秀と3000人の兵が小丸山に布陣した為、対する黒田軍は父黒田職隆と150人の塀を姫路城に残し、黒田孝高と残り半分の150人の兵は夢前川東岸にある土器山に陣を張った。最初に動いたのは孝高の夜襲だった。しかしいくら夜襲とはいえ多勢に無勢で孝高の軍は窮地に陥る。なんとか夜明けまで粘ると英賀城主の三木通秋の救援と父職隆が政秀軍の背後をついた為救われる。政秀の軍も優勢のまま小丸山に戻った。
夜襲に次ぐ夜襲
甚大な被害をおった黒田軍だが、このまま待ってても勝ち目は無いと、黒田孝高はもう一度残った兵全員で夜襲をする事を提言する。家臣の母里武兵衛に「これだけ傷を負ったものに出陣しろとは、死ねって事ですね」と言われて、孝高は「恐らくそうなるだろう」と答えるしか出来なかった。
笑えない勝利
その日の夜、黒田孝高が先鋒、黒田職隆が殿といった布陣で小丸山の赤松政秀軍を急襲した。圧倒的な優勢さと黒田軍の被害の多さを見て、夜襲は無いと予想していた政秀軍はこの奇襲に混乱し、敗走した。黒田軍は敗走する政秀軍を追撃し数百人は討ち取ったが、300人中287人が死傷者と壊滅的な状況だった為、途中で追撃を断念した。先に書いた、母里武兵衛も孝高と一緒に先陣を切り、7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げた。
奇襲の官兵衛
はい、今日は黒田官兵衛孝高の日になりました。数あるエピソードの中から青山・土器山の戦いを選んだのは、ストレートに官兵衛の凄さがわかると思ったからです。奇襲でなんとかなった戦は稲葉山城の戦いや川越城の戦い(桶狭間の戦いは後に奇襲では無いと史実が覆されています)など数ありますが、ここまで絶体絶命なものはなかったと思います。
第3の勢力
そして、なんで関ヶ原の戦いで黒田官兵衛なんだ?と思うでしょうが、戦の無い世の中にしたいと博愛の精神で秀吉を助けた竹中半兵衛に対して、官兵衛はとてつもない野心家でした、その黒い心を豊臣秀吉は恐れて豊前国に飛ばして小さい城に封じ込めようとしたくらいです。そして関ヶ原の戦いでも官兵衛は日本統一を諦めていませんでした。関ヶ原の混乱に乗じて九州を統一して、徳川だろうが豊臣だろうがどっちにも手が出せない第3の勢力になろうとしていたのです。
官兵衛の誤算
九州攻めは順調であとは薩摩の島津を残すのみとなったのですが、関ヶ原の戦いは官兵衛が思ってるよりも早く終わってしまい、島津義久は徳川家康と和議をしてしまった為、兵を引くしかなかったのです。この功績により黒田長政(官兵衛の嫡子)は52万石の大大名になるのですが、日本統一の夢は見ることが出来ませんでした。
まとめ
豊臣が勝っても徳川が勝っても功になり、あわよくば独立しようとしてた、天才野心家の黒田官兵衛。竹中半兵衛と共に私が尊敬するお方です。
今日のさわだくん
111曲チャレンジ13曲目
キセキ/GReeeeN
2008年5月28日リリース、GReeeeNの7枚目のシングル曲です。TBS系テレビドラマ「ROOKIES」の主題歌。4ミリオンという大ヒット曲。
野球が続いたね、さわだくん
あとがき
本当は関ヶ原の戦いまでをさらっと書いて、関ヶ原の戦いでの黒田官兵衛を書く予定でしたが、青山・土器山の戦いだけで2000文字オーバーしてしまったので今日はここまでにしました。ぜひ続きもどこかで書きたいですね。という事でまた明日。
明日の記念日は何にしよう?