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トビウオ(短編)
私は、空を翔ける大きな大きな飛行艇に恋をした、一匹の小さな小さな魚でした。
私が初めて空を飛んでいるその人を見たのは、太陽が燦々と輝くある夏の日でした。
その日の空は雲ひとつなく真っ青で、私の住む湖と同じ色をしていました。
陽の光を乱反射させて星のように煌めく水面があまりに美しく、私は思わずふらふらと近付いて行きました。
しばらく昼間の星々を眺めてうっとりしていると、月が昇る空の方から、水を震わせながら大きな音が響いて来ているのに気が付き、ハッとして空を見上げました。
逞しい唸り声と共に、真っ赤な翼のその人が真っ青な空に一筋の白い線を描きました。
広い空を大きくゆっくりと旋回しながら、揺らめく水面にふわりと着水したその人は
「驚かせて、ごめんね」
と、悪戯っぽく微笑ってみせました。
その人は、自分の事を飛行艇だと教えてくれました。
空を飛ぶ大きな大きな鉄の塊。
私たち魚とは真反対のその人の体が水滴のジュエリーを纏って輝くたび、眩暈がしそうな程の美しさに溜息をつきました。
その人が魅力的だったのは、空を飛ぶ姿だけではありません。
紅い翼で空を切り、旅立った先で出会った愉快な出来事の話を、ふらりと帰って来ては私に聞かせてくれました。それは美しい海の話で、険しい山の話で、神秘的な滝の話でした。
私は魚ですから、もちろんこの湖から一度として陸へ、ましてや空へなど出掛けたことはありません。
その人の話が本当でなかったとしても、私にはその冒険記がいかに華やかで煌びやかだったか、お分かり頂けるでしょう。
私はその人の話を聞く度、わくわくとさせられ、次にその人が帰って来るのを待ち遠しく思うのでした。
けれども、その反面鬱々しく哀しい思いも胸に詰め込んでいくのでした。
どうして私は魚に生まれてしまったのだろうか。
どうして私のヒレは、あの人のように空を掴めないのだろうか。
どうして私は水の中でしか息が出来ないのだろうか。
どうして、どうして。
空が黒々しく曇り、ぽつりぽつりと雨が降って来ました。
次第に雨は激しくなり、打ち付ける雨粒が水面を踊らせ、私の眺める空も歪んでいきました。
「こんな天気の方が、私の心にぴったりね。」
自嘲気味に独り言を呟くと、歪んだ空の淵で黒い影が動き、私に語りかけました。
「おまえ、空を飛びたいんだろう。」
私は驚いて水面に近付き目を凝らすと、そこにいたのは羽を艶やかに濡らした一羽の鷹でした。
私は生涯で仲間の魚と飛行艇以外の誰かと会話をした事が無かったので、どぎまぎして口篭ってしまいました。
それを見透かすように鷹は言葉を続けます。
「おまえ、オレが怖いんだろう。おまえら魚は鳥が天敵だったりするからな。だがオレはおまえらを喰ったりはしないぜ。そんな事より、なぁおまえ、空を飛びたいんだろう?」
呆気に取られた私は、うまく言葉を作る事ができず
「どうして?」
そう問うのが精一杯でした。
「オレはおまえらを狙う鳥を狙う鳥だからな。この湖の近くを縄張りにしてんだ。そしたら湖の事だって嫌でも目に入るだろう?おまえさんがあの飛行艇に惚の字だって事くらい、お見通しだぜ。」
私は衝撃を受けるやら恥ずかしいやらで、ヒレをぱたぱたと揺らめかせました。
「オレがおまえの事、空に連れてってやろうか。」
鷹が立て続けに驚く事をのたまうので、私はポカンとして鷹を見つめる事しか出来ませんでした。
「おまえ魚だから陸にも空にも行けねえと思ってんだろ?身体が乾くから。じゃあ雨の日はどうなんだ?雨で身体が濡れてりゃ空の一つくらい飛べるんじゃねぇか?あの飛行艇のようによ。」
鷹は私の心がふつふつと湧き立って、目を輝かせ出すのを見て
「オレがおまえの事、空に連れてってやろうか。」
と再び問うのでした。
「あの人と一緒に、飛べるの…?」
声を震わせてやっとやっと喘ぐように呟くと
「オレに任せろ。」
鷹は誇らしげに羽を広げました。
その鷹が心の裏でどんなにか黒い事を考えていたって良い、あの人と空を飛ぶ事ができるのなら、私には些細な事でした。
降り頻る雨の中、飛行艇がこの湖に帰って来るエンジンの音が聞こえます。
私と鷹の視線が交わったその刹那、私の身体がふわりと水面から離れました。
鷹は案外優しく私の腹を掴み、想像していた程の恐怖はありませんでした。
私の眼前に映ったのは、想像していたよりも大きく広がる世界と、想像していたよりも小さな私の湖でした。
飛行艇が私に近付くと、鷹はグンとスピードを上げ、紅い翼と横並びになって飛びました。
私も目一杯小さなヒレを広げて、空を切る心地を味わいました。
それは雨の日であるにも関わらずあまりに爽やかで、あまりに晴れやかなのでした。
私はひどく幸せで、目から流れるのが雨なのか涙なのか、それさえもよく分からないでいました。
…あの日、飛行艇は雨のせいであまりよく前が見えておらず、私が空を飛んでいた事には気付いていませんでしたし、鷹も随分と気分屋だったようであの日以来私を空へと連れて行ってくれる事はありませんでした。
けれど私は今日も、水面に映った紅い影と共に、空色の水中を力強く泳ぐのでした。