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パロディとしての歌物語~『伊勢物語』の作り方~
▶23段「筒井筒」の場合
高校古典の定番教材『伊勢物語』23段「筒井筒」に出てくる最初の歌です。
筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに
「作中歌」として用いられたこの古歌、実は、「井筒」のある、すなわち「井戸端」で遊んだことがあるから詠んだ歌ではありません。
歌の中の「井筒(ゐつつ)」は、ずっとそのまま「居つつ」ある、《変わらぬ心》の象徴として、はじめてここに詠み込まれました。だからこそ、一首が「求婚の歌」ともなり得るのですが、従来、まったく気づかれていない事実です。
▶『伊勢物語』の物語作法と主題
つまり、『伊勢物語』の作者は、掛詞としての「井筒」をなんと「現実の風景」として、舞台に据えてこのお話を始めたのです。だから場面も「田舎」に設定している。物語は、「むかし、ゐなかたわたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、おとなになりにければ…」と述べて始まっています。
世阿弥が自ら「上花」(最上のもの)と称した謡曲『井筒』に先んじる、それが『伊勢物語』の物語作法(作り方)です。
歌の修辞としては「掛詞」でしかなかった「井筒」。その「作り物」をまず、舞台中央に据えたのは、世阿弥の前に、本説(=いまでいう原作、あるいは典拠)『伊勢物語』におけるアイディアでした。
そして、《変わらぬ心》のありようについて追究するのが『伊勢物語』23段「筒井筒」の目的であり、作品的な「主題」なのです。用いた歌の「主題」(=求婚)とは異なり、新しく「幼年時代」の意味そのものにスポットを当てる試みです。
この点を踏まえておかないと、文字どおりのヤマ場としての次の場面「竜田越え」でなぜ、女が男を黙って送り出したのかという、古典学習上の永遠の謎も解けない。
ほかの女のところへ通っていく男を見送って、幼馴染みの大和の女が「いとよう化粧じて、うちながめて」、例の「風吹けば」の歌を詠むシーンですね。
風吹けば沖つしら浪たつた山 夜半にや君がひとりこゆらむ
きれいにお化粧までしている理由も、「男が隠れて見ているのを知っていたから」という「作戦」などではありません。この謎解きは、次の機会に。
▶それは、歌の「お手本」ではない
たとえば、『国史大辞典』(吉川弘文館)の「歌物語」の項を参照すると、歌を用いた「歌物語」については、「作者が歌の情感に揺り動かされ、表現意欲・想像力をかきたてられてでき上がったもの」(JapanKnowledge版に拠る)と説明されています。
歌と物語との関係についても、「歌の部分と、散文の部分とが独特の緊張関係の上に、統一・調和されている」(同書)とみなされていて、その「代表的な作品」が『伊勢物語』だという捉え方が、いわば「定説」。
つまり、『伊勢物語』は、〝このようなときにこそ、人はこうした歌を詠むのだよ〟と教えてくれる(注:詠みません!)、雅な歌を詠むための「お手本」として受け止められているのです。高校の古典の授業などでもそのように教えられてきているはずです。
▶古典教育上の問題として
何より問題なのは、歌そのものの意味とは異なるものを前提に、「歌の心」を読み取らせるという無理難題を強いた上に、それに基づく「学習評価」がなされてしまっていること。これでは、いつまで経っても「和歌はワカらない」という冗談みたいな状態がつづくだけです。
『伊勢物語』で歌の前後に添えられているストーリー(物語の筋書き)は、「歌そのものの意味」としての「歌の心」とはまったく異なっている。だからそれは面白いのです。
従来は、肝心の「歌そのものの意味」とともに、歌を用いて作った二次創作・パロディとしての「歌物語」の構造、すなわち和歌と地の文との関係も見定められていません。
『伊勢物語』を通してはじめて「和歌」について習い覚えた内容や、辞書に書かれた「歌物語」に対する説明が間違っていたとしたらどうでしょう?
知識とは、そもそも、そうしたものだと言わざるを得ない。
大真面目なだけに滑稽でもある、それは『伊勢物語』の筋書きそのもののようにも見えます。