ピアノの「技巧」とは?~ダルクローズの言葉より~
折角ピアノと出会ったのに、自信を無くしている人に是非届けたいテーマ。
まず最初に、今回のタイトルにもした「ダルクローズの言葉」を引用したい。(エミール・ジャック=ダルクローズ(1865~1950))
この一文に出会い、私は感動した。
ずっとモヤモヤとしていたことに答えを貰えた気分だった。
リトミックを学ぶため、ダルクローズの論文を読み漁っていた際の出会いである。1914年に書かれた論文の一節。出会いに感謝。
前回のnoteで書いたとおり、私は45歳で退職後、久しぶりに受けてみようと思ったカワイのピアノグレード(筆記試験)をきっかけにリトミックの講師グレード試験の存在を知った。さらに、娘のために日々ピアノで童謡弾き歌いをしていたこと、リトミックの中に即興演奏の試験が含まれることに興味を持ち、講師試験を受けた。
試験科目の中に、リトミックに関する小論文の試験があり、その勉強をするためにダルクローズの論文をあれこれと読み漁った。
そして、冒頭の一文に出会ったのである。
そうなのよ。速く弾けりゃいいってもんじゃないのよ。
穏やかな流れの中で、滋味深い音色の演奏はとても心豊かになれる瞬間。
最高のひととき。
自分で作曲したり、即興でメロディを奏でるようになってから
より一層そう思うようになった。
昨年からAudiostockで楽曲販売をしたり、サブスクでの楽曲配信をするようになって、その想いに自信が持てるようになれたのは、とても幸運だったと思う。
自分でオリジナル曲をつくるようになってしみじみ感じた事は、
「いい曲」=「速い曲」「難解な曲」では絶対無いってこと。
でもカバー演奏をしていたころは、「速い曲」「難解な曲」を弾きこなせること、そこに挑むことが「必要不可欠」だと思ってた。
そんな「攻略」精神からは、良い音楽は生まれないんだろうなと思う。
ダルクローズさんの言う通りだと思う。(以下、再掲)
だから、音楽とは、あくまでも、自分の「想い」を音で表すに過ぎないということだと思う。
思った事を、「言葉」で言うか、「音」で奏でるか。それ位、自分の感覚にフィットしているものであることが必要なんだと思う。
市販の楽譜を見ても、「初級」「中級」「上級」などと分類されていることが多いと思うが、これらは演奏する上での音数の多さを言っているだけであって、「上級の楽譜を攻略したからスゴイ」では決してないはずである。
何なら、「初級」と言われるような音数の少なさで、グッとくる演奏ができる方が余程「理想的な技巧」ではないのかなと思ったりする。
SNSなどで「自分は難しい曲は弾けないし・・・」って悩んでる人もたまにみるけれど、今日の自分が奏でる音に自信を持ってほしいなぁと思う。
逆に、バシャバシャ汚い音で弾いてるにもかかわらず「こんな難曲を弾けました!」「すごーい!」みたいなやり取りからは遠ざかりたいしね(毒)。
オリジナル曲にしろ、カバー曲にしろ、
自分のいまの想いをのせて、音を奏でること。その一瞬に幸せを感じられる。ただ、それだけ。
私の音は、私の言葉。あなたの音は、あなたの言葉。
私の音楽は、私の生き方。あなたの音楽は、あなたの生き方。
そう思えたら、いまの自分に自信が持てるし、
仮に「難曲」と言われるのものに向き合うにあたっても、単に劣等感を持つだけではなくなると思う。
「難曲」と言われるものを美しく弾きこなすあの人は、それが自分の言葉として出ているのだよね。指先ばかり見てても変わらないんだよね。
そして、それが自分の言葉になり得るのか?も良く考えてみたらいいと思う。「弾ける、弾けない」ってことじゃなくて。
45歳で「リトミック」を学べて本当に良かったと思う。
ダルクローズさんは、1892年にジュネーブ音楽院の教授になった際に、学生たちの表面的な理解を目の当たりにして、リズム教育の必要性を実感したところからリトミック教育法を生み出している。
心の内側から湧き上がってくるものに、身体が自然と反応して生み出される音楽の大切さ。それを実感するための即興演奏。
私がこれからも大切にしていきたいピアノや音楽との向き合い方を再確認できた。
ダルクローズさんには、直接音楽を学んでみたかったなとしみじみ思う。
「すごい」って言われなくていいんだよ。自分の音楽を大切に。
伝わる人には伝わるから。大丈夫。
最後までお読みいただきありがとうございました^^