文豪ストレイドッグス 太宰の変化
※単なる私の疑問みたいな妄想みたいな独り言です。
私の最推しである文ストの太宰治は包帯無駄遣い装置と呼ばれてますが、名言製造機でもありますね。そんな太宰の台詞は全て好きなんだけど、その中でちょっと気になったことがあるんでそれの独り言。
小説黒の時代で
"求める価値のあるものはみな、手に入れた瞬間に失うことが約束されている。苦しい生を引き伸ばしてまで追い求めることなんて、何も無い"
と安吾、織田作に言ってる場面があるんです。
この言葉を自分の解釈で言い換えると
求める価値のあるもの→1番分かりやすいものでいうと『友達』なのでそれを基準にする。
求める価値のある『友達』というものは、出会った瞬間に"死"などで失うことが約束されている(別れというものは避けられない)。だから、いつか失ってしまうのなら、生きづらい"生"というものを引き伸ばしてまで『友達』という存在にこだわって生きていく必要なんてないでしょ?
この言葉にはものすごく黒の時代の太宰の価値観というものが詰まってると思ってる。
このときの太宰にとって"生きる"という行為は凄く意味の分からないことだと思っていて、それは15歳で森さんに言った"生きるなんて行為に何か価値があると本気で思っているの"から分かるんだけど。生きるという行為の意味が分からないから、誰かの為に命をかけるとかまじで何で?って感じだと思うんやけど、だからこの求める〜のセリフが出てきたんよね。
そっから飛んで現代。当たり前だけど太宰は生きてるわけで、これもまた私の解釈だけど太宰は『織田作の為に、織田作の思う善の生き方を求めて生きている』と感じている。
組合編で太宰が鏡花ちゃんに言った、"生き方の正解を知りたくて誰もが戦っている"これは敦や芥川は勿論その他の人たちそして、太宰自身も含まれているはず。
そんで、太宰にとって
"求める価値のあるもの"=織田作
織田作は黒の時代で死んだ。
↓
求める価値のあるものは失われた。ということ
だけど、太宰は織田作の思った道を求めて今も生きている。
自殺を繰り返しているということはまだ、生きるという行為が無意味なことだと思っているのに、その生を引き伸ばしている。
太宰にとって生は未だに苦しいことであるはずなのに、"織田作"にこだわって生きている。
これは矛盾にならないか?
太宰にとって生きるという行為は現代でも意味のないことだと思っているけど、生きようとしている。自殺は繰り返すけど結局死ねてない、死にきれていない。その理由には織田作の求める生き方というものの正解に辿りつけていなから。織田作の求めた生き方というものがどういうものなのか知ることができるまで死んではいけないという思いがどこかで太宰の心にあって、無意識に死ぬのを引き止めているような気がする。
おそらく、太宰の中で求める価値のあるものが、織田作から織田作が託した生き方に変わったんだと思う。だから未だ求めて生き続けている
黒の時代では
「結局みんないつか失うのだから必要以上に求める意味なんてないでしょ」
だったのに、織田作の死後は
失った者からの言葉に執着して、正解を追い求めている。
織田作が死にそうになったときに、織田作が自分を思っている以上に理解してくれていて初めて気づいたんだよね。求める価値のあるもの(友達)がどれだけのモノなのか。
織田作の死によって太宰の中の価値観が変わったんだなぁと分かった瞬間だなって。ただそれだけ話したくてここに記しているんだけど。
そんでやっぱり織田作の"死"ってなくてはならないものだったんだな。織田作の死でだいぶ物事が大きく変わったような…(妄想)
多分織田作に出会うまで太宰は、手に入れる価値のあるものに出会ってこなかったんだろうなって。だからこそあのセリフが生まれた訳で、でも実際にソレが失われると分かった瞬間に縋るように言葉を求めたんだよね。それで、現代に至ると。
こう見るとやっぱり太宰も圧倒的頭脳を持っているだけで、中身はちゃんと子供だったんだなって。なんか『大人になるしかなかった子供』みたいな感じがする。または『圧倒的頭脳を持っているせいで未熟な大人になってしまった子供』とかね。
改めて織田作の影響の凄さについて理解した。
芥川が太宰の求める自分になる為に生きているように、太宰もまた織田作の求める生き方を追い続けている。『正解』なんて言ってくれる人はもうこの世にいないのにね…
それでも太宰にとって"生きるとは織田作だ"みたいなところがあるんでしょう。。
なんとも言えないし、何か解釈違いなことを言っているような気がするけど現時点ではこれでいこうかな。
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