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2021年6月 ワープロに挟まれていた「かっこいいことは何てかっこ悪いんだろう」とブックオフ店内放送「ハレラマ」「黄色い風船」につきまして

    引っ越しをした高揚感で意味もなく近隣を散策していると民家の前に旧型のワープロが置かれており、「ご自由にお持ちください」と書かれた紙が添えられていたので、別にワープロは必要ではなかったが拾っておいた。
    帰宅後にワープロをパカッと開くとポストカードが挟まっており、もう元から必要でもないワープロは完全にどうでもよくなってポストカードに着目した。

    顔色の悪い、人形か宇宙人なのかを、同じように顔色の悪い少女が抱えている絵に見覚えがあり、それがHという歌手のアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」のジャケット画であることはすぐに了解できた。
    絵から文字に目を移せば「タクトレコード」という、引っ越した先から比較的近い神田神保町のレコード店のポストカードで、H氏が当該のアルバムでソロデビューする前に組んでいたJというバンドのファースト・シングルが「タクト・レコード」というレーベルから発売された事を考えると、何か関連があるのかもしれないが調べはしなかった。

    あまりにも昔の音楽だ。
    H氏のそのアルバムは聴いた事もなかった。ただし、バンドのJは聴いた。昔ブックオフで買った。音楽雑誌に「衝撃的だ」「過激だ」と書かれていたからだ。
    ブックオフで、なるべくヤバくて、狂っているとされるノイズやアバンギャルド、フリージャズ、現代音楽のCDや奇書の類を求めていた自分の耳に、バンドJのファーストアルバムは初め確かに刺激的に聴こえて来たが、3曲目の「からっぽの世界」における発話障害者への差別語を含んだ歌詞や、それを歌う恨めしい歌唱法へ、素直に刺激を受けていられる時期は過ぎた。     
    8曲目の「ラブ・ゼネレーション」の歌詞に羅列される反語の群れも、ソロアルバムの題名「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」と通じる、今なら「逆張り」とでも切り捨てられそうな文言だ、とインターネット(森羅万象が記述されたアカシックレコード)を知ったexperience者の感覚では思ってしまう。

(それを思う際、爆笑問題のテレビ番組に作家の中島らもが出演し、ギターの弾き語りで放送禁止用語だらけのフォークソングを歌ったことを、中島らも当人はしばらく後の著作で「司会者は唖然としていた」と書き、爆笑問題・太田光氏は中島らもの死後にラジオで「あの反抗はもう古かった」と切り捨てていたなと考えたりもする)

(それはHやJの作品の良し悪しを語るものではなく、果てしなく長い時間をブックオフでの発掘に費やし、そして見つけたノイズやアバンギャルド、現代音楽のCDがすでに手元になく、記憶にも残っていない、徒労だったのだと実感させられている現在からの八つ当たりのような感情でしかない)

    今現在、ブックオフにまつわる音楽で耳に残っているのは全く違ったタイプの2曲だ。      2024年6月、東京都知事選にかつてのブックオフイメージキャラクターだった清水国明(ex.あのねのね)が出馬するに呼応し、JR飯田橋駅前ではビルの屋上に据えられた看板から、以前に貼られていた旧型ブックオフ看板(赤青黄の下品な三原色)が現れつつあった。

    旧ブックオフ看板の再生に応じて、清水国明の店内放送とともに一時期同店でヘビーローテーションだったがヒット・チャートには上ることの一切なかった謎の楽曲「ハレラマ」と「黄色い風船」が思い出され、インターネットの不法な手段で聴取してみれば、ブックオフの看板があの下品な赤青黄色の三原色だった頃のことが蘇った。   
    青春の一時期、あの2曲が流れる店内で、現在は手元にも残っていないCDの探索に明け暮れていたのだった。

    まず、「ハレラマ」は、ABBAの「Gimme! Gimme! Gimme!」を下敷きにしたとおぼしき構成とシンセサイザーの音作りなのだが、ABBA曲にみられるリズムのハネがない実直な様や、ハレラマ、という天界などに捧げるための呪文を軸にした歌詞世界とそれを歌う生真面目そうな男声、散りばめられた子供たちの笑い声・コーラス・スピリチュアルな語りはABBAが歌う「人恋しさ」程度の「求め」をはるかに超越して真理・救済を要請する切実さにまで到達しており、ABBAが3回「Gimme」と言うところを「ハレラマ」では3億回ぐらい求めているのでは…という強度でずっとこちらのheadに残っている。
    とある伝導活動に従事する音楽家の作品で、なぜ一時期ブックオフのヘビーローテーションとなっていたのかは不明。その宗教歌謡性を面白がっている書き方をしたが、随所に現れる転調がもたらす昂りやリコーダーの間奏、大サビにおけるバックトラックの抜きなど、特に編曲の妙でABBAを超えていると思う。

    そして「黄色い風船」。これははじめ、ガットギターの柔らかな音色と、己をタイトル通りの小さな黄色い風船になぞらえ「お花畑でふわふわり」などと、あまり熱を帯びずに歌う牧歌的な様子に「切実でない、お花畑はお前だ!」と聞き流しそうになる。
    しかし一旦、それまで軽快だったテンポがドゥーミーにスロー・ダウンするに伴い歌唱のトーンも落ち、歌われるのは「重い足を引きずることはない/痛い身体を横たえることもない」という内容。 ただ、何事もなかったように元のテンポに戻り、「蝶々と遊び/小鳥と歌う」などと語られ、そしてサビでまた牧歌的に「ふわふわり」と歌われるので一巡目は通り過ぎてしまう。

    二巡目も、当初はやはり「空の上を/ふわふわり」が歌われるが、今度のスローダウン時に歌われるのは「痒い体を/もう掻くことはない」。
    重さや痛みは比喩で使われることがあっても、「痒み」はなかなかない。 ここに至って、一巡目の「重い足」と「痛い身体」がお花畑な脳内を持った人間特有の自己憐憫などではなく、実際の病気に由来する「症状だったのではないか?」と気付く。
    そして今度のテンポとトーン回復時に歌われるのは、一巡目よりもさらに素朴な「海へ行こう/山へ登ろう」 。それは蝶々と遊んだり小鳥と歌ったりするよりは現実的なはずなのだが、病床にいる存在からすれば妄想にも近い巨大な願望であり、聴取者であるこちらが当初感じた「切実さに欠ける」といった印象は誤り、と反省をも促すつくりとなっている。

    三巡目に構造が全て反転する。
    冒頭に歌われる「ふわふわり」は、それまで自らが「黄色い風船」であるという超現実に由来していたものが、「ママに抱かれて」いる、という理由に変化し、平穏ではあるのに抗えない現実が浸食してきた感がもたらされる。
    続くスローパートでも、それまでの病状をつづることを止めて「辛い明日が/もう来ることもない」と反転し、 「おうちに帰って/ふわふわり」「パパとママと/ふわふわり」と、死者になってからの視点がリフレインされてフェードアウトするこの曲を聴き終え、握っていたスマートホンでそのまま調べればやはり、難病によって幼くして亡くなった少女を基にした楽曲だったと分かり、あの頃この曲がヘビーローテーションされるブックオフで血眼になって探し出したはずのノイズミュージックなどとは比較にならない、そして「かっこいいことは何てかっこ悪いんだろう」の反語よりも緻密に組み込まれた反転の衝撃を与えられるのだ。

    ワープロは拾った当日中に分解して捨てた。ブックオフで上2曲を聴きながらのCDあさりを続けていた頃から、一切の成長なく手元に残らない物品を、無駄にdigginし続けていることになる。

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