ラインフェルデン

ハートランドの遙かなる日々 第17章 王女ユッテ

 講義を終えた後、ラッペルスヴィル伯夫妻は帰り支度をした。突発スケジュールに振り回され、予定はかなりオーバーしていた。

 仕度が終わると夫妻と同行するルードルフ、ブリューハントやリーゼロッテ達は広場に停めた馬車へと向かう。エンゲルベルクの一行とイサベラ達も同時に馬車へと向かった。すると修道院のあちこちから人が出て来た。総員で見送りをするようだ。老齢の修道院長が言った。

「エリーザベト様のお陰でこのような立派な修道院が出来ました。水害に遭った時は皆生きた心地がしませんでしたが、本当に救われた想いです。一同を代表しまして御礼を申します」

 修道院長の声に頷いた一同は口々に「ありがとうございます」と礼を言った。

「手仕事をしてくれる皆の努力あっての事ですわ」

 当然ながら手仕事でこの大きな修道院が建てられる程の実入りは無い。これらは彼ら修道士達の自活の為であって、新参のドミニク派教会には領地や財産も殆ど無く、建設費は寄付に頼っており、それは特にエリーザベトの寄付と有力者への働き掛けに大きく負っていた。そんな中で弟領主が亡くなり、領地継承が出来なくなって、一時はこの修道院の建設続行も危ぶまれた。エリーザベトはそれを有力者への呼びかけと、多額の借金をして乗り越えつつあるのだった。

「ご結婚と、そして何より、継承が決まりまして、おめでとう御座います。我らも嬉しいです」
「ありがとう。お披露目にここを使わせて戴いて、色々とお世話をお掛けしました」
「とんでもない。光栄な事です。いつでもお使い下さい」
「大事なお客様がまだしばらくいますので、よろしくお願いしますね。私の執務室を使わせてあげて下さい」

 エリーザベトは二人の少女に目を向けてそう言った。

「それでは、皆さんお元気で」

 一礼をしてエリーザベトとルーディック、そしてルードルフが馬車に乗り込むと、人々は大きくその馬車を囲む。大きく手を挙げて叫ぶ者があった。

「エリーザベト様に、祝福あれ!」
「祝福あれ!」

 大勢で声を揃えて、声は大きく修道院内に響いた。上の方の窓から顔を出してそう叫んで手を振っている人もいる。
 その中を二台の馬車は発し、窓からエリーザベトは人々に手を振りつつ、ゆっくりと走り去って行った。もう一台にはエンゲルベルク一行とイサベラが乗っている。

「行ってしまったわね。イサベラも」

 馬車を見送りながら、感心したようにユッテは言った。

「エリーザベト様って素晴らしいわ。私、あんな風になりたいわ」
「ユッテさんならなれますよ、きっと」
「そうかしら。簡単にはなれないと思うわ」
「そう心に思う人でないとなれないでしょう?」
「それもそうね。じゃあ、私、なれる! そう思うわ」
「じゃあ、私も? 先生の弟子になれる!」
「それはだから、断られたでしょう?」
「そうでした」

 二人は声を上げて笑った。

「もう、アフラったら。じゃあ、私の宿に行きましょうか?」

 ユッテはそう言って、自身の乗って来た馬車へと歩いた。
 馬車には御者兼護衛のレオナルドが寝転ぶように座っていたが、ユッテが来ると途端に跳ね起きて御者台を飛び降り、馬車のドアを開けた。 
「どうぞ」
「宿に戻るわ」

 ユッテはレオナルドの手を取って馬車に乗り込み、アフラもそこに続いて乗った。
 レオナルドは馬車を発し、大通りをしばらく走ってすぐに停まった。

「着いたわ」
「近いですね。歩いて来れるくらい」

 大通り沿いの一番大きな建物が宿だった。広い玄関を入ると赤い絨毯の階段が正面にあり、そこからはかなり上の階まで階段を上がる。レオナルドの先導で部屋へ到着した頃には少し息が上がっていた。
 部屋の扉を潜ると玄関通路があり、さらに扉を開けると広めの通路にも見える広間があって、そこにはさらに幾つかの扉があり、迷いそうな作りだ。

「お帰りなさいませ」

 その広間にいた二人の女中が並んで挨拶をし、かなり若い女中がその中の一つのドアを開けると、ユッテとアフラはその中へ入った。扉の向こうにはそこまで大きくは無い居間のような部屋があった。

「寛いでいいわ。私の部屋よ。ああ、疲れたー」

 ユッテはそう言って長椅子に身を預けた。そのままごろりと横倒れだ。

「今日は動き過ぎたわ。でも楽しかった。どうぞ、アフラも座って」

 アフラは落ち着かないように隅の小さな椅子に座った。

「私は頭の中の方が大変です。先ほどの先生のお話が頭に一杯詰まってしまって」
「兄様も無理を言うし?」
「それはそんなに苦ではなかったです」
「そうなの?」
「意外と話せばすぐ判って下さるので」
「あの兄様が? あなたのそういう所は貴重ね」
「どういう所です?」

 ユッテは考えたが、いい言葉が浮かばない。

「そういう所! 足も濡れたし、お風呂に入ろうかしら」
「お風呂があるんですか?」
「そりゃあ有るわ。広いのよ。一緒に入りましょ」

 アフラは逡巡したが、その間にユッテは化粧台に置いてあるベルを鳴らした。

「お呼びでしょうか。ユッテ様」

 さっきの若い方の女中が入って来た。

「セシリア、お風呂にします」
「お湯が沸いておりませんのでお時間がかかります。お体をお拭きする分ならすぐご用意出来ますが」
「それでいいわ」

 女中は広間へ出て正面のドアを開け、ユッテを案内して行った。

「ロザーナ。お風呂のお湯を」

 セシリアは途中でもう一人の年配の女中にお湯の用意を頼んで行く。

「アフラも一緒よ」

 ユッテの声でアフラも慌ててその後を追った。
 ユッテは脱衣室を通り過ぎ、天蓋の付いた大きな木のバスタブまで入って行き、その中で靴を脱いだ。逆さまにした靴からは水が零れてくる。

「ああ、気持ち悪かったわ」
「そんなに水浸しじゃ大変でしたね」
「貴女も脱いで」

 と言ってユッテはもう片方の靴も脱ぎ、濡れたニーハイを少し下ろすと、あとは女中のセシリアが丸めながら脱がしていく。上衣であるシュールコーも捲り上げて首と手を通らせる。その手際は丁寧ながらも早い。
 そうしていると女中が沸かしたお湯の入った木桶を持って来た。そのお湯をセシリアが受け取って、バスタブで裸足になったユッテの足を洗い始めた。下に着ていた裾の長いコットはもう濡れるままに任せているようだ。そもそも長く引き摺っていて裾は汚れている。
 その間にアフラもピンクのリボンのアンクルストラップを解いて靴を脱いだ。ユッテは足をセシリアに洗って貰いながら言った。

「その靴いいわね。背が高く見えるし、リボンも素敵」
「ソフィアがお揃いで買ってくれたの。後で何か返さないと」
「私の靴と交換しない?」
「これですか? この高さが無いと、スカート引き摺っちゃうんです。ソフィアがその為に買ってくれたものだし、お譲り出来ません」
「そう。フッ。でも、私は欲しい物は何でも手に入れてしまうわよ」

 そう言ってユッテは不敵に笑っている。顎に手を当てて何か考えているが、アフラは怖くて聞けない。
 セシリアは足を洗い終えるとユッテのコットの背の詰め紐に手を掛け、手早く服を脱がしていく。気が付けばユッテは考えたままの姿勢でパンツ一枚になっていた。パンツというよりドロワーズというべきカボチャ型のそれは、三段のフリルと裾口には長いレースが付いている。
 アフラはその豪華絢爛さに感激せざるを得ない。

「かわいい……」
「そう? ありがとう。でも座ると少しモコモコするのよね」

 そう言ってユッテはセシリアに「アフラを手伝って」と言って追い出してから、天蓋を少し閉めた影でそのドロワーズも脱ぎ捨てた。
 脱いだ服を全て纏めたセシリアはアフラの前に歩いて来て、表情少なく言った。

「お手伝いしましょうか?」

 ここでアフラは秘め事に思い当たった。今履いてるパンツはマリウスの猿股だ。

「いいです! 後で自分で! 先にユッテさんを」

 アフラが全力で否定すると、服を籠に置いたセシリアはユッテの体を洗いに行った。ユッテは天蓋から顔を覗かせて言った。

「アフラも来なさいよ」
「私は後でいいです」

 ユッテはセシリアに背中を拭かれつつ笑った。

「そんな、恥ずかしがらないで」

 そうしているうちに、年配の女中がさらにお湯を運んで来た。少し離れた湯沸かし場から、こうして沸かしては運んで来る方式のようだ。何故か小さな女の子が二人、後に付いて来て、スカートを掴んではおやつをせがんでいた。

「あらあらー。大変そうですね」

 アフラの言葉に、女中のロザーナはあまりいい気はしない目をする。アフラも仕事を増やしている張本人なのだから仕方がない。

「お湯を運ぶのお手伝いましょうか?」

 そう言うとロザーナは途端に気を良くして笑顔になった。

「お客様に手伝わせるわけには行きません。お気持ちだけ頂戴致します」

 ユッテは天蓋の向こうから言った。

「浴槽をしっかり洗っておいてね。次はちゃんとお湯をいっぱい用意して、ちゃんと全身浸かるわよ」

 女中の顔は途端に曇った。とても表情が判りやすいのも少し問題だ。
 セシリアが体を拭き終わり、お湯で体を流すと、ユッテはタオルで体を覆って天蓋から出て来た。

「あれ? アンナ、アグネス。遊びに来たの? 部屋で待ってて。アフラ、まだ何も脱いでないじゃない。セシリア早く!」

 セシリアはアフラの方へ歩いて来て、スモック着の肩の紐を外した。

「わ、私一人で出来ますから。怪我もありますし」

 と、言っているうちにセシリアは両肩の紐を緩め、ストンと服を下に落とした。その下はまだシュミーズ姿だったが、その手際にアフラは呆然とするよりない。
 残るシュミーズの裾にセシリアの手が伸びて来たので、アフラは慌ててその裾を両手で掴んだ。

「わわ、私は一人でやりますから」

 と、言ってもセシリアは聞いていないのか、ユッテの言う事が全てなのか、二人で裾の引っ張り合いをする形になった。

「セシリア、アフラはお腹に怪我をしてるの。無理はしないで」
「はい」

 ユッテの声でセシリアは会釈をしつつ手を離した。
 アフラがほっとしてシュミーズの端を持つ手を緩めると、その裾をユッテが捲った。

「きゃっ」
「この下着! 見たことないわ」
「ヤーン恥ずかしい。これ弟ので……」
「男女共用かしら? スリムなのがいいわ。ここで紐が腰をキュッと締めててお洒落!」

 言いながらユッテは猿股を至近距離で見ている。前で組んだ紐を丁寧に蝶々結びして、アフラの細い腰にもフィットしていたのが良かったようだ。

「そうかしら?」
「ドロワーズはスタイルがユーモラスになってしまうもの。これだとウエストが紐で締まって自然なラインが出ていいわ」
「ユッテさんのカボチャ型もとてもかわいいです」

 ちょうどユッテのドロワーズを持って広げていたアンナとアグネスがクスクスと笑った。

「カボチャだって」

 ユッテには少しショックな言葉だったようだ。

「カボチャ……。まあその通りね。これ、どこで手に入るかしら」
「これは手作りというか母が手直ししたものなんです。でも大きな洋服屋なら同じようなものがあるんじゃないかしら?」
「セシリア。これと同じものを買って来て。無ければ特注でもいいわ」

 ユッテはそう言ってさらに盛大にアフラのシュミーズの裾を捲し上げた。セシリアは近付いて来てそれを凝視している。アフラは半ば諦めつつ、思い出して言った。

「あの……出来たら私のも一緒にお願い出来ますか? お代はお支払いしますから」
「あら? アフラもお揃いがいいのかしら?」
「逗留が長いので、下着も服も足りないのです」
「いいわ。じゃあ一緒に二人分ね」
「畏まりました」
「そうよ。じゃあ服もあげるわ。サイズの合う服も付ければその靴とも交換出来るでしょう?」
「それはそうですけど……」
「判ったわ。いっそ一式全部付けちゃう。じゃあお風呂の後はアフラの着せ替え会ね」

 そう言い残し、ユッテとセシリアは女の子二人を引き連れて部屋へ戻って行った。
 一人になるとアフラは服を脱ぎ、バスタブに入った。バスタブは当時フォーレと言って大きな木の桶に白いシーツが掛けられたもので、シーツは濡れるに任せている。その大きさはとても広く、子供用のベッドくらいあろうか。寝転ぶ事も出来るし、二人で入っても余裕がある。しかし今はそこにお湯は入っておらず、しかも木桶のお湯も僅かしか残っていなかった。それでもアフラはタオルを浸して体を拭き始める。傷を濡らさないよう注意が必要だった。
 そこへロザーナがお湯を持って来てくれた。

「おや、お一人?」
「ありがとう」

 アフラはバスタブの中へ木桶を置いてくれたロザーナにお礼を言った。

「おや。お礼を言うなんてあなたくらいだわ」
「そうなんですか?」

 ロザーナは笑顔でタオルを取って、背中を拭いてくれた。

「私みたいな女中は身分が低くて相手にされないのさ」
「私も身分はぜんぜんですから」
「そうなのかい? 王女様のご友人と来たら、どこかの公女様だとばっかり」
「ウーリの管区長の娘なんです」
「そうかい。じゃあちょっとだけお嬢様だ」
「いえいえ田舎者です」
「そういう背伸びしないのが好かれたのね」

 そう言ってロザーナは背中をお湯で流した。

「てて……」
「あれ? 怪我してたのかい?」
「ちょっと浸みただけ。大丈夫です。あとは一人でします。ありがとう」
「どう致しまして」

 アフラはセシリアは苦手だったが、ロザーナとは仲良くなれそうで嬉しかった。

 一風呂を終えてアフラが部屋へ戻ると、薄い部屋着を着たユッテが大量の服を長椅子に並べて待ち構えていた。その隣にはセシリアが控えている。さっきの小さな女の子二人もそこでおやつに有り付いていた。

「お待たせでした?」
「待ってたわ。この二人は親戚のアンナとアグネス。アグネスは一度会ってるんじゃないかしら。子羊の迷子の時に」
「あ! よく見れば。前に会いましたね。お久しぶり。覚えてるかな?」

 アフラがアグネスに挨拶をすると、あまり覚えてないようで、「うん」とだけ言った。

「さあどれにする? これなんて似合うんじゃないかしら」

 ユッテはそう言って次々と服を見繕ってアフラに当てがって来る。赤やピンク色、どれも派手過ぎて着るのに勇気がいりそうだった。

「もう地味ーぃなものでいいんです」
「地味がいいなんて変な事言うのね」

 ユッテは集めた洋服の中でも地味な方の、袖の無い緑色のシュールコーを選んでアフラに当てがってみた。

「これはどうかしら。ちょうど地味過ぎて着れないの」

 アフラは服を当てがいつつ整えて鏡で見てみると、意外と似合いそうだ。

「ちょうどいいかも」
「着てみて。セシリア」

 ユッテに呼ばれたセシリアは、服を受け取って両手に丸め持ち、「お手を」とアフラにバンザイをさせるとスルリと被せて着せた。緑の一色のワンピース型だが、高級な生地の裾口には横一列に刺繍されたカーキ色の模様が入っていて、ノースリーブの大きな切り口からは白い袖が脇腹まで出る形になっている。鏡を見ていると一瞬で良家の婦人に変身をしたような気分だ。

「意外と似合うみたい。でもやっぱり物足りないわ。下のコットをもっと上品なのにしてみましょう」

 ユッテはそう言って白い絹の光沢のある、ローマ風の趣のあるブリオーを取り出した。
 するとセシリアはアフラから今着せた服、そして元々着ていたスモック着をサッと脱がせ、その白いブリオーをフワッと被せた。アフラは手を上げてさえいれば速やかに着せ付けてくれる。普段からこれを繰り返していればセシリアの着替えの手際が良くなるのも当然だ。
 その上からさらに緑のシュールコーを着せると、覗く袖は肩で膨らんでから一度締まってドレープを持って大きく広がっているし、白いレースがたっぷりの裾はシュールコーから程良く出ていて美しいシルエットになった。
 それをアフラは鏡で見て、夢心地になった。

「なんて綺麗!」
「わあーっ」

 アンナとアグネスも感激の声を漏らした。
 しかしユッテはまだ不満そうだ。

「サイズはいいみたい。でも、どうしても胸元が地味で寂しいのよね。ここからはコーディネートの腕次第ね」

 そう言ってユッテがクローゼットを開けてさらに服を探し始めた。アンナとアグネスも一緒に探している。
 そしてユッテが出して来たのは、濃い緑に黒の交叉するラインの入ったコルセだ。

「貴女の場合、これが似合いそうかしら」

 受け取ったセシリアがそれをアフラに着せて胸元の詰め紐を引き結んでいく。それを鏡で見たアフラは思わず声が出た。

「お姫様みたい。てっ待ってって」

 セシリアが紐をグッと締めると怪我している所にコルセが当たり、思わず涙が出た。

「セシリア、怪我してるって言ったでしょう!」
「申し訳ありません」

 そう言ってセシリアは紐を緩めた。ユッテは少し困って言った。

「これじゃあ怪我に悪いかしら」

 アフラが首を振った。

「きつくしなければ。これはとっても合っていて、綺麗です」
「私のコーディネートは気に入って頂けたかしら」
「はい。とても」
「じゃあ、これ一式と靴を交換してくれる? もちろん替わりの靴も付けるわ」
「う……」

 ユッテに押し切られそうになるのを、アフラは堪えた。

「ソフィアに無断ではちょっと……」
「まだ、足りないのかしら」

 そこへアグネスが花を模したサークレットを持って来て、アフラに渡した。

「これ」
「これもこれも」

 次にはアンナがマリアベールをユッテに渡してくる。

「これも着付けてみて」

 ユッテからそれを受け取ったセシリアは、アフラの髪を少し纏めてからサークレットを頭に着け、その上からマリアベールを被せた。
 すると鏡に立ったその姿は、まるで春の乙女か女神かというようだ。

「なんて可愛い……私じゃないみたい」
「カワイイ!」

 二人の少女も手を打って喜んでいる。ユッテも目を輝かせて言った。

「とてもいいわ。これもあげる。新しい下着も全部付けるわ、どう?」

 アフラは鏡の中の自分に恍惚として言った。

「私、いいんですか? こんなにして頂いて」
「もちろん。私が友達としてあげたいの。これならアフラを何処へだって連れて行けるわ」

 アフラは少し涙ぐんだ。

「受け取ってくれる?」

 アフラが頷くと、ユッテはアンナとアグネスを「よくやったわ」と褒めて肩を撫でた。
 
 
 アンナに手を引かれ、アフラは赤絨毯の階段を上がっていた。その後、アンナとアグネスもそれぞれベールとサークレットを被り、着替えた姿をお母さんに見せに行きたいと言われたのだ。何故かアフラも一緒にと手を引かれ、今に至る。ブリオーが少し長くて引き摺るので、足下が少し危うい。
 しかし、ユッテに言わせれば「ブリオーは少し引き摺って着るものなのよ」との事だった。それは城の中だけで過ごす上流階級に限られるような気が多分にする。
 実はその後セシリアに猿股を見本に欲しいと頼まれ、パンツを履き替え、カボチャ型のドロワーズを穿いていた。それによってスカートが少しフワリと横に広がり、シルエットがさらに綺麗になっていた。
 ユッテの部屋の一つ上階にアンナとアグネスの部屋があった。そこは所謂スイートルームだ。階段を上がり切った場所から既に照明のシャンデリアや調度品の造りが違っていた。
 豪華な装飾を施した部屋の扉の前には警護の貴族が二人立っていたが、アンナとアグネス、それにユッテがいれば平服してドアを開けるのみで、アフラも素通りだった。中へ入ると部屋は広く、天井も高く、窓も大きい。ちょっとしたダンスパーティーが開かれるような豪華な部屋だった。その奥の安楽椅子にアンナとアグネスの母、エリーザベト婦人がいた。

「お母さん」
「見て見て」

 アンナとアグネスはアフラの手を引いてエリーザベト夫人の前に歩み出た。

「綺麗でしょう? 着せ替えごっこしたの」

 アンナはくるっと一回りして長いベールを見せつける。

「あらあら、みんな綺麗ね。あなたは?」

 アフラはスカートを広げ、ゆっくりと礼を取った。

「お久しぶりです。ご夫人」

 夫人はアフラの顔をよく見てから、そして気が付いたようだ。

「あなたはウーリの娘さん?」
「はい。ユッテさんと、お二人に衣裳をコーディネートしていただきました」
「見違えたわ。いい服を選んで貰ったようね」
「ベールは私が選んだの。アグネスはサークレット」

 アンナが自慢気に言った。アグネスも満面の笑みだ。

「提供したのは私よ」

 ユッテが後からそう言って胸を張っている。

「全部ユーディッタ様の服でしたか」
「ええ。でもみんなあげるわ。自分のにしていいわ」

 アンナは「ホント?」と大喜びだ。

「ありがとうございます。ユーディッタ様」

 エリーザベト婦人も丁寧にお礼を言った。やはり王女ともなると王子妃である夫人よりも身分が高いようだ。アフラはそう言う身分にはまるで無頓着に口を開いた。

「ユッテさんは、ホントはユーディッタさんなんですか?」
「あら? ずっとユッテで通してるからもうこっちよ。ユッテの方が呼びやすいし可愛いでしょ」
「勝手に名前を変えちゃいけないんじゃ?」
「いいの、いいの」

 小さく舌を出すユッテは愛称の方に自分で名前を変えてしまったようだ。
 そうしていると、口論する声がして、アルプレヒト王子と誰かが部屋へ入って来た。

「お帰りなさい、あなた」

 エリーザベト婦人がアルプレヒト王子を迎えてそう言うと、アンナとアグネスがアルプレヒト王子にベール姿を見せて纏わり付く。

「おお、とても綺麗だ。いい衣裳を着ているな」

 アルプレヒト王子はそう言ってアグネスを抱き上げた。
 後から入って来たルードルフ王子はベールをしたアフラにしばらく気が付かなかったようだが、気が付くともう目が釘付けになった。

「あ、そなたは……」

 アフラと目が合うと、そのドレスアップした姿に心が鳴り、顔が紅潮していく。

「ダメよ近付いちゃ」

 ユッテはアフラを隠すように間に立ち塞がり、背にかばったまま部屋を飛び出した。

「あ、待て」

 ユッテはアフラの手を引いて、既に走り去っていた。
 アルプレヒト王子はそれを見て言った。

「ルー。あの娘だな」
「……そうだ」
「村娘一人のためにどういうつもりなんだ」
「偶然とは言え、あの娘に権利があるのは知ってるだろう?」
「やれやれ」
「彼女の偶然は飛び切り強い。こんな風に会うなんて余は……」
「うん?」
「放ってはおけなくなる」

 ルードルフ王子は部屋を出て二人を追い掛けた。

「重症のようだ」

 アルプレヒト王子はお手上げのポーズだ。

 スカートの広がりがあると下がまるで見えず、アフラは辿々しく赤絨毯の階段を降りていた。そこへルードルフ王子が追い掛けてやって来た。

「兄様が来た。アフラ早く!」

 アフラはユッテに手を引かれ、懸命に階段を駆け下りて行く。

「待ってくれ。少し話したい」

 ルードルフ王子は階段を駆け下りて、あっと言う間に追い付いて来た。

「こっち来ないで! イーだ」

 ユッテが急に遮るように振り返った所で、アフラはユッテにぶつかりそうになった。王女に少しでもぶつかるまいと大きく避けようとしたアフラはブリオーの裾を踏んでしまい、残る階段を転がり落ちた。

「ああっ!」

 アフラは脇腹を押さえて倒れていた。

「アフラッ! 大丈夫!」
「怪我のところ……打ちました……」

 柔らかい絨毯があって大きな怪我は無かったが、アフラはかなり苦しそうだ。
 そこへルードルフ王子も階段を駆け下りて来て床にしゃがみ込んだ。

「大丈夫か!」

 助け起こそうとする兄の体を、ユッテは押し返して言った。

「レオナルドー! 来て!」

 そのユッテの声に扉から飛び出て来たレオナルドにアフラは抱き抱えられ、速やかにユッテの部屋へ運び込まれる。そして寝室のベッドに寝かされた。
 ユッテの部屋の前に取り残されたルードルフ王子は医者を呼びに走り、しばらくして先日の医者がやって来た。
 早速医者はアフラを診察した。

「傷がすっかり開いてしまっている。安静にするように言ったのを聞けなかったようだな」
「ごめんなさい……」
「こんな事では治るものも治らない。安静という事が聞けないなら、私は主治医を降りさせて貰うぞ」

 これには傍で聞いていたユッテが泣きながら言った。

「アフラは悪くないわ! 私が連れ回したの。階段を踏み外したのも私のせいよ。だからご免なさい。謝りますからアフラを治してあげて」

 王女に涙ながらに迫られて、医者は頷かざるを得ない。

「事情は判りました。二週間、出来るだけ患部を動かさないようにお願いします」
「はい!」
「先生、お風呂は入っても大丈夫ですか?」
「風呂? 駄目に決まっている。体を拭くだけにしておきなさい」
「はあ」

 あの広いお風呂に入りたかったアフラは落胆せざるを得ない。
 医者はアフラの傷の止血と消毒の処置をして、卵の薄膜を貼り直し、くれぐれも安静にと言って帰って行った。

「安静安静と。じゃあ、アフラはお泊まり決定ね」

 アフラをベッドに寝かし付け、ユッテは何故か上機嫌だ。

「でもユッテさんのベッドを取ってしまっては……」
「このサイズなら二人で寝れるわ」

 キングサイズのベッドなので、確かに二人並んでもまだ余裕がある。

「いいのかしら?」
「いいのいいの。お泊まりお泊まり」

 アフラの布団をかけ直すユッテは至って嬉しそうだ。
 そう言っていると、アンナとアグネス、エリーザベト婦人、そしてルードルフ王子もユッテの部屋へ入って来た。迎えたユッテは皆をアフラのいる部屋へ通した。が、

「はい。お見舞い終了。女の子の部屋を覗いちゃ駄目よ」

 ルードルフ王子は入り口を入った瞬間に押し出された。

「無事なのか?」
「お医者様がしっかり処置して下さったから、もう大丈夫よ。お医者様呼んでくれてありがとね。もう発つんじゃなかったの?」
「お前も行くんだろ。余は延期した。心配だからな」
「心配?。むしろ帰った方が安心だったわ。もう追い立てるなんて止めてよね。絶対安静だから」

 ユッテは「イー」を口だけで作って、ルードルフ王子を部屋の外へと追い出し、扉を閉じた。
 ルードルフ王子は外にいた護衛騎士に気まずそうにしながら、一つ言い付けた。

「ユッテを明日、必ずラインフェルデンに行かせるんだ。迎えに来ると伝えろ」

 そう言ってトボトボと帰って行った。

 教会の鐘が鳴っていた。アフラはいつしか眠っていた。目を開けるとすっかり夜になっていて、夕食も採らずにかなり長い時間寝ていたような気がする。今日は色々な事があり過ぎて疲れが出たのかも知れない。それにユッテに安静にと言って寝かし付けられれば、もはや寝るしかない。
 教会に何も言わず出て来たので、今頃は帰らないアフラを心配しているだろう。加えて夕食を作って待っていてくれているだろう。そう考えると悪いと思った反面、お腹が減って来た。
 アフラはベッドから起き出そうとした。
 すると、何故か布団が重い。隣ではユッテが眠っていた。しかも掛け布団の上に寝ていたので、揺らさず起き上がるのは意外に難しく、程なくアフラは諦めた。アフラの肩に縋るように眠るユッテの寝顔を見ていると、目に涙の跡があるのが判った。

「ごめんね……」

 そんな寝言が寂しく響いた。
 思えばユッテは二年前に母を亡くし、父も兄弟姉妹も殆ど近くにいない。家で家族のように迎えてくれる人が周囲には見当たらなかった。王家ほどの身分差があれば自然に打ち解け合える友達もイサベラの他には少なかったに違いない。アフラは何という偶然でこの人の隣にいるのだろうとしばし心を巡らせた。そして今日は自分を友達だと言ってくれた。大好きだとも。村の人には疎んじられようとも、その想いには応えようと、アフラは心に誓うのだった。
 どのくらい経っただろう。小さく鐘一つがまた鳴った。この時間は十五分と思い出す。

「アフラ? 起きたの?」

 ユッテは目を擦りつつ体を持ち上げて言った。

「ええ。さっき」
「アフラ。ごめんね。私のせいで怪我をひどくしちゃって」

 アフラが階段を落ちる寸前、ユッテは引いていた手を離し、急に逆へと振り向いた。それが無ければ事故には至らなかったかもしれない。ユッテが王女で無ければ、アフラが大袈裟に避けようとして裾を踏まなかったかもしれない。しかしそれは不可抗力というものだ。

「私がスカート踏んじゃったんです。ユッテさんのせいじゃありません」
「アフラ…‥」
「もう真っ暗。何時かしら」
「さっき鐘が八つ鳴ってたから、八時過ぎね」
「夕食無駄にして教会の人に悪い事しちゃいました。無断で外泊して怒られないかしら」
「じゃあレオナルドに知らせるように言っておくわ」
「ありがとう」
「お腹空いてない?」
「少し。いえ、かなり……」
「用意があるはずよ」

 ユッテはベッドから飛び起きて、セシリアを呼びに部屋を出た。
 重しの取れたアフラも起き上がり、部屋を出ようとした。

「だめよ。安静にしないと」

 と、ユッテに止められる。

「少しくらいは動かないと。そっと静かになら安静なんですよ」
「そうなのね。そっとね」

 ユッテは手をアフラに差し伸べて、お昼とは打って変わって丁重な扱いをする。怪我を治療する所を見ていたせいだろうか。その手から伝わる優しい気持ちが、アフラには嬉しかった。
 セシリアはルームサービスを頼み、アフラは夕食、ユッテは夜食を共に食べた。その後は着替えてから早めに就寝した。ユッテも隣に寝て、疲れていたのか、先にすぐ眠ってしまった。明日の早朝のミサには起きられるだろうか。そして講義をたくさん受けるのだ。そう思いながら眠りについた。それがアフラが運命と出会う長い一日だった。

 チューリヒを去ったアルノルトとソフィアはその後、夜道の危険さもあって途中の港町で一泊の宿を取った。エリーザベトに資金を貰えたお陰で宿を取る事が出来た。感謝をするよりない。
 そして翌日、再び二人は騎乗してツーク湖沿いの道を行き、村へ着いたのは次の日の昼頃だった。ソフィアを送り届けた時にはボルクから色々詮索を受けた。宿では別の部屋を取ったし、特段変な事は無かった事、そしてエリーザベトに足代を沢山貰った事を言い、ソフィアがそれをボルクに渡すと、逆に感謝された。
 家に帰ると母には何故一人なのかと詰め寄られ、理由を説明するのには難儀した。

「で、お土産は無いのかしら?」
「買う余裕無かったよ。あ、でも驚くものがあるよ」
「あるのね?」

 アルノルトは皮袋から残りの銀貨を机の上に出した。カリーナは驚かざるを得ない。

「こんな大金! どうしたの?」
「エリーザベト様に貰ったんだ。足代だって」
「こんなに余らせちゃっていいのかしら」
「行きの費用や準備にも掛かったし、これで足しになるでしょう?」
「お父さんが戻ったら相談しましょう」

 そしてアルノルトは旅の疲れが出て、少しの間仮眠を取った。
 
 夕方になって父とマリウスは家に戻った。その頃にはエルハルトも帰って来ていた。
 カリーナとアルノルトは当然どうしてアフラがいないのかと詰め寄った。

「アフラは怪我の療養に二週間程残る事になった。医者を呼んでくれた人があって……な」

 ここでブルクハルトは少し片目を瞑った。アルノルトにはそれで判ったが、不安にならざるを得ない。

「二週間は長過ぎるよ」
「何か不都合があるか?」
「あまり仕事はさせてなかったから、家の事で不都合は無いわ」

 とカリーナは笑った。エルハルトも首を傾げ、腕を組んで笑っている。

「そろそろちゃんとした仕事させようとすると病気するからな」

 アルノルトの不安は家の事ではなく、王子との関わりは避けられないという事だ。

「父さん。王子とはどうなったの? 逃げられなかったんでしょう?」
「ああ。だがまだ子供だ。悪い方ではなかったよ」

 アルノルトはその答えには納得がいかなかった。

「一人置いて来られたら、アフラはどうなってしまうと思う?」
「う……大丈夫さ。修道院から出ないように、固く言って来たからな」
「それくらいじゃ安心出来ないよ。パーティーの場所が修道院だったんだよ。明日すぐ、僕が迎えに行って来ようか」

 エルハルトが困惑顔で言った。

「俺にまだまだ一人でやれって言う事か?」

 ブルクハルトも言い聞かせるように言った。

「そうだぞ。それにせっかくいい医者に掛かれたんだ。傷が塞がるまでは動かさない方がいいとの事だ」
「じゃあ一週間したら迎えに行くよ。それでいい?」
「あ、ああ。どうせ迎えには行かなきゃならんからな」

 アルノルトの剣幕にブルクハルトは押し負ける形となった。

「ところでアルノルトがエリーザベト様からこんなに銀貨を貰ってきたのだけど」

 カリーナはブルクハルトに銀貨を見せた。これにはブルクハルトも、そしてエルハルトも驚いた。

「おお、こんなに! どうしてだ?」
「足代だって。行きの馬車代の足しにしてよ。お父さんも貰った?」
「我々はご祝儀を出す方だからな。貰ってないし、頂けないよ」
「ソフィアも貰ったんだ。二人分だったから山分けしたんだけど、よく考えたら介添えのお金もあるって言ってた。貰い過ぎちゃったかな」
「介添え代か、それは確かに頂いても良いものだが……アルノルトにも同額か……」
「あなた。このお金どうしましょう」
「アルノルト、それは全部お前が取っておけ。それはエリーザベト様のお気持ちだ。お前が使うべきだ」
「うん。判った。迎えに行く時もあるからそこで使うよ」

 カリーナから銀貨を入れた袋はアルノルトに渡された。

「アルノルトはエリーザベート様にも気に入られたようだったからな」
「領主一族と昵懇か。アルノルトには先を越されたよ」

 エルハルトは溜息を吐いた。

「アフラには負けるよ。王族に気に入られてたからね。これは良いも悪いもあるけど」
「あの末娘?」
「加えて王子さ」
「王子にもか!」
「うん、同じ年頃なんだ。お陰で追いかけ回されたよ。ソフィアが捕まったりもしたし。アフラを隠してただけなのにね」

 そう聞けば家族全員驚かざるを得ない。

「村の人には言うなよ。大問題になる」

 ブルクハルトは頭を掻いた。しかしエルハルトは言った。

「絶対噂になる。対策会議が必要じゃない?」
「本当に詳しい所はアフラしか判らない。帰って来たら根掘り葉掘り聞いて家族会議するとしよう」
「帰る頃にはさらに話しが大きくなっているだろうしね。連れて帰ればそんな心配は無かったんだ」

 アルノルトが父を責めるようにそう言うと、全員が睨むので、ブルクハルトは悄げるよりなかった。
 

ラインフェルデンの奇岩


 チューリヒから北西に馬車で半日駈けた所にあるラインフェルデン。ライン川沿いの小さな城砦都市には川の中に立つ城があった。シュテイン城、通称ラインフェルデンの奇岩と言われたこの城は、小さな島に切り立った城壁を巡らせた岩壁のような城だ。

 今はそこに居住してはいなかったが、ハプスブルク家にとってこの居城は一番思い入れ深い城だった。多くの子供達はここで生まれたのだから、全員の愛着も一際だ。ルードルフ王も、そこに生まれ育った家族も、定期的に里帰りのようにしばしばこの城で滞在した。ルードルフ王は今回も家族をラインフェルデン城に集め、家族会談を設けた。アルプレヒトと、長女のマティルデを始めとする既に嫁いだ娘も幾人かいて、大抵は夫を伴っている。
 約束の日の午後になっても、ルードルフ王子とユッテがなかなか来ない。滞在地のチューリヒはこの地から比較的近い立地だというのにである。王の心配と焦燥は家臣を派遣して迎えに行かせた程だった。
 ルードルフ王子とユッテはかなり遅れてやって来た。ユッテは護衛騎士二人に挟まれて無理矢理連れて来られたような雰囲気で食卓を囲む家族の中に入って来た。

「ようやく来たか」
「御父上様遅くなってご免なさい。お友達に急な事故があったのです」

 ユッテが家族が集まる部屋へ入って来て、開口一番謝罪の口上を述べた。ルードルフ王は何故か一度笑いつつ、後、厳しい顔になった。

「そうかそうか。ユッテはまだ良い。にしてもだ。ルー、お前が遅れて来るとは何事だ。アルプレヒトとチューリヒにいたんじゃなかったのか」
「申し訳ございません。御父上。縁者に急な事故がありまして」
「そなたもか……。議題は多数あるが、一番に聞きたいのはオーストリーの事だ。聞くところでは、あまり上手くいってないそうだな。領民が離反しているそうじゃないか」
「はい。オーストリーの家臣たちは若年の余の言う事を聞いてくれません。廷吏達はアネシュカ嬢を戴いて徒党を組んでおり、アネシュカ嬢の認めた事は通過可決し、余の言い出した事は総反対で否決となり、まるで主を取られてるような気分です」
「王家たるものがそんな体たらくでどうする。アルプレヒトが付いてながら何をしておる」
「はっ。面目ございません。私の範疇では税を上げる事に成功し、全て回収出来ておりますれば、問題は無いかと」
「そなたは自分の仕事をしておったという事だな。しかし、それでは民心が離れる。民心が離反すれば王家の面目が無いぞ」

 長女のマティルデが言った。

「旧領主一族が大事にされるのは当然の事ですわ。それを利用してこそ殿方の才覚というもの」

 マティルデは上バイエルン公ルートヴィヒ二世に嫁いでおり、隣にその夫を伴って来ていた。

「王の器が試されるという訳だ。だが、それにはまだ少し早いかもしれぬな」

 妻の言葉をそう継いだ、上バイエルン公はライン宮中伯でもあり、選帝侯の一人であった。
 別の姉が言った。

「ルディー、早くその娘と結婚してしまえば良いではない。后が政務に関与する事は時にある事ですもの」

 ザクセン公アルブレヒト二世に嫁いでいるアグネスだった。ザクセン公も選帝侯、かつ大元帥であり、家族会議のこの場にいた。
 さらに別の姉がそれに応じた。

「そうですわ。一二歳過ぎればもう成人。結婚してもいいのですから」

 ブランデンブルク辺境泊の一人に嫁いだヘドヴィッヒが言った。その夫は兄弟で共同統治をしていて選帝侯ではなかったが、今にもそうなりそうな情勢だった。つまりルードルフ王は選帝侯一族と次々遠戚関係を結び、親族にしていた。そうして次代の王選をも確約しつつあったと言える。
 ルードルフ王子は非常な緊張を強いられつつ、礼を取って言った。

「御父上、その事で重大なお話があります」
「そう言っておったが、何だ」
「領主が余では民心が離反して統治が立ち行かず、今後の禍根になる事が起こりそうです。オーストリー公を返上させては頂けませんでしょうか」

 親族一同が驚きの声を上げた。王はしかし、その言葉を受け取るように言った。

「考慮の上の返上か」
「はい……」
「それがどう言うことか判っているのか?」
「はい……」
「我が後継を降りると言うに等しいぞ!」
「いえ、そこまでは……申しません」
「オーストリーを任すとはそれくらいの意味があったという事だ! そなたは無役、領無しになるぞ。領主貴族ではないという事だ」
「別の領を与えて頂けましたらと……」
「甘い事を! どの領も資金と命がかかっておるのだぞ。判っておるのか。最近、聞くところではそなた、どこかの町娘を追いかけ回しているそうじゃないか」
「それは……イサベラ嬢が后候補に挙がった際にもう一人候補を加えていたのです。長く重い病をしていて捨て置かれていましたが、最近回復したので意思確認をしておりました」
「婚約者が決まったと布告している最中に何をしているのだ! アネシュカ嬢はどうするのだ」
「この際、申し上げます。アネシュカ嬢とは婚約の解消をしたいと思います」
「何てことを!」

 姉達は驚きの声を上げた。アルプレヒト王子も頭を抱えている。

「愚か者! 其方はオーストリーの布石をズタズタにするつもりか!」
「いえ、そのような事は……」
「婚約は既に領民にとっても決定事項だ。早々に止めたとは言えまい」
「アハト罪の事がありますので、民心の理解はあると思います」
「アハト罪はもう解除したし、オーストリーにとってはもう忘れたい汚点でしかない。そんな分別も無かろうとは。もう良い! このような愚か者にオーストリーは任せられぬ。実質、もう共同統治者としてアルプレヒトが治めておるようなもの。オーストリー公を改めてアルプレヒトに任じよう。異議はある者はいるか?」

 マティルダは手を挙げて言った。

「ルディーは身を引いて国情を救おうとしています。誰でも出来る事ではありません。一面では立派な行為でもあります。そんなルディーに何も無いのは今後の王家の信用にも関わります。お手当をお願いします」
「そうか。そうだったのかルーよ。なら、そうだのう、その代わりとするならば、アルプレヒトは代価としてここラインフェルデンを始め、この辺り一円に散らばっているシュヴァーベンの小領地をルーに移すのだ。オーストリーの任と一緒では厄介だと言っておっただろう。どうだ。それで異議はあるか?」
「異議御座いません」

 安心したように手を胸に当てて言うのはアルプレヒトだった。山谷の中に多数の小さな領が散在していて、本当に手を焼いていたのだ。

「ルーはどうだ」

 ルードルフ王子はむしろさっぱりした表情で言った。

「異議ありません」
「よし、ではそれで領地交換の署名をせよ。後で兄弟争いせんようにな」

 二人の王子は書記を介して書面を作り、そこに署名をした。その間に王が話した。

「儂ももう年だ。後代の事を考えねばならん。ハプスブルク伯の後継としていたハルトマンを失い、男の兄弟はもはや其方等二人しかいない。跡取り候補はもう二人しかいないのだ。アルプレヒト、そしてルー、この領の交換は二人で協力し合わなければ上手くいかぬ。二人で仲良く力を合わせてやるのだ。シュヴァーベン地域には小領地がバラバラに散在している。ルーよ、お前はまだ若い。望みが大きくもあるのだ。時間を掛け、この地域を全て纏め上げてみせよ。その仕事が成れば大きな土産が付く。シュヴァーベン大公の復活だ。そうなれば名実ともドイツ第一の王家だ。全域を公領としてみせよ」

 シュヴァーベン公領、それは前王家が所領した場所だ。それを口にする事はドイツ王後継をルードルフ王子に与えたと宣言するにも等しかった。しかし、それらの領は有力氏族に分散しており、纏めるのは無理難題でもある。
 既に署名を終えたアルプレヒトは、長兄であるのに何故かいつも後継には選ばれず、今回もオーストリー公の任命で後継にもなるかと思えたのに、それは領地の交換と共に目の前を通り過ぎて行き、顔に悔しさを滲ませた。噂ではアルプレヒトはホーエン・シュタウフェン家のゲルトルートとは母が違う庶子だとも言われた。そう考えれば、全てはつじつまが合うのだ。
 ルードルフ王子はそれらの事にはまるで気が付かないように平然と署名をし、平然と言った。

「はい。必ずや」
「今回のブルグンド諸国同盟との戦いにはルーも行ってくれた。この戦も戦後交渉に入り、ほぼ終結した」

 王がそう言うと、小さく拍手が沸いた。

「戦果としては、国境のポラントリュイ、街道沿いのムルテン、パイエルヌ、アヴァンシュを陥落し、ベルンをサヴォイア伯の保護領から独立させて切り離した。ブルグンド自由伯には臣従を誓わせ、バーゼル司教にはこちらのイースニー卿を認めさせ、バーゼルの政治が動かせるようになった。これらは十分な戦果であった」

 一同は頷きつつ大きな拍手をした。王は続けてルードルフ王子に言った。

「ルーよ。これはそなたの力もあった。この地域の管理者をルーに任じよう」
「有難き幸せです」
「領を切り取ったとは言え、まだ不安定な情勢だ。面目だけは独立させて、王領としての税を取って、実質の王制下とするがいいだろう」
「仰せのままに。それで、その…‥婚約破棄は……認めて頂けるのでしょうか?」

 王は眉を上げ、諦めたように溜息を吐いて言った。

「まだ言うか。一応皆に聞いてみるか? ルーの婚約破棄に異議のある者は?」

 兄、姉達は全員手を挙げた。

「愚の骨頂」
「浮気者」
「美談が醜聞になるだけね」
「一家の恥さらしね」
「恋は盲目と言うものね」

 姉妹達の言葉は辛辣だ。因みに最後のユッテの言葉は一番優しかった。
 王は宣言した。

「全会一致で却下だ。判るであろう、そなたの愚かしさが」

 ルードルフ王子はここで顔を赤くして涙を滲ませ、肩を落とした。王は嘆息をするよりなかった。

「では、次はユッテだ」
「はい。御父上様」
「このようにルーは結婚に半ば失敗している。お前の婚約を進めざるを得ない」
「ベンケルとですか?」
「そう、プシェミスル家の跡取りだ。ベンツェルはいい面構えだった。ボヘミアのいい王になるだろう」

 ユッテは心に痛みを覚えた。遠い野に膨らみつつあった夢をを引き裂かれるような、そんな傷みだった。

「承知しました。準備はして来ましたもの」

 それでもユッテは父に笑って見せた。

「ボヘミアもモラヴィアを含む大領地だ。頼むぞ」

 王は頷いて、さらに言った。

「まあ、ルーの事も無駄ではない。今回のブルグント連盟諸国との戦いも落ち着いて来たが、判った事がある。イサベラ姫がこちらの手にある事は、抑止力の上でかなりの有利を生んだ。ルーの妃選びに加えたのはその為もあったのだ。ルー。最後に確認しておくが、イサベラ姫と結婚する気はもう無いな」

 これにはアルプレヒトが言った。

「これは、先程もう決まった事です。もう動かすべきではありません」
「そうだな。しかし、次の話がある。今、ラウフェンブルクがアンナや周辺諸国を取り込んで領を切り崩そうと画策しているという情報がある。それに加え、イサベラ嬢にはラウフェンブルクの同年代の遺児が度々接触しているそうだ。もしイサベラ嬢がそちらへ嫁げば、ブルグント都市連盟と手を組んで厄介な勢力となりかねない。城から抜け出した後は修道院に隠れ住んでいるらしいが……」

 ルードルフ王はユッテに顔を向けた。

「ユッテに聞きたい。イサベラ姫の最近の様子はどうだ」

 イサベラがエンゲルベルク修道院にいて、最近もユッテと会っていることは、いつの間にか王に知れていたようだ。ユッテは考えつつ言った。

「元の修道院に帰りましたわ。ラウフェンブルクのルードルフとは結婚披露宴で同席になっただけです。少し話したくらいなので、心配する程じゃないと思いますけど。どちらかと言えばあの人の方が……」

 と言ってからユッテは口をつぐんだ。ここでアルノルトの名前を出すのは流石にいけない。

「誰だそれは」
「それは……ルーディックです」
「ホーンベルクのか? 新郎じゃないか」
「ええ。新郎なのに何故か閉口するくらいプッシュが強いんです」

 ユッテは言い逃れのために少し輪を掛けて言うが、全くの嘘ではない。心でごめんねと謝る。

「けしからん奴だな。しかしイサベラ姫はあの様な才媛だ。すぐ引く手数多になるのも当然だろう。敵対勢力に取られれば大きな痛手となろう。ブルグントが寝返らない布石として、是非とも繋ぎ止めておきたい。繋ぎ止める方法としては、今や空いてるのは儂しか居らぬと気が付いた。結婚を嗾けておいて空いてるのもいかん」
「お父様? まさか………」
「終戦の交渉で、儂がイサベラ姫と結婚する話が上がっている」
「えええっ!」

 王族一家は驚愕に包まれ、しばし静けさが訪れた。ルードルフ一世はこの時六十四歳、イサベラはまだ十三歳だった。五十一も年が離れている。

「本気ですか。年をお考え下さい」と頭を抱えるのはマティルデだ。

「まあまだもう少し先になるし、年が違い過ぎるので当面は面目のみになるだろう。しかしこれで周縁の大国がほぼ親族になるわけだ。家族が一人増えると思えば良い事ではないか。他に異議があれば聞くぞ」

 そう言われると、誰も止める言葉が見当たらない。異議の声を上げる理由は無かった。ユッテ以外は。

「異議は無いようなら通過可決だ。ルーもいいんだな」

 ルードルフ王子は頷いた。
 ようやくユッテが口を開いた。

「イサベラがかわいそうです……」
「全ヨーロッパ一の結婚になるぞ。修道院などに隠れ住むのではなく、城で悠々と一緒に過ごせるようになるのだ。ユッテの為にもなるぞ。悪くは無かろう」
「でも、イサベラが嫌がったら、やめてくれますか?」
「そうか。ユッテは友達想いだ。イサベラ姫の嫌がる様にはしない。そう約束しよう。ならば許すか?」
「はい……」

 ユッテは頷くが、心は失意に陥った。本音は心の底から嫌だ。人の結婚を弄ぶこの人が父だとは、その父と大事な友とのこのような結婚に自分が承認を出すだなんて、信じられない。嘘だと思いたい。

「では、結婚の件は通過可決としよう」

 王の言葉にユッテは立ち上がり、部屋を駆け出した。

「ユッテ!」

 ユッテを追うようにルードルフ王子が出て行った。それを機に会談はお開きとなった。


 ユッテは厚い絨毯の廊下を走り、絨毯の切れ目の重なった場所で転び、近付いて来た兄が追い付けない程にさらに走り、誰もいない避難口の階段を降りて来た。岩壁に四角く穴が空いたような平らな場所があり、天井に吊り下げられた船を降ろせば川に逃げられるようになっている。

 そこからライン川の流れを見つめながら、ユッテは涙が止めどなく溢れて来るのをそのままにしていた。
 後からルードルフ王子が階段を降りて来て、「ユッテ」と声を掛けた。
 ユッテは慌てて涙を拭いた。

「どうだ、結婚を弄ばれる気持ちは。余の辛さが少しは判っただろう」
「誰のせいかしら?」
「それについては詫びる。だが遅かれ早かれ決まっていただろう」
「私は、心の準備は出来てました」
「なら何故逃げたのだ」
「イサベラにまで酷い事をして、私はそれを承認までしてしまいました。こんな事なら兄様がしっかりイサベラを口説き落としていれば良かったのよ。それなら私、応援してあげたわ」
「気持ちが無ければ一緒だった。我が思いさえままならぬ。思いすら余のものではなかったという事だ」
「アフラをそんなに好き?」
「そうだな……会えばいつも、まるで何も無い荒野に、一時だけ色鮮やかな花が咲くような気持ちになった。でも、もうそれも終わりだ」

 同じ思いにユッテも心当たりがあった。今までそれに気が付かなかった。

「それは、恋ね。少しだけ、届かなかったわね」

 ユッテはそう言って、また涙を零した。

「ああ、泣くが良い。余の代わりにもな」

 そう言うと、ユッテは兄に抱きついて泣いた。

「色々、邪魔してご免ね……」
「ユッテが邪魔な事など、あるものか」
「嫌な事いっぱいしたわ」
「大した事ではない」
「私達、似たもの同士ね……」

 その言葉は何処を差しているのか王子には判らない。

「そう言ったろう」

 ルードルフ王子はユッテが泣き止むまで大人しく胸を貸していた。

 ユッテはチューリヒへ戻る事が許されず、何とか説得出来た頃には気が付けば三日が経っていた。移動日を含めればほぼもう一日が経った事になる。
 ようやくにしてチューリヒに戻ったユッテがエーテンバッハ教会の副院長室を訪れると、アフラは講義中だと言う事だった。

「じゃあ、私、後でまた来ます」
「貴女も仮入学の学生ではなくて? あれからまだ一度も講義に出席されてないでしょう。一緒にお受けになっては?」
「そうでした」

 色々あってユッテはそんな事すら忘れていた。自分を受け入れてくれる場所があることは少なからず嬉しい事だった。
 副院長の案内でユッテは講義室にやって来た。
 ドアを入るとアフラが目を見開いて、小さい声で「おかえりなさい」と言って迎えてくれた。
 ユッテはアフラの隣に座り、講義に加わった。
(何の講義?)
 ユッテは囁き声でアフラに聞いた。
(ラテン語です。全く判らなくて困ってます)
 アフラは講義テキストをユッテに見せてあげた。
 この時代の聖書や本はラテン語のものが殆どだったため、修道院でラテン語は必修科目だ。公式文書でもラテン語を使用する事が往々にしてある為、王侯貴族も少なからず同じだった。

「聖書の一節ね」

 ユッテはテキストを指で辿りながら、その訳を口にした。すらすらと滞りなく言うその解説は、ゆっくりと進めていた講師に勝っていたようで、周囲から拍手が漏れた。

「すごーい。ユッテさん、語学は天才級ですね」

 アフラも拍手して絶賛した。

「流石は王女。勉学が進んでいますな」

 講師も感心して言った。ユッテは少し恥じて言った。

「いえ。お邪魔しました。どうぞお進めにになって」
「私のお教え出来る事は少なそうですね」

 少し寂しそうに講師は講義を続けた。

 講義が終わると、アフラとユッテは執務室へ向かった。エリーザベトにその鍵を預かっていて、出入りはいつも自由だ。二人は部屋の応接用のソファーに座ってしばしの休憩をした。

「ユッテさんはラテン語ペラペラですね」
「毎日のように勉強したら誰でもそうなるわ」
「先生より解説が端的で上手でした。ユッテさんに教わりたいくらいです」
「いいわよ。教えてあげる」
「やったーっ。ラテン語判らないと講義について行けなくて。ここ判らなかったんです」

 アフラは本棚からラテン語の聖書を取り出し、ユッテに教授をせがんだ。
 ユッテはそれを先程の調子でスラスラと読み解いて見せ、アフラは必死でその速さについて行った。気が付けばあっと言う間に講義一つ分程も訳が進んでいた。

「あとは、前に貰ってたドイツ語の聖書があるでしょう?」
「はい。ここに」

 アフラがその聖書を取り出すと、ユッテはラテン語の聖書と同じ節を空けて並べて見た。

「こうして見比べれば意味が判るし、見返せば判らない単語も判るでしょう?」
「凄い。今までのこと全部書いてある! ここの数字で場所が判るんですねー。知らなかった」
「こうして対訳で両方読んでいけば、きっとあの教師より早く勉強が進められるわ」
「はあー。とても勉強になります。ありがとうございます」
「お役に立てて嬉しいわ」
「ところで、ご実家の集まりは、どうでした?」
「ええ……いつもより大変だったわ」
「なんだか浮かない顔をされて入って来て、怒られたのかなと思って」
「アフラったら。怒られたりはしなかったけど、その方がましだったかも」
「そんな大変な事ってあるんですか?」
「王宮はねえ、いろいろあるの。まだ言えないけど」

 ユッテは溜息を吐いて項垂れた。

「ここまで言って秘密ですかぁ」

 アフラもまた項垂れるので、ユッテは思わず笑った。アフラは講義の時間割を取り出して言った。

「次の講義は哲学史だそうですよ。受けますか?」
「それはちょっと小難しいからパスね」
「じゃあ、糸紡ぎします? 毎日行ってるの」
「それも苦手だわ。少しお腹が空いてるの。また私の宿に来ない?」
「そうですね。それもいいですね」

 ユッテとアフラは馬車で大通りのホテルへ行き、戻るなりロザーナにおやつをせがんだ。
 おやつとは言え、そこは王室御用達、しばらく待つとホテル自慢の高価なタルトが幾種類も出て来た。

「す、す、すごいーっ」

 アフラは望外のご馳走の山に恍惚とした。

「遠慮無く召し上がれ」
「戴きます! 全部食べていいんですか?」
「いいけど、そんなに食べられないでしょう?」
「食べられます! 別腹ですもの!」
「でも少しは余らせて、女中達にも下げ渡すのが嗜みなのよ」
「じゃあ、ちょっとずつ全種類戴きます」

 そう言いながらアフラは給仕に全種類のトルテを取り分けて貰った。そして手を汚さないように皿を持ってザッハトルテに一口齧り付いた。

「うん。おいしい」
「アフラがタルトにかける熱意も凄いわね」

 ユッテも同じトルテを手で掴んで食べた。こういう場所では手で良いようだ。アフラも真似して手掴みになる。

「私、タルトを作れるようになりたいんです」
「そうなの? じゃあ後でここのシェフに教えて貰いましょう」
「いいんですか?」
「言ってみないと判らないけど、私が言えば多分大丈夫でしょう」
「お金を出すユッテさんの権利? ですね」
「権利というか権威ね」
「権威? どう違うんですか?」
「言う事を聞いた方が身のためだぞって言う、まあ脅迫の一種だわ。最低ね」
「そんな。自然にお願い事聞いてくれるところもあるものですし」
「まあ自然な風にお願いしてみましょう」
「きっと美味しかったですって言えば、いい顔で教えてくれます」
「いいわね、それ」

 二人はタルトを食べてお腹いっぱいになると、早速給仕の案内で、厨房へ行った。
 厨房へ着くと給仕は「お待ち下さい」と言い残し、支配人を探しに行ったので、二人は周辺を歩きながら厨房の見学を勝手に始め、タルトを焼くと思われる大型のパン焼き釜を見つけた。

「これで焼くのね」
「大きい。鉄の扉が重そう」

 焼き釜には大きな鉄の扉が三段に付いていて、アフラが開けようとしてもビクともしなかった。

「こら。勝手に触るんじゃない。火傷するぞ」

 そこへやって来たコック長は言った。

「タルト、とても美味しかったです」

 アフラは開口一番から言ってみた。しかし、コック長は素気なく、

「それは良かった。しかしここは邪魔だ。向こうへ行っててくれ」

 と二人をそこから追い立てた。

「ヤーン」
「ヤーンじゃない!」
「コック長?」

 そこへ支配人を連れた給仕がやって来た。支配人はコック長を窘めた後も睨んでいる。そしてユッテの前に来て恭しく礼を取った。

「ご機嫌麗しゅう王女様。大変うちの者が失礼を致しました。ご見学をご希望だとか」
「これは! これは、これは、我が厨房へようこそ」

 コック長の態度が気持ち悪い程に急変し、右手を胸に当て、営業スマイルをしている。
 ユッテは出番とばかりに言った。

「一つお願いがあって来ました。タルトの作り方を教えて欲しいそうなの。教えてくれないかしら」
「お二人に?」
「この子だけよ。大変美味しかったので、是非教わりたいと」

 頷いているアフラを見て、コック長は言った。

「ウチのレシピはそう安々とは教えられないのです。それにこの子じゃ小さ過ぎて作れないでしょう」

 アフラは食い下がって言った。

「基本だけで良いのでお願いします」

 コック長は少し考えて言った。

「ここはいつも動いている仕事場ですので、教える時間はほぼありませんから、ここでは料理は目で見て盗むのです。人手不足なので手伝うというなら作りつつ教えないでもないのですが……」

 アフラは腕を捲って言った。 
「お手伝い? 私します!」

 ユッテはしかし、慌ててアフラを止めに入った。

「駄目よアフラ、貴女は安静にしてなきゃいけないんじゃない。お医者様にまた怒られるわ」
「怪我に触らなければ、大丈夫です」
「それにこんな所で働かせたなんて言ったら、兄様に怒られるわ……」

 この言葉にアフラは、ユッテの兄に対する心境の変化を感じざるを得なかった。

「これは私の望みですもの、むしろやりたいんです」
「じゃあ、私もやる?」
「ユッテさんこそ、こんな所で働かせたら怒られそうです」
「怒られるとしたら、あなたよりここの人ね?」

 支配人が慌てて言った。

「判りました! では、急遽、体験イベントを組む事にしましょう。いいねコック長?」
「はい……。でしたら次に沢山タルトを焼く時にお呼びしますので、見学に来て下さい」
「タルトを焼く時? じゃあ良い頃合いに私が纏めてオーダーすればいいのね」

 とユッテは満面の笑顔で頷いた。

「むう、それは作ったものを食べて頂けた方がよりいいですね」

 コック長は漸く笑顔を見せて頷いた。

「では、決まりね。今日はもう沢山食べたので、早速明日の今頃、今日と同じものをオーダーします」
「明日……畏まりました」

 支配人とコック長は深く礼を取った。

「すごいわユッテさん」

 アフラは大喜びで手を打って跳ね、ユッテと笑い合った。


中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。