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ハートランドの遙かなる日々 第21章 車中泊
アルノルトが目を覚ますと、天井は白い布だった。
隣にはエルハルトが寝ている。
昨日はチューリヒへ帰って来ると、馬車に幌をつけるための材料を買い、二人で馬車にしっかりとした幌を付けた。
沢山余った幌布にくるまって寝転がると案外寝心地が良く、昨夜殆どまともに寝ていなかったエルハルトは、これなら中で寝れると、そのまま眠ってしまった。
エルハルトは日が落ちても眠り続け、ホテルに帰りそびれたアルノルトはそのまま馬車の中で眠る事にした。
時間は明け方頃で、気温は震える程に冷え込んでいた。そんな寒さで目が覚めたのだ。
アルノルトが幌を捲って外を見ると、街灯と聖母聖堂の窓の灯りが傍に見え、幾分明るかった。馬車は修道院横の広場の路傍に寄せて、停めていた。
「起きたかアルノルト」
「よく寝てたね、兄さん」
「こんな所でも良く眠れたよ。出来れば布団が欲しいが」
「少し藁を敷いたくらいだけど、意外と馬車で眠れるもんだね。これなら宿代が浮くよ」
「そうだな。追放中の身には丁度いい。アルノルトがこれを目聡く見つけたお陰だな」
「追放っていつまでなの?」
「今日で二日目、明日で三日目。明けてから帰るなら日曜日だな」
「ちょうど日曜日に僕らも帰る予定だったんだけど、一日延長なんだ」
「うん? そうか?」
「日曜日はアフラが絶対出たい講義があるんだって。それを聞いてたら夕方近いから、一泊して帰る事にしたよ」
「じゃあ、月曜日に一緒に帰ろう。この馬車でな」
「これなら座席を作ればアフラも乗れそうだ。馬車代も浮いて助かるよ。でもまだ三日もあるけど、兄貴はどうする?」
「そうだな。やる事が無いのも癪だ。どうせならアルノルトの代わりにホテルで働けないかな。食事も出るんだろう?」
「え! 働きたいの?」
「ああ、資金の有り難みが今回の旅で身に染みたからな」
「じゃあ、これから支配人の所に給料取りに行くし、紹介するよ?」
「頼む」
「どうせなら僕も一緒に働こうかな。いろいろ教えた方がいいし」
「無理しなくていいんだぞ」
「案外慣れてくると、仕事も楽しいものさ」
アルノルトは仕事場にエルハルトを連れて行き、支配人に紹介した。
支配人はエルハルトを上から下まで見てから笑顔になって言った。
「制服が似合いそうだ。週末は人が足りないから助かる」
エルハルトはすぐに今日明日の二日だけ働く事になった。アルノルトがさらに言い加えた。
「支配人、今日は最終日の予定でした。一度は辞めると言ったんですが、今日は僕もやります。教える役も必要ですし」
「そうか。じゃあ頼む。これは先に渡しておこう」
支配人はアルノルトの給料の包みを渡した。中を見れば予定より多く入っている。
「あれ? 多いような?」
「王女様に色々取りなしてくれた分、加算しておいた」
「ありがとう」
「しかし、今日分の給金は入ってないな」
「今日の給料ですが、代わりに、古い布団を幾つか貰えませんか?」
「布団か。古いのはじきに取り替えるし、替わりに金は……いいんだな?」
「はい!」
「いいだろう。あとで古いのを見繕って持って行くといい。残り一日頑張ってくれ。しばらく一通り中を案内してあげるといい」
支配人はアルノルトの肩を叩いて歩いて行く。
エルハルトはそれを見送って言った。
「偉い! 早速布団が貰えるとは。支配人はいい人そうだな」
「いや、壺の件ではお金に厳しいったらないんだ。皿を割らないように気を付けて……」
「そうだったか……」
アルノルトとエルハルトは仕度部屋でボーイ服に着替えた。
「袖も肩幅もピッタリだね。かっこいい」
エルハルトには一番大きなボーイ服が合ったが、足の丈だけは少し短いようだ。背が高くスタイルのいいエルハルトは驚く程格好が良くなった。
そして二人が厨房へ入って行くと、それを見たコック長や、パティシエが目を丸くした。
「あれ? どうしたアルノルト?」
「戻って来たのか? そちらは誰だ?」
アルノルトは仕事場の人に兄を紹介して、皿洗いの段取りや、片付け場所を教えた。
そして、次にはフロントへ行き、ポーターの仕事を一通り教えた。
「実は、この仕事は取り合いなんだ」
「取り合い?」
「重いものの方がチップが貰えるから」
「ああ、そうか」
「この仕事の時は他の人に呼ばれても、騙されないでね」
「そう言う事か。判った」
エルハルトはそれから皿洗いをして過ごし、アルノルトは途中からポーターの仕事をした。
「アルノルト、上で女の子が呼んでるよ?」
早速クオニーがそう言って来たが、アルノルトは、「後でね」と取り合わない。
「玄関を掃除したらどうだ」
グランがそう言って来ても、「後でね」と、アルノルトは素早く荷物を取りに走り、階段を運んだ。山で鍛えた足、階段を上るのは一段飛ばしだ。
残された二人はお手上げのポーズだった。
仕事は午後の休憩となり、アルノルトはエルハルトをエーテンバッハ教会へと連れて行った。
アフラの宿泊棟を訪ねるとフィオナが出て来て、この時間は講義だという。
アルノルト達は次には講堂の裏へ行き、窓を覗くと、アフラはやはりそこにいて、熱心に講義を受けていた。ユッテもその隣にいる。
「かなり真剣な顔で勉強してるな」
「そうなんだ。アフラは最近勉強熱心なんだ」
そう話していると、アフラが気が付いて窓から顔を出した。
「そこで話してると聞こえるわ。あれ? エルハルト兄さん!」
「おお、元気か。いいのか? 講義は」
「良くないけど、どうしているの?」
「お金が無くて帰れないんじゃなかったか?」
「届けてくれたの?」
アルノルトは銀貨四枚を取り出して、窓越しにアフラに渡した。
「わ!」
「取り敢えずアフラの分、返しておく」
「やったーっ!」
アフラは思わず飛び跳ねて喜んだ。
講堂からは沢山の「シーッ」と言う声が聞こえた。
アフラが声を落として言った。
「ありがとう。これで教会に寄付出来るわ」
「そんなに寄付するのか?」
「まあ、半分? じゃあ戻るわ」
アフラはそう言って自席に戻って行った。
帰る道すがら、エルハルトはエーテンバッハ教会に数台の馬車が停めてあるのを見て言った。
「馬車をここに移動しようか。水場があるし、人通りが少なくて落ち着ける」
「多分大丈夫じゃないかな? 教会の人に聞いてみるといいよ」
「そうする」
エルハルトはさっき宿泊棟に居たフィオナに馬車を置いていいかを聞いてみた。
「置くだけならどうぞー」
とフィオナが言ったが、本来この場合、馬車の中に泊まり込む事までを聞かなければいけない。
しかし、時間の少ないエルハルトはこの答えで満足し、馬車を昼休憩のうちにエーテンバッハ教会に移動してしまった。
そこからアルノルトはと言えば、代理人のリューティケルと話しに市庁舎に行ってみた。
しかし、あいにく来客中だったので、さらにミュルナーの家に行って、王子から返答が無いかを訊いてみた。
ミュルナーは言った。
「まだだな。何でも今は遠征に出ているそうだ。捕まるのに時間が掛かるかもしれん」
「そうなんですか。遅くなるのは困るんです」
「示談は歓迎なんだったな」
「はい。歓迎です。言った条件であれば」
「ならば先方の返事一つで示談に出来るんだが、遠征じゃあいつになるか正直判らない。そこのホテルに住まわせて貰っているんだろう? 連絡が来たらフロントに知らせてやろう」
「宿はもう出るつもりなんです」
「じゃあどこに連絡をすればいい?」
「エーテンバッハ教会に妹がいますのでそちらへ。日曜日まではチューリヒや近郊にいます。もしもう居なければ、ウーリに連絡をして貰う事になります。また顔を出しますよ」
アルノルトはそう言ってウーリの住所をミュルナーに渡した。
「代理人にも言っておけ。多くは代理人との話で済むからな」
「さっき行ってきたんですが、来客中だとかで……。手紙では残して来ました」
「あやつも忙しいからな。ウーリにはヨハネス騎士団の事務所はあるか?」
「騎士団ですか? 聖ラザロ騎士団ならあるんですが……」
「ラザロとは稀少だな。ヨハネス騎士団かテンプル騎士団の事務所があればそこへ送金出来るんだがな」
「そんな事が出来るなんて知りませんでした」
「大きな町ならあるんだがな」
「自治の州ならそう言うのがあってもいいですよね。誘致出来ないか訊いてみます」
「それは気の長い話だな。だが口利きはするぞ」
ミュルナーは大きな声で笑った。
夕方となり、仕事を終えると、アルノルトは部屋へ帰り、ユッテとセシリアに今日で出て行くと告げた。
泊まるのは馬車の中だったので、行き先も特に言わなかった。
「これまで泊めてくれてありがとう。兄が来てるから、一緒にいようと思う」
「そう。出て行ってしまうのね。この生活も、もうすぐ終わってしまうのね」
そう言ってユッテはとても寂しそうな顔をした。
「またウーリに遊びに来るといい。お忍びでね」
「そうね。たまに息抜きを要求して、遊びに行きたいと思うわ。今度はちゃんと歓迎してね」
そう言ってユッテは手を差し出した。
「ああ、お忍びなら歓迎さ」
そう言ってアルノルトはユッテと握手をした。
アルノルトは今まではユッテ達を災難のように思っていたのに、こうして歓迎すると言って握手している事に自分でも驚いた。実際村に来たら村人から隠す事には苦しむ事だろう。
「日曜日の講義には来るんでしょう? 朝、エーテンバッハ教会に来れるかしら?」
「判った。それならすぐ近くにいるから問題無いと思うよ。じゃあまた月曜日に」
荷物を纏めて部屋を出て行ったアルノルトは、コック長や支配人に別れの挨拶をした。
隣に出て来たエルハルトは、夕食後までまだ働くそうだ。
「お世話になりました。あとは、今日の報酬ですが……」
「ああ、そうだったな」
支配人は布団部屋へ連れて行ってくれ、古い布団を沢山くれた。
多過ぎたのでそれをそのまま脇に積んで置いておき、アルノルトは馬車を取りに行き、エルハルトの仕事が終わる頃にまたやって来て、それを一緒に積み込んだ。
これはグランやクオニーも手伝ってくれた。
グランとクオニーに見送られながら、アルノルトは馬車を発した。
こうして、アルノルトは少しは馴染んだこのホテルを後にした。
そして、その日はエルハルトと二人でしっかりした寝床を作り、その中で宿泊をした。
夜は冷えたが寝心地はとても良く、場所もエーテンバッハ教会に移ると周囲の雰囲気も閑静で、落ち着いて眠ることができた。
次の日、寝ているアルノルトを残し、早朝から起き出したエルハルトは、エーテンバッハ教会の水場で顔を洗い、そこから歩いてホテルへやって来て、ボーイ服に着替えた。
「アルノルトよりボーイ服が似合うな」
コック長はそう言ってエルハルトの肩を叩いた。
アルノルトより大人のエルハルトは、皿洗いだけで無く、かなり幅広い仕事を頼まれた。
ポーターもそうだが、ルームサービスやパーティーの準備等、二日目だというのに本格的な仕事が多かった。
そうしていると、フロントにアルノルト宛の手紙が届いた。しかし、アルノルトはもう出て行っていたので、その手紙はエルハルトに渡された。
見ればその手紙の送り主は父からだ。エルハルトが手紙を開けてみると、手紙の内容は、アルノルトの訴訟についての事だった。加えてウーリでの牛の裁判の判決についてと、エルハルトの罪はお咎め無しになった事が書かれてあった。
エルハルトがそれに喜んだのも束の間、どうやら父が今日ここに来るらしい。アルノルトの訴訟に関してチューリヒへ宮廷貴族がやって来ていて、保護者による身元の保証を求めたからだと言う。
午後の休憩となり、エルハルトはアルノルトを探してエーテンバッハ修道院に行ってみた。
しかし、当然のように馬車にも周辺にもアルノルトはいない。
エルハルトは講堂の窓を覗いてみる。果たしてアフラがそこで講義を受けていた。
エルハルトはその窓を何度か叩いた。
アフラは迷惑そうに窓辺にやって来た。
「迷惑……。ここは丸聞こえなのよ?」
「急だが、父さんが来るらしい。今日」
「今日! 大変!」
後で小さく「シーッ」と声が聞こえた。
「アルノルトを知らないか?」
「今頃は多分あそこの丘かも」
アフラはそこからも見えるリンデンホーフの丘を指した。
「判った。行ってみる」
エルハルトはリンデンホーフの丘へと向かった。
その頃、アルノルトはリンデンホーフの丘の城壁の突き出た所に座っていて、昼食のホットドッグを食べ、お腹をいっぱいにしたところだった。
今日は日も暖かく、壁際にいると山の上にいるようで、眺めもいい。
懐も随分温かくなり、今日はアルノルトにとって久々に仕事も無く、気兼ねもない休日だった。
「もう仕事も無く、お金の心配も無く、気兼ねする事も無く、ああ良かったー」と、城壁の上に寝転んで伸びをしていると、呼ぶ声が聞こえた。
「アルノルト」
そこへ早足でやって来たのはエルハルトだった。
「兄さん? 良くここが判ったね。良い眺めだろ」
「見つかって良かった。父さんから手紙が来たんだ。今日ここへ来るらしい」
「ええ! どうして?」
エルハルトはアルノルトに手紙を渡した。
アルノルトはそれを一読した。
「お前の訴訟が結構大ごとになってるそうだぞ。王宮から宮廷貴族が身元確認に飛んで来たらしい。それで市庁舎に呼び出されたんだ」
「それくらいは大した事ないさ。代理人を通して王子に法廷闘争してるようなものだからね」
「お前、一人でそんな戦いをしてたのか」
「言わなかったっけ?」
「特急便の馬車ならもうチューリヒに着いててもおかしくないかもな」
「そうだね。とすると、まずホテルに来るんじゃないかな」
そう言っていると、美しい歌声が聞こえて来た。
見て見ると、少し離れた場所で三人の修道女が聖歌の練習をしているようだ。中年くらいの修道女と、若い修道女が二人いて、その顔には見覚えがあった。
「クヌフウタさん?」
エルハルトはそう声に出していた。
するとクヌフウタも気が付いて言った。
「あら、あなたは、ウーリの?」
「エルハルトです。奇遇ですね」
アルノルトも壁から降りて言った。
「こんにちは。またここですごい偶然だ!」
もう一人の修道女が振り向いた。
それは白い修道服のイサベラだった。
「エルハルトさん? アルノルトさんも! 本当に奇遇ですね」
「イサベラお嬢さんも! どうしてここに?」
「チューリヒの巡礼なんです。エリーザベト様と、ルーディックさんもいますよ?」
そうイサベラが振り返った先には馬車があって、ルーディックの手を取ってエリーザベトが馬車から降りて来るところだった。
「あ! あれは!」
アルノルトを見つけると、とたんにルーディックは駈け寄って来て、飛び付いて来た。
「あーっ! 誰かと思ったら! アルノルトじゃないか! 会いたかったよ!」
「やあ。前よりも元気そうだね」
「元気にもなるさ。ちょうど会いたいと思ってたんだ。何かアクシデントがあったって?」
「ああ、王子とまた揉め事だ。王子に突き倒されて、壺を割ったら、ホテルに弁償させられて一文無しさ。あ、その時貰った銀貨が役に立ったんだ。ありがとう」
「それは良かった。いや良くない。それは王子が負担するべきだろう」
「そう思ってたらいい人に会ってね。王子を訴えてやった」
「王子を訴えた? マジか!」
「真面でだ。それでお世話になったのが、手紙に書いた帝国執政官のミュルナーさんだ。是非君に勉強に来て欲しいそうだよ」
歩いてやって来たエリーザベトはその名を聞いて手を合わせた。
「ミュルナーさんとお知り合いに? 父の古くからの盟友ですわ」
ルーディックはエリーザベトを振り返りつつ言った。
「そうか。それは是非会いたいな」
「これから一緒に来たら会えるかもしれない。訴訟に伸展があったようで、身元保証に父が召喚されたんだ。この後一緒に市庁舎に行く事になる」
「それは是非一緒に行きたいが、今は姫の送迎中なんだ」
イサベラはそれを近くで聞いていて言った。
「私は構いませんわ。むしろご様子を伺いたいです。クヌフウタさんは如何です?」
「私は神の導きのまにまに行くのみです。この出会いもきっとお導きですわ」
ルーディックは二人に恭しく言った。
「では、お時間を拝借してよろしいでしょうか」
「ええ」
イサベラとクヌフウタが頷くと、アルノルトは言った。
「じゃあ、市庁舎へ行く前に、まずは父を迎えにホテルまで行って欲しい。案内するよ」
ルーディックが言った。
「じゃあ、皆さん行きましょう。まずは御父上のいるホテルだね?」
「ああ、そこから市庁舎は橋を渡って歩いて行けるんだ」
アルノルトとエルハルトは馬車の御者台に座り、皆を乗せた馬車をホテルのある広場まで案内した。
「これで行っても父さん居なかったらどうしよう」
「探すしかないな」
そんな言葉が馬車内にも聞こえると、周囲は不安になって来た。
広場に馬車を停めて、まずはアルノルトとエルハルトの二人でホテルへと入って行った。
二人がホテルへやって来ると、果たして父が待っていた。
「父さんだ!」
「良かった、居てくれて」
思わず安堵の声を上げる二人だった。ブルクハルトも安心したような顔だ。
「アルノルト! エルハルトも居たか。何処へ行ったかと思ったぞ」
「宿はもう出たんだ。手紙は読んだよ。呼び出しはリューティケルさんから?」
「おお、そうだ。宮廷貴族よりの召喚とあってはなあ。今度はアルノルトが何を起こしたかと思ったぞ。市庁舎へ来いとの事だ」
「連れがいるんだ。一緒に行こう」
「連れ?」
エルハルトは手を上げて言った。
「オレは残念だが、もうすぐ仕事だ」
「兄貴も来てよ。支配人に言えば、きっとこの時間なら休憩時間延長してくれるよ」
アルノルトがそう言うと、ブルクハルトが言った。
「エルハルトが仕事? ここでか?」
「ああ、そうなんだ。この通りね」
エルハルトはボーイ服を見せつけつつ、フロントにいる支配人の所へ行った。そして休憩時間の延長許可を貰って戻って来た。そして三人は揃ってホテルを出た。
アルノルトはブルクハルトを連れて広場へ出ると、馬車のドアをノックした。
馬車の扉が開き、そこからはルーディック、そしてエリーザベト、イサベラとクヌフウタ、錚々たる顔ぶれが順に降りて来た。
ブルクハルトは思わず敬礼を取って言った。
「息子がお世話になっております」
エリーザベトが挨拶を返しつつ言った。
「いえ、偶然近くでアルノルトさんとお会いしましたもので。ただの傍聴人と思って頂けましたらと」
ルーディックもブルクハルトに言った。
「ブルクハルトさんも昨日の今日でお忙しいですね」
「ええ、でも、昨日の裁判には皆さん居りましたな」
ブルクハルトが全員に視線を送ると、皆で笑い合った。
アルノルトは広場を少し歩いて尖り屋根の建物を指差した。
「ここがミュルナーさんの家だ」
「ここが?」
「後で紹介しよう。市庁舎はこの橋の向かいさ。近いでしょう?」
アルノルトの先導で、一同は橋を渡った。
橋は幅が広く、その上がまるで広場のようだ。
周囲にはパラソルを建てたオープンテラスが幾つもある。
「いい場所ね」
「綺麗な場所ですね」
それを見たエリーザベトとイサベラはそう頷き合っている。
アルノルトはそれを見てアフラとユッテを思い出した。勝手に行ったらまた怒られる気がした。
「そう言えば、アフラを忘れたよ」
ブルクハルトがそれに答えた。
「アフラ? 今回の訴えには関係ないだろう」
「弁償のお金を一緒に出したから、一応連名だったんだ。大丈夫かな」
「保護者の儂がいれば大丈夫だろう」
市庁舎は橋の向こうに川から少し飛び出すような形で建っていた。
そこへ団体で入って行くと、職員達の顔が変わった。通り過ぎる人がエリーザベトの顔を見るや、皆が一礼をするのだ。ここでもエリーザベトは別格に顔が通っているようだ。
受付でブルクハルトはリューティケルを呼び出した。すると二階の小さな一室に通され、大人数過ぎたのでその部屋の前の広間で一緒に待つ事にした。
程なくリューティケルは宮廷騎士とミュルナーを連れてやって来た。
リューティケルは言った。
「あなたがウーリのブルクハルト・シュッペルさんですね?」
「はい。アルノルトの父です」
「代理人のリューティケル・マンネッセです。こちらは帝国執政官のミュルナーさんだ」
「ヤコプ・ミュルナーです。お噂はかねがね」
「その向こうは王宮の代理人です」
大きな羽根の付いた帽子を被った宮廷騎士は胸を反らせて言った。
「コンラート・フォン・ティレンドルフだ。早速だが、このような訴えは取り下げて貰おう」
言われたブルクハルトは言った。
「それは、示談という事で?」
「示談ではない。王子への危険行為、王女の部屋への不法な侵入、これらがあったため、そこの子供は罪を受けて捕らえられたのだ。寛容にもそれを王子が許され、釈放となった。それなのに、王子を訴えるとは何事だ。そなたは保護者だろう。再び罪とされたくなければ訴えを引っ込めるのだ」
リューティケルは遮って言った。
「宮廷騎士殿、それはあまりに一方的です。王女の証言が詳細にありますが、そのようには読めませんぞ」
「こちらには護衛騎士の証言があるぞ。我が権限で罪に問えるくらいにはな。訴えの取り下げか、反逆罪に加えて不法侵入罪、どちらかを選べ」
圧倒的な権威を以て凄まれ、罪を突きつけられたアルノルトは、勇気を絞り、声を絞って言った。
「自分の仕事の権限の内で罪を作れるから、それで事実を曲げろと? そんなのは偽証だし、脅迫だ。僕は訴えを取り下げるつもりは無い」
ブルクハルトはアルノルトを振り返った。
「アルノルト? しかし……」
「全くないんだ」
アルノルトは首を振り、重ねて言った。
ティレンドルフは不敵に笑って言った。
「良い度胸だ。では、罪人として引っ立てるよりない。取り消すなら今のうちだぞ。王族への反逆は刑罰が非道いものばかりだからな。死ぬまで後悔で苦しむようなな」
「何てこと! 主よ!」
クヌフウタがそれを聞いて祈りの言葉を唱え出した。
ブルクハルトは真っ青になった。そして、アルノルトの顔を抱えるように言った。
「取り下げよう? な?」
しかし、アルノルトは首を振るばかりだ。
「偽証と取引することは無い!」
それを見たヤコプ・ミュルナーが間に入って来た。
「もう訴えが出ていれば彼は既に法廷の保護下にありますぞ。相容れぬなら裁判で争う事になりますな」
それにリューティケルも言う。
「そうだ。王子の代理人がここにいるなら今や裁判が出来る。市長に今からの開催を依頼しましょう」
エリーザベトが小さく礼をして言った。
「私共も傍聴してよろしいかしら? 深く親交ある大事な方ですので」
リューティケルが眉を上げ、大袈裟に言った。
「ええ。ラッペルスヴィル家のお二人なら勿論ですとも。何なら参考意見を伺いましょう」
「こちらのシスター達もお願いします」
と、ルーディックが付け加えると、イサベラは恭しい礼を取った。
「イサベラ・アニエス・ド・カペーと申します」
「カペーと言えば西の王家! それにラッペルスヴィル家と言えば、守護権者ではないか! この子は一体?」
そう言うティレンドルフにルーディックは言った。
「僕らの親友です」
ティレンドルフは信じられないと言うように首を振った。
さらにアルノルトはエルハルトに言った。
「兄さん、アフラとユッテ王女を呼んで来てくれないか。ここでもう一度証言して貰おう」
「王女? どう言う訳だ?」
「僕は王女の部屋に押し入ろうとした王子を止めた。それで突き倒された。不当な行為は王子にあった事を証言して貰うんだ。王女が偽証でなければ、この人が偽証だとハッキリするよ」
「王女は何処にいる?」
「アフラと一緒にエーテンバッハ教会にいるはずだ。でなければ働いてるホテルか」
「判った。すぐ呼んで来よう」
エルハルトはアルノルトに頷いて、その場を後にした。
ミュルナーは独り言のように、しかし、聞こえよがしに言った。
「主立った名家と王女の前で冤罪の偽証が露見するか、銀貨数枚の示談か。愚者でなければどちらが良いかはすぐ判りそうなものだ」
この言葉にティレンドルフは一気に顔色を失った。そして形勢の不利を感じて言った。
「ミュルナー殿、マンネッセ殿、少し別室で話をしたい。証言がどう食い違ってるかをな」
「それがよかろう。リューティケル、部屋はあるか?」
「元から取っていたそこの部屋がある」
リューティケルの案内で、三人は一室へ入って行った。
そして、その話を待つ間、通路にいる面々には重苦しい沈黙が立ち込めた。
アルノルトは拳を握りしめ、毎度ながらハプスブルク王家と関わる物事は何と厄介なのだろうかと思う。
ただ、王子は既に罪も許し、今は遠征で不在だったはずだ。問題の多くは権威を振りかざして都合良く事実を曲げようとする、その周囲にいる人々にあるのだ。
「アルノルトさん……」
イサベラがやって来て、アルノルトに声を掛けた。
「大丈夫ですよ。私達が付いてますから」
この言葉にルーディックが跳んで来た。そして言った。
「この僕もお忘れ無く」
アルノルトは少し笑顔になって、俯いていた顔を上げた。
そうすると、イサベラとルーディックだけで無く、皆がアルノルトの顔を心配そうに見詰めている。そして小さく頷いている。
「ありがとう。僕はここしばらく一人で戦ってるように思ってたけど、そうでも無かったみたいだ。皆さんもありがとう……」
そう言って、アルノルトには涙が滲んで来たが、泣くまいと心を堪えた。
周囲の人はそれをもどかしく微笑んで見詰めるよりない。ただ、ブルクハルトは息子の肩をポンと叩いてやった。
しばらく後、というよりは、驚く程早く、エルハルトがアフラとユッテを連れてやって来た。
「兄さん、大丈夫なの?」
「アルノルト。まだ無事そうね」
ユッテが近くに来ると、小さく笑顔を作ってアルノルトが言った。
「来てくれてありがとう」
「勿論来るわよ。私はどうしたらいいの?」
「宮廷の騎士に反逆罪を捏造されそうなんだ。訴えを取り下げなければ反逆罪を問うと言われて脅されてる。ユッテからもう一度証言をして欲しいんだ」
「何度でも証言くらいするわ。アルノルトは無実だもの!」
そう言いながら、ユッテはアルノルトの手を取り、自身の胸に置いた。
「ありがとう」
そこへ勢い良く部屋のドアが開いた。出て来たのはリューティケルだったが、すぐ後のティレンドルフに見えるように、すぐ半身を引いた。
「アルノルトは無実よ!」
そう言って王女がアルノルトの手を両手で握っている。ティレンドルフは憮然としてその状況を見、負けを悟ったように手を上げた。王女とアルノルトが友人である事がこの姿で証明されたのだ。
リューティケルはアルノルトに言った。
「銀貨八枚。それで示談を受け入れるか?」
「はい! それであれば!」
「合意成立だな」
そう言ってリューティケルは部屋へ戻り、再びドアが閉まった。
「これって……」
アルノルトは目の前のユッテに言った。
「示談成立?」
ユッテにも良く判らない。
ブルクハルトが硬い表情のまま、アルノルトの背を叩いた。
「示談になるようだ」
「示談ンッ!」
アフラが声を堪えつつ小さく跳び上がった。
「まだだ!」
ブルクハルトはすかさず言った。
「アルノルトの罪の件はまだ判らん。今やそれが一番の問題だ」
一同は喜ぶのも束の間、依然続いている会談が終わるのを、固唾を飲んで待った。
再びドアが開き、リューティケルが出て来た。
「示談成立だ。アルノルト、君の罪も無しだ」
そこにいた人々、特にブルクハルトが安心の溜め息を盛大に吐いた。
「本当ですか!」
「王女の証言が全て採用された。部屋の主、かつ王族の証言を偽証だとは言えんからな」
これにはユッテが大喜びだ。
「やったわ、私!」
「示談んーっ!」
アフラはユッテと手を繋ぎ、小躍りをした。そしてアルノルトの手も取って、三人で手を握り合った。
「示談成立だ!」
アルノルトは確認するように言うと、二人は嬉しそうに頷いた。
「アルノルト! やったな!」
エルハルトも肩を組んでそう言う。
もう片方の肩をブルクハルトが掴んだ。
「一時はどうなるかと。良かった良かった」
掴む所を全て奪われたルーディックは、手を差し出した。
「おめでとう。君が勝ち取った勝利だよ」
「皆んなのお陰だよ」
ルーディックと握手をしながら、アルノルトはまだ呆然としていた。
言いたい相手がいた。でもそれがまだ言えなかった。
部屋を出て来たヤコプ・ミュルナーはアルノルトに小さく目で頷いて、包みを渡した。
「示談金の銀貨八枚だ。私の立替だがな」
そう言って軽くウィンクしてアルノルトの胸を叩く。
そして、すぐ後に苦い顔で出て来たティレンドルフと並んで颯爽と歩いて行く。
アルノルトは数歩進み、歩みを止めた。
二人が遠くへ行った頃にようやく声が出せた。
「僕は嬉しいです!」
ヤコブ・ミュルナーは小さく振り返って、歩き去って行った。
アルノルトはそんなミュルナーを見送って棒立ちになっていた。
「どうしたんだい? アルノルト」
ルーディックが声を掛けると、アルノルトは言った。
「ありがとうは言わない約束なんだ。意外に苦しい。あれが、ヤコプ・ミュルナーさんだ」
「実にいいね。そうだ。紹介してよ」
「いけね。忘れてた。今はあの嫌な騎士がいるから、後で家に行こう」
エリーザベトもやって来て、アルノルトの背に手を当てて言った。
「あなたにはまた良いものを見せて戴きました。本当に学び多いこと。必ず後で伺いましょうね」
ユッテがやって来て、アルノルトの手を引いて言った。
「これからお祝いしましょう?」
「お祝い?」
「言ってたじゃない。示談になったらオープンテラスでお祝いしようって。皆んなで行きましょ?」
「ああ。そうだった。でも、忙しい人もいるかもしれないし……」
「あ! オレ戻るよ。かなりダメだ」
エルハルトは仕事時間をかなりオーバーしていたので、慌てて戻って行った。
ルーディックはエリーザベトを振り返り言った。
「僕らは教会へ行くくらいだったから、いいよね?」
「ええ」
エリーザベトが頷けば、一行は全員同意し、来た方向に踵を返した。
そこに集った全員が、市庁舎の斜向かいにあるレストランへ向かった。
そのレストランは建物の二階にあって、その階は三方が窓を外したようになっていて、殆どオープンテラスに近いような構造だった。
橋の袂にあるので、川も見えて眺望がいい。
「じゃあ、カンパーイ」
提案者のユッテの適当な音頭で、皆がワインの杯を交わし合って飲み始めた。
当時ワインは子供でも飲んで良く、ジュース替わりと言えた。まだ日は高かったが、ここにはワインやビールを飲む客で一杯だ。
エリーザベトやイサベラもグラスを掲げて勝利を祝ってくれた。
「勝訴出来て良かったこと」
「示談おめでとう!」
「ありがとう」
「兄さんおめでとう。私も連名だし、おめでとう」
「そうね。アフラもおめでとう」
そんな祝福のやりとりが幾度も交わされた。
メニューを見ていたルーディックは言った。
「じゃあ、僕からお祝いに一つこれを頼もう。ウェイター」
ウェイターを呼んでルーディックが頼んだのは、七面鳥の丸焼きだった。
料理が届くと、美味しそうな匂いが立ち込める。
大きな丸焼きを前にして、アルノルトは目を丸くして言った。
「いい匂いだ。ルーディック、有難く頂くよ」
「どういたしまして。先ずはアルノルトに美味しそうなところを一杯……」
そう言いながらルーディックは丸焼きをナイフで大雑把に切り分けて、アルノルトの分を盛り付けた。
次に取った皿をユッテに渡そうとしたが、ユッテは正視出来ないようで、顔を背けていた。
「あのかわいい七面鳥が……」
「かわいいけど、美味しいんですよ」
アフラがユッテに微笑んだが、ユッテは手で遮ってルーディックから皿を受け取らないので、それはアフラが貰った。
あとはエリーザベトが綺麗に切り分けて皿に配って行き、丸焼きの形がほぼ無くなった頃、ユッテも切り分けた皿を受け取った。クヌフウタとお付きの修道女も丸焼きを食べるのを避け、その皿を受け取らなかった。イサベラも一応今日はシスター姿だったのでそれに習い、結局かなりの肉が余った。
ブルクハルトは一人だけ席にあぶれて、一列離れた場所で飲んでいたので、アフラが七面鳥の皿を沢山持ってやって来て言った。
「はいお父さん。お父さんも、兄さんのお祝いしないと」
「おお、ありがとう。そうだな。アルノルトに乾杯!」
そう言ってブルクハルトはグラスを持って席を立ち、アルノルトとグラスを合わせてから、ワインを飲み干した。
「いやー、まさか王女にご助力頂けるとは。まさしく王女のお陰ですな。アルノルトからもお礼を言っておけ」
ブルクハルトは今日はユッテが王女と知っても上機嫌だ。
アルノルトはそんな父に言った。
「お礼はきっと牧場に招待すれば、もうそれで大丈夫だと思うよ」
「ええ。それ、いいわね。アフラともまた会えるし、ミルヒやアルノルトともね」
ユッテは至って乗り気だ。
しかし、ブルクハルトは頭を抱えた。
「う……少し考えさせて欲しい」
「父さん。ここまで言われればもうほぼ決まってるよ」
「そうか?」
「お忍びで来てくれるから大丈夫だよ。今までもそうだったんだし」
「今までも? 来て頂いた事が?」
ユッテは大きく頷く。
「ええ。お祭りの時には村娘の姿で、教会やアフラの診察の時にはシスター姿で来てましたわ」
「診察と言うと、クヌフウタさんの診察の時に?」
その質問にはクヌフウタが頷いた。
「ええ。元々はユッテさんの語学教師をしていまして、その時にせがまれてアフラさんの診察に行ったんですよ」
「そうだったんですか。それも王女様のお陰でしたか……」
「言い出したのはこちらのイサベラさんです。一度一緒に見学に行きましたでしょう?」
「シスターアニエスもクヌフウタさんのお弟子さんでしたか?」
「イサベラさんもユッテさんと一緒に勉強していましたから、そうとも言えますね」
「思えばウーリに良くご来臨を頂いていたんですな。アフラの言っていた友達というのはもしや貴女様でしたか」
ブルクハルトがいつに無く丁寧にな口調で問えば、イサベラは頷いた。
「ええ。その節はお世話になりました」
「こちらこそ、娘がお世話になりまして」
「私もですわよ?」
少し不服そうな声はユッテだ。
「王女様も息子共々お世話になりました。これは、やはり家に御招待しなければならないようですな」
「本当? 是非、伺わせて貰いますわ」
ユッテはそう喜んだが、イサベラが改まった表情で言った。
「私、しばらく来られなくなると思います。本国から戻るように通達が来ているのです」
「えっ。イサベラさん、帰っちゃうの?」
アフラが残念そうに言った。
「ええ。何か重要な事があるそうです。新たな婚約話かも知れません」
ユッテが考えるように言った。
「もう動いてるのかしら?」
「あら? 何かご存知?」
「いえ? 独り言。私もボヘミアに行く事もあって、しばらく忙しくなるわ。ゆっくりこうしていられるのは、もうそんなには無いかも知れないわね」
「そんなぁ。寂しくなります」
アフラはとても寂しそうだ。
ユッテは手を打って言った。
「じゃあ、明日一緒にイサベラも講義に行きましょう?」
「何の講義?」
アフラが掌を合わせて言った。
「いいですね。エックハルト先生の講義は素晴らしいんですよ。イサベラさんにも是非聞いて欲しいです」
この名前に見事に食いついたのは、エリーザベトとクヌフウタだった。
「今、エックハルト先生って言いました? 何処で講義されるのですか?」
「先生は今、チューリヒに?」
アフラはニッコリ笑って言った。
「隣のヴィンテルトゥールです。明日、講義があるんですよ」
クヌフウタは思わず神に祈った。
「ああ、神のお導きに感謝を。何を置いても受講させて頂かなければ! イサベラさんも是非いらっしゃい」
「ええ。クヌフウタさんがそう言うのでしたら」
元々ユッテとアフラに会った後は、クヌフウタの巡礼に付き合うつもりだったのだ。イサベラは笑顔で了承した。
アルノルトはそれがアフラのお気に入りの先生と見当が付いて言った。
「その先生はどういう講義をするんだ?」
「兄さんも来るんでしょ? すごい講義なんだから。例えばそう……三位一体とは!」
アルノルトは気が抜けた。
「そんな話、ウーリの教会でも散々聞いたよ?」
「三位一体は私達にも出来るのです! どう? すごいでしょう?」
「本当ならまあ……すごいね」
アルノルトは苦笑いをした。
クヌフウタはしかし頷いて言った。
「聞いていると本当に思えて来てしまうんです。何より碩学と言いますか、学識が幅広いですから」
イサベラは聞き返した。
「以前にも講義はご一緒しましたが、そんなにすごい方なんですか?」
「ええ。それはもう! 今、最高の教説をする方です」
アフラもこれに頷いた。
「はい。もう、感動して泣いちゃうんですよ。ねぇーっ」
「ねぇ」
クヌフウタとアフラはここで大いに気が合った。
イサベラはそれを聞いて少し楽しみになって来た。
「それは是非、聞かせていただきたいです」
「エクセレント! では、予定を変えて、私達も参加しましょう。ルーディックも!」
当然ながらエリーザベトも行く気満々、かつ、ルーディックが一緒に行くのも決定だ。
「席が空いているかな?」
ルーディックは少し苦笑いだ。
アフラは大事なことを思い出して言った。
「お父さん。そんなすごい先生なの。私も講義に出る約束なの。明日はそれから帰るのは遅いから、チューリヒにもう一泊する事になると思うわ」
「儂は忙しいんだ。すぐ帰らねばならん。アフラも一緒に帰るんだ」
「後で兄さん達と帰るわ。一度帰ったとしても、またこっちに来て往復するくらいの価値がある講義なの」
「無茶を言うな。第一ここから遠いじゃないか。怪我に響くぞ」
「怪我ならいいお医者様のお陰でもう綺麗に治ったわ。だから行かせて?」
「ダメだ。ここで宿泊費が幾らすると思ってるんだ」
「じゃあいいわ。明日帰るとしても、講義が終わってからね」
「何時に終わるんだ?」
「三時頃に終わるとして、ここに戻って五時頃で、それから出発ね」
「それじゃあ最終の馬車に間に合わないじゃないか。ダメだな。すぐ帰るんだ」
「ヤーン」
そんな親子喧嘩を見かねて、エリーザベトが助け船を出した。
「でしたら、明日は私共の本城にお立ち寄りになっては? ご宿泊の部屋もご用意出来ますし。皆さんで来て頂けると賑やかで楽しそう! 是非そうして下さい」
そこで手を上げたのはユッテだ。
「わあ楽しそう! 私もそこに加えて頂いて宜しいかしら?」
「ええ……もちろん。王女様も歓迎致しますわ」
そう言いながら、ルーディックと目を見合わすエリーザベトの笑顔は硬い。
というのも、同盟の盟主となって以来、反ハプスブルク派の人々が頻繁に城に出入りしていたからだ。
「しかし……」
尚も渋るブルクハルトに、アルノルトが言った。
「父さん、エリーゼ様直々のご招待だよ。無下にしたら失礼だ。それに村で城に招待されたって皆に自慢出来るよ」
「そうだな……エリーゼ様、誠に有難きお言葉、是非、この息子をよろしくお願いします。しかしアフラはすぐ無理をして病気をするので、私と娘はやはり今日明日で帰りますので」
ブルクハルトは軽く一礼をしつつ笑顔になっていた。しかし、アフラは悲しみのどん底に陥った。
「えーっ、兄さんだけー?」
「エルハルトもいるし、アルノルトには自分で稼いだ金がある」
「私もある!」
「お前は渡した分の金を返せ。馬車代で消えちまう。それに教会から外へしょっちゅう出歩いてるそうじゃないか。危なくて置いて置けん」
アフラは悲嘆に暮れて泣き出し、「お約束ダメでした」と言って隣のユッテに撓垂れ掛かった。
ユッテはアフラの背を抱き寄せた。
「あの……」
ユッテが怖ず怖ずと言った。
「アフラの自由にさせてあげて下さい」
ブルクハルトは言った。
「お言葉ですが、自由と我が儘は違うのです。我が儘で帰る日を遅くする事は、許すべき限度を越えています」
「アフラのは師を慕う向学心であって、我が儘とは少し違いますわ。この年ならもっと勉強に力を入れてもいいはずです。もっと勉強させてあげる事を考えては戴けませんか?」
ユッテの言葉にアフラは涙ながらに感じ入った。
「ユッテさん……」
「そうですな。村にいて教育が足りなかった事は、私も反省せねばなりません。しかし、ウーリにはウーリのやり方がありますので、干渉はしないで戴きたい」
ウーリのラントアーマンにそう言われれば、ユッテももう口出しは出来なかった。
アフラはキッと父を振り返って言った。
「ならお父さん、今ならまだ特急便に間に合うでしょう?」
「ああ、最終便がまだある」
「じゃあ、今すぐ帰りましょう? 早い方がいいんでしょう?」
そう言ってアフラはブルクハルトの手を引いた。
「まあそうだが、今度は急に何だ」
「皆さん、それでは私は分からず屋の父とウーリに帰ります。イサベラさんもお元気で。エリーゼ様、大変お世話になりました。ユッテさんまた講義で。皆さんまた会いましょう」
アフラは素早く挨拶をして、ブルクハルトの手を引いて歩き去って行った。
「皆さんお元気で」
ブルクハルトが入り口で振り返って帽子を振り、アフラに引かれるままに歩き去って行った。
残された一同は、一様に静かになっていた。
「まるで嵐が去ったようだ……」
アルノルトが呟くように言うと、ユッテが呆然と見送った姿勢のまま言った。
「あの子、また講義でって……まさか、行って戻ってをするつもりかしら」
「まさか。いや、あり得る……」
「じゃあ、私達は約束通り講義に行かないとね」
「えっ。アフラが行かないなら、僕は行ってもしょうがないよ」
「あら? あなたは私と行く約束をしたはずよ? 約束を破る気かしら? それに、アフラは来るつもりだと思うわ?」
「そうだった。じゃあ約束通り行こう。その後はラッペルスヴィル城へも行くんだし」
ルーディックが言った。
「歓迎するよ。アルノルトは一度は来たんだよね?」
「ああ、大きかったね。あそこを家にしてるなんて考えられないよ」
「まあ、居住空間は一画だけで小さなもんさ。明日は朝からヴィンテルトゥールへ講義へ行って、その後は直行が近いからここにはもう寄らない。出来れば今日中に、あの人を紹介して欲しいんだが、いつ行こうか?」
「ミュルナーさんは結構忙しいんだ。公務が終わった夜がいいと思う。すぐそこだから、今ちょっと行って家の人にそれだけでも伝えて来るよ」
そう言ってアルノルトが立ち上がると、ルーディックが立ち上がった。
「すぐ会えるかも知れない、僕も行こう」
「私も一緒に参りましょう。皆さんはここで料理を食べながらお待ち下さいませね」
エリーザベトも立ち上がってそう言うと、クヌフウタが言った。
「私、これから行きたい所があります。このすぐ近くにフランチェスコ派の大きな修道院があるのです。お世話になった方がいますので。歩いて行って来ます」
そう言ってクヌフウタとお付きの修道女も席を立ち、席に残るのはユッテとイサベラだけになった。少し離れた席には馬車を御して来たまま忘れられたユッテの護衛騎士もいたが。
エリーザベトが言った。
「お互いに遅くなるかも知れないので、一時解散としましょう。もしここで会えない時は、明日の朝、エーテンバッハ教会で集合しましょう」
「はい。判りました」
この後、ユッテとイサベラはすぐにユッテのホテルへ行ってしまったので、果たしてここで一同は解散となった。
市庁舎の対岸に建つ尖り屋根に細長い塔のような建物、通称剣の家と呼ばれた家がミュルナーの公邸だった。隣接する敷地内にも建物があり、それもミュルナーの家だ。
アルノルトとラッペルスヴィル夫妻はミュルナーの公邸を訪れた。この時間は公邸のドアは開いていて、幾人かの人が広間に多めに置いてある長椅子で待っていた。受付テーブルで名前を書いて、順番に奥の応接間へ案内されるようになっていた。
「これは意外に時間がかかりそうだな」
アルノルトは受付の台帳に名前を書きながら言った。
「そうだね。まあ座って待とう」
ルーディックはそう言って近くの長椅子をエリーザベトへ勧めるが、エリーザベトはあちこちを見ながら歩いていた。柱の多い広間や、背の高い柱時計、それぞれに見覚えがある。
「この柱時計! この家は小さい頃、父と良く来た覚えがありますわ。その頃はどういう家なのかは全く判らないままでしたけれども。懐かしいわ」
三人で並んで長椅子に座り、アルノルトは言った。
「ミュルナーさんは、先代、いや先々代を相棒だったと懐かしそうに言ってました。帝国執政官と守護権者だと、きっといい協力関係だったんでしょうね」
「私ももっと早くこの家を訪れるべきでした。ここに再び来れたのも、アルノルトさんのお陰ですね。本当にありがとう。ルーディック、あなたからもお礼を言って」
「いいんですお礼なんて。ミュルナーさんに頼まれたんですから。リンデンホーフの丘で偶然会って、訴える事を教えてくれたのがミュルナーさんなんです。しかも謝礼はいらないと言うんです。これで少しはお礼が出来ました」
「そうでしたの。これも巡り合わせね」
「リンデンホーフの丘では不思議な偶然が良く起こります。今日も偶然会えたし」
「まあ。とても良い場所ですのね。幸運の面でも」
「空き時間は通ってたくらい、お気に入りの場所です」
そうしていると、奥の扉から青年が出て来た。
「こんにちは!」
アルノルトが立ち上がって挨拶をすると、青年は言った。
「ああ、あなたは前に来た子」
「はい。アルノルトです。ミュルナーさんはお忙しいですか? 紹介したい人がいるんです」
「そちら様は?」
「ラッペルスヴィル家のご夫妻です」
その名を聞いて、部屋で待っていた人が皆、ギョッとして振り向いた。
「お待たせしてしまい、失礼しました。父さん。特別重要なお客様」
青年が奥へ帰ってそう言えば、奥の部屋からミュルナーが出て来た。
「おお、アルノルトか。示談で済んで良かったな。おや。あなたは!」
「ミュルナーさん。今日はお客を連れて来たよ。ラッペルスヴィルの……」
「判っている。よく連れて来てくれた。お二人ともよく来てくれなさった。こちらのお部屋へ」
待っている客を頭越しに、二人は奥の扉から中庭を通り抜け、邸宅の方の応接間へ案内された。アルノルトは遠慮して元の広間にいたが、しばらくしてルーディックに呼ばれ、アルノルトも入室を許された。
「あのエリーゼお嬢さんがこんなに大きくなって。立派になったものだ」
「ミュルナーさんもあの頃はまだ白髪も無く、お若かったですね。お懐かしいです」
ミュルナーとエリーザベトは既に昔談義に花が咲いていた。
「儂は相も変わらずここでこの仕事をしておる。毎日トラブルを持ち込まれる相談所みたいなものだ。まあコンスタンツ司教のかかりつけになって様変わりした部分もあるが」
「コンスタンツ司教様ですか! コンスタンツ司教様は父が亡くなって以来、私共の相談相手でもあるのです」
「そうだったか。どおりでよくお話に出て来るわけだ。それで時々様子は聞いていたよ。私に直接話があると助けに動けたのだがのう。お一人だけ残されて、ここまでお辛かった事でしょう。このような婿殿を迎え、よくここまで纏め上げられた事ですな」
言われたエリーザベトは少し涙が滲んで来た。
「ええ。一人では弱音ばかりで、途方に暮れていました。でもウーリやシュウィーツ、そしてホーンベルク家の皆様にお世話になって、こうしてルーディックを迎える事が出来ました」
「良い顔ぶれがいるようですな」
「ええ。支えるべき私が支えられて、ようやくここまで来れたのです」
そう言ってエリーザベトはハンカチで目頭を押さえた。
「そうでしたか。それは大変でしたなあ。婿殿のルーディック卿も、これからはよく支えて下さるでしょうしのう」
ルーディックは胸を張って答えた。
「はい! 勿論支えますとも。今はまだ力不足ですが……」
「良いお返事じゃ。将来期待して良さそうですな」
「ええ。私も期待は膨らむばかりですの」
エリーザベトはお天気雨の如くに晴れやかに微笑んだ。
「ウーリと言えばこのアルノルトもそうじゃが?」
「ええ。アルノルトさんにもこのように、色々お世話になって。お父上のシュッペルさんにも大変お世話になったんですよ」
「おお、そうか。お父上も好人物であったな」
エリーザベトに涙ぐんだ目を向けられ、アルノルトは動悸が高まる思いだった。
「そんな。僕こそお世話になって……」
ルーディックは言った。
「アルノルトは身を以て騎士道を教えてくれる。良い友達です」
「騎士道? 僕は騎士ですらないよ?」
困ったような顔をするアルノルトに、ルーディックは続けた。
「今日も脅して来た宮廷騎士を相手にして一歩も譲らなかった。それは騎士だとしてもなかなかそうは出来ない。立派な戦いだったよ」
「そうですね。立派でした。感動的ですらありましたわ」
エリーザベトも頷いて言う。
「いえ、負けられないと思っただけです。この一週間、色々な状況と戦い通しだったから。あれ? 僕は戦ってたんだね」
アルノルトがそう言うと、ミュルナーが頷いた。
「そうとも。王家と戦うなんてすごい子だと思ったものだ。それなりの危険も話しておくべきだったよ。最後は儂とリューティケルで説き伏せて示談に持って行ったが、王女の証言がなければ危ない所だった」
「色々本当にありがとう御座いました。ミュルナーさんのお陰です。マンネッセさんもですね」
「儂等は代理に過ぎんよ。君の真実に手を添えただけだ。そして君は諦める事無く進み、勝利を勝ち取った。それにアルノルトは費用を稼ぐために、ホテルで働いていただろう。その年でなかなか出来ん事だ」
「そうでしたの?」
アルノルトは畏まったように言った。
「弁償費用で無一文になって、帰れなくなっただけです」
エリーザベトは労うように言った。
「アルノルトさんも大変でしたのね。私達を頼って下さったらよかったのに」
「次からはそうさせて貰うかもしれません」
「僕も頼ってくれよ」
ルーディックがそう言うと、アルノルトは態度が一転して大きくなった。
「まあ、そのうちな」
ミュルナーは大きく笑った。
「天下のラッペルスヴィルにこんな口を聞けるのは、この子くらいじゃないか?」
「仲がよろしくて、むしろ好ましい事ですわ」
「アルノルトはもう親友ですから」
エリーザベトとルーディックも笑っていた。
窓からは小さな中庭が見えた。そこには遊んでいて騒いでいる子供の声がする。
「ルードルフ。静かに!」
「ル、ルードルフ……」
アルノルトはあまり聞きたくない名前が出て来たので面食らった。
「ああ、我が子の名前だ」
すると、入り口からさっきの青年と、男の子が入って来た。
「父さん、呼んだかい?」
「お父さん呼んだの僕だよね?」
二人が交互にそう言うと、ミュルナーは頭を抱えつつ言った。
「ああ、ついでに紹介しておこう。我が子のルードルフと、小さい方もルードルフ、二世だ」
「こんにちは。私の父や弟と同じ名前ね。エリーザベト・フォン・ラッペルスヴィルです」
エリーザベトは立ち上がって丁寧に礼を取った。
大きな兄、続いて弟が、
「ルードルフです」
「ルードルフです」
と言いつつ礼をした。
大きい方はエリーザベトより少し上だろうか。小さい方はルードルフ王子と同じ背格好だった。だが仕草はかなり子供らしい。
「ルーディックです。ルードルフさんとルードルフ?」
ルーディックとアルノルトは苦笑いをするよりない。
「どっちを見てもルードルフがいっぱい……。どうして皆同じ名前に……」
アルノルトの疑問にミュルナーが首を振った。
「いや、流行の名だ。まあ名付け親が違ってそうなった。気にするな。年も近いだろう。仲良くしてやって欲しい。あ、後にいるのがアーデルハイドだ」
そこには二人の兄弟の背中を押している女の子がいた。
「ちょっとそこどいて。アーデルハイドです。ようこそお客様。特製のお茶をどうぞ」
二人を割って現れたアーデルハイドはアルノルトより少し大きいくらいの利発そうな女の子だった。飲み物を持って一人一人のテーブルに置いて行く。
「ありがとう」
喉が渇いていたアルノルトは礼を言って、それをすぐに飲んでしまった。
この時代定番と言えるセイジの他に、何かのハーブと蜂蜜が入っていて、とても美味しい。
「おいしい」
「良かった。ごゆっくり。じゃまじゃま」
アーデルハイドはそう言って、兄弟二人を押し出しつつ、部屋を出て行った。
「子供らにはああして実地で勉強させている。ルードルフには——小さい方のな、いろんな方面の教師を呼んで来て学ばせておるところだ。ところでルーディック殿の勉強の方法はどうしておる?」
「私は城の隣にある修道院で勉強しています」
「それでは自然哲学ばかりで実務面の勉強は出来ないだろうな。こちらでは語学や学芸はもちろん、参事会の議員や大商人からも講師を呼んで教育しておる。司法関係は儂がこの事務所での実地込みでやっている。もし良ければルーディック殿もここで一緒に学ばれてみてはどうかな?」
「私もですか?」
「講師を呼ぶ金は一緒だ。どうせなら多い方がいいと思って知り合いにも声を掛けている。学友が必要だし、共に学べば将来よく協力し合えそうだ」
ルーディックはエリーザベートの顔色を窺った。エリーザベトはその目を覗き込むように言った。
「あなたの望むままに決めなさい。あなたが当主なのですから」
ルーディックは頷いた。
「是非、勉強させて欲しいと思うのですが、希望条件があります」
「何だ?」
「一緒に学びたい人が二人います。アルノルトも一緒に勉強させてあげて欲しいのです」
アルノルトは目を丸くした。
「えっ! 僕?」
「もちろん君が望むならだ。君もここで学びたいんじゃないかと思ってね?」
「ホテルにいた昨日までならそうだったけど、ウーリは通うには遠いよ?」
「泊まり込みでもウチは構わんぞ。一人二人なら屋根裏で環境は良くないが泊まれる部屋もある。一緒に学ぶかアルノルト?」
ミュルナーのその言葉に、アルノルトの心は揺れた。しかし、ウーリでの仕事を一存で抜ける事は出来なかった。
「僕は……羊の世話の仕事があるんです。でも、今回の事で勉強が必要だと思ったから、父に相談してみます。少し答えは待って欲しいです」
「いいだろう。決まったらいつでも言ってくれ。で、もう一人は?」
「ルードルフ……と、また同じ名なのですが。ラウフェンブルク家のルードルフです」
「ほう、ラウフェンブルク公の遺児か。それは望外の人物だ。それも許可しよう」
「これも本人が望めばですので、帰って聞いておきます。今、私の城に逗留しているのです」
「そうだったか。では、ルーディック卿は決まりでいいのかな?」
「はい。でも、時期は二人と合わせた方が授業がしやすいかと思いますので、一応の返答が揃うのを待ちます」
「まだ初級編の教育だから、多少遅れて参加しても追い付けるだろう。では、決まり次第、連絡をくれ。アルノルトもな」
アルノルトは大きく頷いた。
「はい。前向きに検討します」
ルーディックがアルノルトに言った。
「連絡は僕にくれ。皆揃ってからミュルナーさんに連絡をするという事で」
「これは立派に調整役をするじゃないか」
ミュルナーは驚いた目をして笑っていた。
ミュルナーの家を出たアルノルト達は、元のレストランに戻ったが、そこには既に誰もおらず、既に席も埋まっていた。三人は合流を諦めてエーテンバッハ教会へと向かうことにした。
教会の執務室で夕食をごちそうになりつつ、アルノルトはルーディックから牛の裁判の話を聞いた。
「あの犯人、判決は国外追放に決まったよ」
「それは意外に重かったね。牛じゃあ殺しても罪にならないからね。でないとこうして肉を食べられない」
「放っておくと無罪放免になるところだったよ。捕縛時に暴れて姫を危険に遭わせたんだ。だから僕が殺人未遂罪を強く言ってそうなったのさ」
「習わしも法律と同じ扱いだよ? 自治を損なわない程度にしておいてくれよ」
「まああくまで参考意見さ。でもブルグントの情勢を話したらすぐ判ってくれたよ」
「イサベラお嬢さんの身元を明かしたのか?」
「ああ。裁判だしな。情報は全て出し尽くすべきだ」
「なんてこった……これでウーリには気軽にお忍びでは来れないかもな」
「審理の時にいた人以外には秘密にして貰っている。まだ大丈夫だろう」
「父さんはもう知っていたのか……」
「そうだ。殆どブルクハルトさんが国外追放を決めたんだ。僕のダメ押しで焼き印の刑も加えてね。それでも手緩いと言われてたが」
「誰に?」
「代理執政官が傍聴していたんだ。ゲスレル卿は両目を潰せばいいと言っていた。宮廷貴族は過酷過ぎるよ」
「それは非道いな」
「他人事じゃないぞ。下手をすればアルノルトは反逆罪でそう言う刑罰になる可能性があったんだ」
そう聞いてアルノルトは冷や汗が出て来た。
「どおりで父さんの顔色が変わったわけだ……」
「王家の周辺は本当に危険な奴らだよ。あの宮廷騎士の冤罪を覆すことが出来て本当によかった」
「王女の証言と、ミュルナーさんのお陰だな。フー、危なかったー」
アルノルトは今更ながらに胸を撫で下ろした。
「あと、そうだ。国境の立て札を動かした理由については、明確な国境が判らなかったからだと少し話を濁したので、口裏を合わせておいてくれ」
「ああ、そうか。いい逃げ口上だな」
「それで全員お咎め無しだ。褒めてくれていい所だよ?」
「ルーディックのお陰なのかな? まあ兄さんは三日の追放をされた後だったけどね」
エリーザベトが驚いて言った。
「まあ! 本当に追放になっていましたの?」
「ええ。父の独断ですけどね。そのついでに僕にお金を届けてくれて、ラッペルスヴィル城にも手紙を届けられたんです」
ルーディックは頷いて言った。
「それで合点がいったよ。じゃあ、裁判へ招聘する手紙はエルハルトさんの方だったのか。サインがよく読めなかったんだ」
「ああ。ルーディックの手紙が僕宛てだったのは、そう言う事か」
「思えば筆跡も違ってたし。後でアルノルトも来てくれて、手紙を残してくれてたね」
「ああ。こっちの裁判とミュルナーさんの事を書いた」
「ウーリの裁判後だったから、とても興味を持ったんだ。このタイミングでミュルナーさんに勉強に誘って貰えたのは、もう渡りに船だったよ。ありがとうアルノルト」
「いや。僕も自分の裁判だ。気持ち的には君以上だからね」
「じゃあ、もう決まりじゃないか?」
「いや、今日の父を見たろう。石頭だし、田舎だから他の干渉を拒むような所がある。無駄な出費は一切しない主義だしね」
「僕から一筆書こうか。少しは効果があるだろう?」
「それは助かるが、効力が強すぎる。なるだけ父の事情も汲んであげたい。最終手段に取っておくよ。資金が問題なら、もうここにタンマリあるしね」
そう言ってアルノルトは腰の革袋を叩いた。
エリーザベトが感心して言った。
「父想いのいい息子さんだこと」
「そんなことないです。ここまで迷惑掛け通しでしたから。今日もわざわざ来てくれたし」
「そうですね。裁判が片付いた後もかなり忙しかったはずです。エンゲルベルクの修道院長と揉め事があったようですから」
「そうでしたか? それは何の事で?」
それにはルーディックが答えた。
「エンゲルベルクとも峠の国境で揉めてるようだった」
「ああ、ズレンネン峠かな。あそこはウチから見えるくらい近いからね。僕もよく放牧に行くよ。峠も時々越えるし」
「じゃあ、古くから峠を国境にして来たという、エンゲルベルクの主張にも無理があるのか」
「まああそこだけかなり高いから国境の目印にはしやすいだろうさ。でもこちらの慣習では違う。向こうの勝手で思い込んでいたらそれが国境ってのもね。まあ国境なんて全部思い込みで出来てるようなものだけど」
「全部?」
「土地は本来誰のものでもない。皆の踏み歩むものだ。名前が書いてあるわけじゃないし、国境はここだって誰かが思い込んでいるだけだ。思い込みが変わればそれだけで変わるだろう? 事実、僕らは国境を動かした」
「確かにそうとも言える。まあ、もう牛もいないし、国境は戻して来たけど」
「戻してくれたの?」
「それをハルトマンにも言えば完了だ。明日は帰りにキーブルク城にも寄ろう。すぐ途中なんだ」
「あの旧家キーブルク? もうとっくに断絶したんじゃなかったっけ?」
「復興したのさ。キーブルク家の血を引くハルトマンは新キーブルク伯の後継ぎになったのさ。それで城は返還されていてね。ヴィンテルトゥールも本来はキーブルク領なんだけど、領地は殆どハプスブルク家に取られたままなんだ」
急に領主然とした大きな話になって、アルノルトは顔を引きつらせた。
「へ、へえ。あの子がねー」
「ゼンメルの事を知ったら残念がるだろうな」
「そうだね。最強だって惚れ込んでたものね」
「極刑の追放にしておいて良かったよ。ハルトマンもそうだけど、戦争寸前のブルグント公の怒りも避けられたし」
アルノルトは苦笑いをして言った。
「そういう方向の考えもあるのか。犯人には気の毒だけど、そっち方面では正解だったかもね」
食事を終えると、エリーザベトは言った。
「とても興味深いお話でしたわ。土地の習わしが法律に等しいだなんて、行ってみなければ判らないものです。二人はとても打ち解けて、率直な考え方が聞けて良かったですわ」
「それはこちらも良かったです」
「アルノルトさんはこの後どちらへお泊まりになるの? 良ろしければ宿泊するお部屋をご用意しますわよ?」
「このすぐ近くに、兄と泊まる場所があるんです」
「では、明日は朝この教会の前に集まって下さいね」
「はい。それはとても都合が良かったです。呼べばすぐ現れるくらい近くですので」
「そうですの?」
「いい夕食をありがとう。では、また明日。ごちそうさま」
アルノルトはそう言って部屋を辞した。そして教会を出て、その目の前の広場に停めた馬車に潜り込んだ。そして、ワインも入っていたので、そのままぐっすり眠ってしまった。
夜遅くなってエルハルトもそこへ戻って来て、一瞬目を開けたが、すぐにまた眠った。
エルハルトはホテルから貰って来た古い毛布をアルノルトに掛けてやり、その日はかなり暖かく眠る事が出来た。
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