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書くことに、意義なんて求めないでいい。

最近、すごしやすい気温なこともあって、外に飲みに行くことが増えた。

一人で飲むこともあるが、たいていは誰かと一緒にいる。恋人、友人、店員。はては、カウンターの隣に座っていただけの知らない人。

そうやって関わりをもって、おしゃべりを続けるなかで、ふと「なんでこのときこんなこと言ってしまったんだろう?」と振り返ることがある。特に酩酊時はそういうことが起きやすい。

後悔というのとは、少し違う。驚き、発見。


二日酔い気味のぼんやりした頭で、これはなにかに似ているなと考える。
そうだ。メモだ。メモを見返したときに似ている。

僕の書くメモは、いわゆるタスクや普通の買い物に使うようなメモもあれば、とりとめのない、脈絡のない、他愛もないものも多い。

それを見たときに考える。
「なんでこんなこと書いたんだろう?」

そう自問してみると、答えはシンプルな気がする。
「書けるから書いた」んだ。

書いているときには「これがなにかの役に立ちますように」くらいの気持ちでしかない。そんなものすら疑わしいときすらある。ただ「手を動かしてるのが楽しい」みたいな。

つまり、それがなにかの役に立つかとか、生産性があるかとかは、あくまで二次的なことなのかもしれない。


誰かと話しているときに「この会話はなにかの役に立つのだろうか?」と考えてしまって、胸がもやもやした経験はないだろうか。僕はある。

でも本当はそのコミュニケーションを有意義なものにするのは、それを振り返っている自分なんだなと思う。

そしてそれは、きっと『自分に興味を持つこと』に繋がってくるはずで。


「なんでこんなこと……?」
に対する答えを深掘りしていけば、必ず『未見の我』に出会うことになる。

だから書けるだけ書いてしまえ。話せるだけ話してしまえ。この文章もまた、読み返す自分にとっては意義のあるものになるのだから。

こうすると正当化みたいにみえるだろうか。
まあ、書く手を止めるよりは、ずっといいんじゃないだろうか。


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