短編小説:夜を歩く
23時
寝返りをうつのはこれで何度目だろうか。形の合わない箇所にむりやりパズルのピースをはめ込んでいるような気分だった。
「寝れねえ」
俺は誰に言うでもなくそうつぶやいた。しかし狭い部屋で独りそんなことをぼやいてみても余計に目が冷めていくだけだというのは嫌というほど分かっていた。ただそのことをはっきりと確認したかっただけなのかもしれない。つまりある種の諦めだ。
目を開けて上半身を起こした。そうしてみると覚醒しているはずの体に少しだけ眠る意思のような重みを感じることができるから不思議だった。
ベッドを抜けだし、冷蔵庫を開けた。中は明るくがらんとしていてマヨネーズとマーガリン、そして残り僅かな水だけが淋しげに残されている。水のペットボトルを掴んで、その軽さと買い出しに行かなくてはならないという事実に辟易としながら、中身をすべて体に流し込む。
ベッドに戻ると先ほどほんの僅かに感じていた糸のような眠気も冷水とともに飲み込んでしまったかのように消えているのがわかった。
「くそ、またかよ」
手探りで充電ケーブルにつながったスマホを探り当てる。傾けると目を焼くような眩しい画面が23時9分を示しているのが見えた。
俺は自分がどのくらいの時間に寝支度を整えたか思い出そうとしたが、うまくできなかった。ただひどく長い時間目をつむっては開けまたつむっては開け、右を向いたり左を向いたりを繰り返していたことだけは確かだ。
そしてそれは今日だけに限った話ではなかった。
おかしなものだ。一日中半ば夢遊病患者のようにうつろに過ごしておきながら、眠らなくてはならない段になって枕に顔をうずめても眠ることができず、疲れを抱えたまま朝を迎えて脳を半分寝かせながら白昼夢のような現実に戻っていく。この数ヶ月間、まともな睡眠をとった日がどれだけあっただろう。
俺は明日の朝番に思いを馳せた。トイレ掃除にゴミ出し、レジの点検、夜勤が残していった仕事の片付け、早朝に買い物に来る痴呆のような客の相手。このままだとほぼ確実にまぶたをこじ開けながらそれらの面倒な作業をこなさなくてはならない。そう考えるとどれだけ悲痛な映画を観たときよりも心に影が差すのを感じた。
そもそも俺が不眠をこじらせたのは俺自身の責任ではなく、あの馬鹿げた店長の、馬鹿げた働かせ方に問題があることは明らかだった。少しでもシフトに穴が開けば、朝も昼も夜も関係なく出勤を持ちかけてくる。人のことをゼンマイを巻けば動く、ブリキの人形かなにかだと考えているのだろう。その人形にしても見た目が良くて重宝されたり、面白い動きをして、やつを喜ばせたりするものがいて、とりわけ俺は少しのゼンマイでもよく働くブリキの兵隊といったところだろう。
俺は自虐的な感情に押しつぶされそうになるのを認め、また体を起こした。
もう全身のどこにも何をする力も残っていない停滞感があるというのに、目が冴えているという事実だけで何かをしなくてはいけないような気分にさせられた。しかしペンを持つのも本を開くのもノートパソコンの電源をつけるのも億劫で仕方がなかった。
不意に悪寒がした。
それと同時に部屋の空気がみるみる淀み、壁が歪みはじめた。見上げると天井が少しずつ床との間隔を狭め、俺をすり潰そうと動いている。肺がしめつけられる感覚がして、呼吸が細くなる。玄関へ向かう廊下はその輪郭を崩し、一点に収束すべく縮まっていく。俺は悲鳴を上げて立ち上がり逃げるように部屋の外へ転がり出た。まるで大蛇の腹の中にいるような気分だった。
外気は涼やかで微量の雨の匂いをはらんでいる。
おそるおそる振り返ると玄関の蹴飛ばした靴以外は、壁も天井も床に並べた発泡酒の空き缶も机の上のペン立てになっているマグカップも窓際においたサボテンの小さな鉢も何事もなかったかのように普段どおりの形を取り戻していた。
俺はアパートの廊下に座り込んだ。着ているTシャツが汗を吸って重くなっているのに気づいたのはやっと呼吸が落ち着いたころだった。
「なんなんだ、いまの」
とてもじゃないが眠るような気分にはなれなかった。
0時
俺はレジ袋から冷えた缶コーヒーを取り出しタブを起こした。ぱきっ、という小気味よい音に反応して入り口の側にいた二人の女の客が会話を止めてこちらを見ている気配がする。俺は舌打ちしそうになるのを堪えてその場を離れた。見慣れたはずのコンビニの明かりが眼球に刺さるようだった。
「いちいちみてんじゃねえよ」
6月だというのに気温は冬に逆行するのではないかというほど冷たかった。半袖にハーフパンツという格好で家を出てきたのを後悔する。挙げ句に靴下も履かずサンダルを引っ掛けて、バイト先とは逆方向のコンビニにいる。普段自分のいるところと違い深夜でもひどく明るい印象の店だが、今はそちらの方が都合がよかった。
店内の時計は午前0時半を指していた。やけに時間の進み方が、遅く感じられる。
俺は家路とはまた逆の方に足を向けた。とにかく今は家やバイト先と、一歩でも遠く離れていたかった。
俺は買い物袋をぶら下げて、腰を落ち着ける場所を探した。肘にかかったその胃袋めいたナイロンの薄膜を思う。このようなご時世になっても、レジ袋を買う客は多い。そして、そういうやつに限って常連だったりする。そんな連中の相手をする時は、決まって自分の中に煮えるものがあるのを自覚していた。
少し歩くと幅のあるドブ川に行き当たった。川の流れは緩やかで、水面は暗く、大量のタールが流れているようだった。その流れに沿って少し歩き、石のベンチがあるのを見つけた。周囲に人がいないのを確認して、そこに腰掛ける。腿に伝わる石の感触が、ひどく無機質的で冷たかった。
レジ袋の中からロースカツサンドを取り出し、まとわりつくパッケージを取り払った。
サンドイッチという商品を買う客に当たると、そいつがひどくマヌケに見える事がある。企業たちの策略で、具はどんどん小さくなっていき、味もたいして美味いわけではない。何が悲しくてこんなにコスパの悪いものを食べているのだろう。もっとも、コスパのいいものなんてコンビニには売られていないのだが。
そのロースカツサンドは俺の予想に反することなく安いソースの味がしたし、深夜の空腹には焼け石に水だった。
ふと前の方に目をやると、背の低い椰子のような木が連なって、遊歩道の脇の街灯を浴びている。それらが帯びた南国の風貌は、この都会にはひどく不釣り合いで、まるでその一角に追いやられたようにお互いに身を寄せ合っていた。
その光景は、小さなサボテンを俺に思い出させた。ただ身じろぎもせずに、ウイスキーグラスほどの鉢に収まった、安い小さなサボテン。花を咲かせる種類だと店員に言われ、興味本位で買ったはいいものの一向にその気配はない。最後に水をやったのはいつだったか。
俺は、大きく息を吐いた。
体の内側では投下したエネルギーの吸収がはじまり、熱を帯びてやけに喉が渇いた。
コンビニ袋から、ペットボトルのコーラを取り出す。冷えた容器についた水滴に、ビニールが未練がましく張りついていた。
俺はベンチから立ち上がった。空になった袋をそのままにしておこうかと考えたが、思い直してハーフパンツのポケットにねじ込む。強めの炭酸が喉を刺した余韻で、少し気分がまぎれた。
俺は植物とは違う。自分の足で、どこへでも行ける。
ネットニュースで、自殺の記事を見かけることがまれにある。先月の自殺者は1572人で、例年よりは少ないという。
その数字は、俺の頭に現実感のないもの、しかし勇気を持って自分の結末を選び取った者たちとして残った。彼らに比べれば、俺はこの椰子やサボテンと何ら変わらないのではないか、という気がしてくる。
ぐるぐると脳内を巡る、黒い煙のわだかまりのような考えを振り払うようにして俺は足を動かした。俺は植物とは違う。
話し声がして道路の反対側を見やると、若いカップルがちょうどすれ違おうとしているところだった。二人とも髪を明るい金髪に染め、それが安いプラスチックのように街灯を反射している。しかしこの距離では何を話しているかまでは判然としなかった。
ふと立ち止まり、スマホを取り出してホーム画面を眺める。
もうほとんど誰とも連絡をとらなくなって久しい。まれに通知が鳴るのは、バイト先からの業務的なもののみだった。スマホの液晶はそんな俺のことをなじるように照らしていた。
メッセージアプリを下へスクロールする動作は、まるでタイムマシンの行き先を設定しているかのような奇妙な感覚がある。そのとき自分が、誰とどんな会話をしていて、どんな感情を抱いたのか。チャットのやりとりを見返すと、それらを容易に思い出すことができる。
俺は自分と世界との距離が、急速に縮まった時期を覚えている。それは今では結局のところ、手の届かない曖昧なものに変化してしまっているが、俺はもう一度世界と自分との距離を測ってみたくなった。
『いま何してる?』
チャットの画面に、短い吹き出しが追加される。
こういう送信をしたあとでは毎回と言っていいほど、自らが入力した文に実感がなくなる。まるで第三者が勝手に俺のスマホを弄くり、勝手に文を作り、勝手に送信ボタンをタップしたかのように、現実感がないのだ。
俺は機械特有の冷たい重みを、一分ほど手のひらに感じたあと、諦めて画面を閉じて、ポケットに戻した。
外気はいっそう冷え込みをみせ、大通りを吹き抜ける風に鳥肌が立つ。自室に帰ることが頭をよぎったが、それを振り払うようにして歩調を早めた。
風から身を守るようにして、通りを脇道に逸れると一気に生活感のある建物が多くなる。その周囲ではどこからか聞こえる換気扇の音だけが木霊していた。
まだ明かりのついた小綺麗な家の窓からは食器を洗う音や、テレビのバラエティ番組の、作られた笑い声が漏れ出していた。そういう音や光があって初めて、ここに人が住んでいるのだなと実感が湧く。それ以外の家は、俺にとっては他人の墓のように無機質なものでしかなかった。
俺は、そういう場所を求めて歩を進めた。まるで目を閉じて、眠りに落ちていくときのように。静かな方へ、静かな方へ。
やがて今までにない静寂が訪れた。それは巨大なドミノのような白いアパートが、幾重にも敷き詰められた団地の公園だった。
そこは公園というよりは、小さな空き地のような趣で、狭い砂場と赤茶色にくすんだ、背の低い二席のブランコがあるだけだった。世界広しといえど、これほど質素な公園は、そうお目にかかれるものではない。子供だましもいいところだ。これでは、サッカーのドリブルの練習もできないだろう。
俺はブランコに腰を下ろし、少し揺らしてみる。その感覚は、長いあいだ忘れていた浮遊感だったが、子供の頃ほど楽しいものではなかった。
膝を伸ばして、折り曲げる。その動作を前後で交互に繰り返すと、ブランコはより大きく揺れた。伸ばす。折り曲げる。伸ばす。折り曲げる。
「こんばんは」
気づくといつのまにか隣に人が座っていた。少女である。高校生くらいだろうか。
俺はぎょっとして、ブランコを揺らしたまましばらく彼女の姿を眺めていた。オーバーサイズの白いプリントTシャツから、淡いブルーのホットパンツが覗く。ぴったりと被ったグレーのキャップからは滑らかな漆のような黒髪が胸辺りまで伸びている。それは俺の漕ぐブランコに合わせて、静かに揺れていた。
「こんばんは」
考える時間が欲しくて、俺はブランコが自然に止まるまで待ってから、それだけ告げた。
「え?」
彼女は信じられないものを見たというような表情になり、こちらの顔をまっすぐに注視する。見開かれた黒い瞳の向こうには、底知れない闇が広がっていた。
俺はその闇から抜け出すように、視線を落とした。少女の服装とは不釣り合いな、学校指定のようなローファーが目にうつった。
3時
「それで?」
少女の少し高い声が、溶けるように耳に入り込む。懐かしいような新鮮なような、不思議な感覚だった。
「なんでこんな深夜にこんなとこにいるの?」
「それは君もだろ」
俺は、あえて警戒心を隠さないような声色を出した。学生とはいえ初対面の相手に敬語を使わないのは気が引けたが、相手がそうするのだからこちらもそうする他ないように思えた。
「私はここに住んでるからいいの」
彼女は、おもちゃの片付けを命じられた幼稚園児のように口を尖らせてみせた。その仕草はどこかわざとらしく、むしろ喜びに溢れているようにも見えた。
苦手なタイプだ、と俺は心の中で毒づく。
「その歳で家がない、なんて苦労人なんだな」
「そうじゃなくて……ってなんか怒ってる?」
「一人の時間を邪魔されたからな。むしろなんで怒られないと思った?」
「なんか寂しそうだったから、大丈夫かなーって」
言い返そうと口を開いたところで、俺は自分の胸に奇妙な感情を抱いているのに気づいて、止めた。それは、汚れた泥水をせき止めていた栓を抜いたような、何かが流れ出ていくような、そんなイメージの感情だった。
「どうしたの?」
もう一度、目線を上げて少女の顔を見る。ほんの一瞬ではあったが、彼女の大きな黒目に、一人の頬がこけた男が映っているのが見えた。その瞳は幼い憂慮と、あどけない興味の色に見開かれていた。
「いや」
言って、俺はまたブランコを漕ぎ始めた。前後に揺れるたびに、冷気が肌をなぞっていくのが妙に心地よかった。
「変なひと」
彼女はおかしそうに笑った。
スマホを取り出して、ロックを解除すると、時刻以外なにも変化のないホーム画面が、午前2時を少し過ぎていることを知らせている。
「それって、そんなに便利なの?」
少女が揺れるスマホを目で追うようにしてそう尋ねる。
「持ってないのか?」
「……買ってもらってない」
「最近は中学生もスマホ持ってるもんだと思ってたけど」
「別にいいじゃん」
そのとおりだ。彼女がスマホを持っていようがいまいが、俺にはどうでもいいはずだ。自分でもこのやりとりの意味がよくわからなくなる。俺はこの少女に何を期待しているのだろう。
ブランコを止めて立ち上がる。途端に今まであった浮遊感が霧散し、自分が重力の支配を受けていたことを思い出す。
「帰るの?」
今度は少女がブランコを漕ぎ出す。その声にはどこか淋しげな響きがあるような気がした。
「いや」
俺は、上手く発音できない外国語を話すように慎重に口を開いた。
「帰りたくないんだ」
ブランコのまき立てる六月の冷ややかな空気は、運動を止めた身体から容赦なく体温を奪い、わずかな汗を乾かし、震えを全身に伝えた。
いっそ駆け出してしまいたくなる衝動に駆られたが、少女から逃げたような格好になるのは、本意ではない。静かに別れを告げようと、彼女の方に向き直る。
途端、そこに座っていたはずの彼女の体が宙を舞った。シャツの裾、髪の先、細く白い両腕。その瞬間彼女の、そういったあらゆる要素がほつれて広がり、彼女は大きな一羽の鳥のように見えた。巨大な翼を翻し、なにものをも省みず、ただ風のなすままに、どこまでも飛行する自由な姿を、俺はそこに見た。鳥は砂を巻き上げ、そっと地面に降り立つ。何百、何千回もそうして羽を休めてきたかのように。
「じゃあ、どこ行く?」
団地の近くには寄り添うようにして、巨大なマンションが建っている。途方もない人数を詰め込んだそのコンクリートの箱は、何かを囲うようにそびえており、部屋ごとの照明はなにか工学的な信号のように規則性をもって灯っていた。
そのマンションの規模は、どこをとっても団地とは比べ物にならないほどで、それは自転車置場や、周りに敷かれた道路の幅にまでも表れている。
俺と少女は、その幅の広い道路を、落としたコンタクトレンズを探すみたくのろのろと歩いていた。
「君って、趣味とかないの?」
「どういう意味?」
趣味。その質問を聞いて、自分の眉間にしわが寄るのがわかったが、隠す義理も必要も感じなかった。
「だって普通ひとって、暇な時間は趣味に没頭したりするものでしょ? でも君は暇そうなのに、こんなところでこんな時間にぼーっとしてるだけ」
「散歩だって立派な趣味だ」
「変わってるねえ」
彼女は伸びをするみたく後ろで手を組み、楽しげに足を動かしている。
「小説、とか」
この答えが出たのは、自分でも意外だった。
「たまに書いたりもしてる」
そこまで告げて、隣を歩く少女の顔を見ると、彼女は先程もそうだったように顔中に興味の色を浮かべていた。俺は目線を前方に戻す。少し先に止まった、青みがかったグレーのミニバンが怯えた獣のようにじっと息を潜めているように見えた。
「今書いてるのはどんなはなしなの?」
「説明するのは難しい」
実際、それは難しいことだった。小説というのはシンプルなものを、いかにこねくりひねって難しく見えるようにするかというもの、というのが持論なのだ。それを、一言で包んで持って帰れるほどにわかりやすくしてしまえば、十中八九自分がやっていることが無意味に感じられるだろう。
「じゃあ読ませてよ」
「断る」
「なんで? 恥ずかしいの?」
「いや……」
俺は適当な返事を考えながら、なぜか自分の心の中に、嵐が訪れた森の木の葉のように激しく揺らぐものがあるのを悟った。肺がより多くの酸素を送れと脈打っている。全身の血管があまねく収縮し、赤血球がこすれる音が耳の奥に木霊している。考えれば考えるほど言葉の沼は深さを増し、両足をぬかるみに飲み込んでいく。
「未完成なんだ」
やっとのことで汲み出したそれを言ってしまうと、胸の肋骨の裏を叩く嵐のような律動が、少しだけ軽くなったような心地がした。
「ふうん」
「完成したら賞に送る」
俺は少女を牽制するように、そう言い放つ。
「賞とか出してるんだ。もしかして本とか出してたり?」
「そうなればいいかな」
返事をしてから、少し冷たい調子になってしまったのを後悔する。少女は単に興味を抱いただけだ。これは俺の問題だというのに。
しかし俺には、彼女がなぜそこまで俺に興味を向けるのかわからなかった。この子は、俺に何を期待しているのだろう。この子になんの得があるというのだ。そんな考えが、水槽で飼われた尾の長い魚のように俺の頭の中を宛もなく漂っていた。
「君は?」
「私は小説なんて書けないよ?」
「そうじゃなくて。君は趣味とかないの?」
少女は、珍しい動物でも見るような目を向けた。どうも俺が他人に関心を抱くのが、不思議でたまらないというような、もしくはそんな質問をされるのは初めてだとでも言うような、そんな目だった。
「忘れた」
「忘れた?」
「子供の頃はそういうのあったかも」
「じゃあ君だって人のこと言えないくらい変わってるじゃないか」
「たしかにね」
彼女はこちらをからかうように、小さく舌を出して笑った。しかしその笑みを見ると、なぜかほんの僅かな諦めのようなものが、胸をかすめるのを感じた。例えるなら、世界滅亡の日に宝くじが当たったような、大事なスピーチの前日に、極度の緊張から体調を崩して休みの連絡を入れるときのような、そんな心地の良い諦めだった。
「散歩だって立派な趣味だよ?」
彼女の言葉は、妙に芝居がかっていた。
5時
空の色は、闇というよりはほんの少しの藍色を帯び、まばらに小さな切れ目のような雲が点在している。肌を滑る空気は、いっそう冷たさを増した。夜が朝に向けて動き始めたのだ、という実感が湧いた。
俺と少女は住宅街を抜け、大型のチェーン店が軒を連ねる地区にたどり着いた。中華ファミレス、回転寿司、大手自動車メーカー、家電量販店、駐車場の広いコンビニ。それらは道路の幅が広くなるのに比例して、増えていった。目に映る殆どが悠々としたスペースを携え、休日はそこに家族連れが群がる風景が想像できる。
「私、実は幽霊なの」
少女の声には、淀みがなかった。まるで、天気の話をするかのようにそっけなくそう言うので、危うく独り言かと聞き流すところだった。
「そうなんだ」
「怖い?」
「全然。むしろ興味が湧いてきた」
「信じてないでしょ」
「じゃあ訊いてもいいか? どうやって死んだんだ?」
その問いに、少女はしばらく閉口して逡巡していた。てっきり設定を作りこんであるものと思っていたが、どうやら思いつきで切り出した話題らしい。それに彼女はきちんと二本の足で歩いている。
「デリカシーないんだね」
「死因のこと? それなら君の死体が見つかって報道されたら、それもデリカシーないってことになるのか?」
「そうそう。だから目立ちたくない人は、極力目立たないところで死ぬの」
「自殺だね。死因」
俺と少女のすぐそばを、大型のトラックが通り過ぎていった。そのあとに続くように、冷たい空気の壁が俺たち二人の間を通り過ぎる。
「なんで、そう思ったの?」
寒さのせいか、彼女の声は少し震えていた。
「思ったんだよ。もしも交通事故や病死や殺人が起こって、君がその被害を受けたなら、死に場所なんて選べないだろ? そういうものはこっちの都合なんて知ったこっちゃない。死に場所が選べるのなんて自殺者くらいだろう、って」
少女は前を向いたまま、黙って歩き続けた。その様子は無遠慮な憶測から逃げるようでもあったし、俺の次の言葉を待っているようでもあった。
「もし仮に君が自殺者なら、僕は君を尊敬するよ」
「尊敬?」
「だって途方もないだろ。自分で自分の命を断つなんて。一体どれほどの勇気が必要なんだ、って話だよ。でも君はそれを実行したんだろ? 痛かったかもしれないし、恐ろしかったかもしれない。でもそれらと正面から向き合った結果なんだ、と思う」
一度も自殺を考えたことがない、なんていう人間はこの世にいないだろう。しかし大抵の人間は、考えるだけだ。今この電車に飛び込めば、オフィスを抜け出してビルの屋上に登り、身を乗り出せば。それらの妄想は、一瞬頭をよぎるのみなのだ。そのあとは、押し入れに布団を押し込むように、頭の片隅にしまいこんで見えなくする。
幽霊を名乗るこの少女が、死んでいるかそうでないかは、ほんの些細なことに思えた。そしてそれは実際、俺にとって些細なことだった。
「私ね」
少女が口を開く。腕を後ろに組み、振り子のように大げさに足を動かして進んでいく。その後ろ姿がやけにぼんやりとして見えた。
「疲れちゃったんだ。いろんなことに」
「いろんなこと?」
「毎朝起きて家族と話したり、制服にハンカチが入ってるか確認したり、学校で挨拶する人としない人を選んだり、半日硬い木の椅子に縛りつけられたり、ついこの前まで友達だった子が、目もあわせてくれなかったり、そういういろんなこと」
そうつらつらと話す少女の声は、川に流れる木の葉を思わせた。長い時間をかけ芽吹き、そのうち自身の重み故に枝から離れ、細い湧き水を伝い自然の流れに抗うこともできずさまよい、どこかの岸に流れ着く木の葉。そこで青々とした新芽だった頃のことを、遠い昔のように思い返したところで戻れるはずもない。いや、実際遠い昔のことなのかもしれなかった。なぜなら彼女は幽霊なのだから。
いつの間にか舗装された道は夜露に濡れ、少しずつ傾斜を持ちはじめた。何重にも緩やかなカーブを描き、その様子が巨大な黒い蛇を思わせる。俺たち二人は蛇の背に乗ってどこへむかっているのだろう? 少女が前で俺が後ろ。その背中がひどく小さく見えた。
「いままで自分には、霊感なんてないと思ってたんだけど」
「霊媒師の人とかお寺の住職的な人の目の前まで、行ってみたことあるけどなんにも見えてなさそうだったし、霊感なんてあてにならないよ」
「じゃあなんで、俺には君が視えてるんだろうね」
「わかんない。相性?」
「それじゃあ......」
それじゃあまるで、俺も幽霊みたいじゃないか。そう言おうとして言葉に詰まる。考えてみれば目の前の少女が幽霊のような質感が微塵もないように、俺には自分が幽霊ではない確固たる理由もないように思えた。足はついていて、体が半透明なわけでもない。しかしそれは彼女とて同じことだった。たとえそれが、少女の突飛な悪ふざけだったとしても。そしてなにより、自分がいま死んでいて誰にも認識されていないことを想像しても、なんとなくそのほうが自然に思えたのだ。
そのことは俺に、誰の目にも触れさせる事なく部屋の隅にしまってある小説を思い出させた。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに、俺の顔を覗き込んでいる。
「いや、もしかしたら俺も君と一緒なのかな、って」
俺の書いた小説、学生時代の友達、好きだった人、一体そのどれが自分がこの世界に存在しているという証になるのだろうか。俺が世界に向けて働きかけてきた数々のことは、その実、大海に血を一滴垂らすような無意味なものなのではないか。そうだとするなら俺が幽霊だったほうが、色々な物事をきれいに説明できるような気がした。誰も覚えていない、誰からも認識されない。それのどこが生きているってことになる?
「あなたは」
横を向くと、少女の二つの瞳がまっすぐに俺を捉えていた。
「あなたは、私とは違うよ」
「違う?」
「違うよ。だって死んでないもん」
「死んでるようなもんだ」
「今はそうかも知れないけど、生きたいなら生きられるでしょ」
意外だった。彼女なら、てっきり茶化してくるものと思っていた。
「私、いまでもちょっと考えちゃうことがあるの。ああ、自分がもし生きてたら、って。後悔ってやつだね。あのときこう言っておけばとか、こうしたらあんな出来事はなかったんじゃないか、とか。でも死んじゃったから、生きることを放棄しちゃったから、後悔なんてしても、なんにも始まりやしないし終わりもしない。そんないつ終わるともしれない時間の中で、それだけが膨らんでいく。想像できる?」
「気が遠くなるな」
「実際あたまがおかしくなりそうだったよ。もうムリって思った。死にたいって思ったね。もう死んでるのに。だから忘れることにしたの」
彼女の言葉は、遠くで静かに揺れる波のさざめきのようだった。
「でもあなたはそうじゃない。後悔することがあっても、まだ前に進むことができる」
「ずいぶん簡単そうに言うんだな」
「死んで生き返るよりは、簡単じゃない?」
「生き返りたいのか?」
「できたとしても、ってはなし。生き返る方法がどこかにあって、すぐにでもご案内できますよ、って言われてもやっぱり踏みとどまっちゃうんだ。生きるって私には難しいんだよ」
「俺だってそうだ」
少し投げやりな口調でそう告げると、少女は少し間を開けて、ねえ、とおどけた色の声を出した。
「死にたい、って思ったことある?」
「そんなのしょっちゅう思ってる」
「でもまだ死んでない」
「君はなにが言いたいんだ?」
俺は大きく息を吐いた。苛立っているような調子になってしまったが、それもまあいいか、と思い直す。
「あなたは自分で思っているより、ひどくないよってこと」
「君みたいな子供に俺の何がわかる?」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん。だって焦ってるんだもん。一緒に歩いてたらわかっちゃうよ」
鼓動が高くなり、手のひらに汗が滲む。少女の言葉は頭蓋骨の内側を共鳴していくように俺の耳の奥で鳴っていた。
「焦ってる? なにを?」
「わかんない。だってさっき初めて会ったんだもん。わかんないよ」
彼女は乾いた声で、でもね、と付け加える。
「今になってわかるのは、何かを得ようと思うなら何かを捨てなきゃならないってこと。得ようとするものの大きさに見合う何か。お金だったり時間だったり、時には人間関係だったり。どんなに大きな木も育つには何十年も時間がかかるものだから」
「だから……焦らなくていい、ってこと?」
「幽霊の言葉は、信用できない?」
そのとき、俺は腿の一部に痙攣のような振動を感じた。それは、冷え切った体が耐えきれなくなり起こった身震いのようにも思えたが、機械的なバイブレーションであることに遅れて気がつく。スマホを取り出して画面を点けると、四時を十三分すぎたことを示すデジタル時計と一件のアプリの通知が表示されていた。
『ひさしぶり!!寝てた!!笑』
6時
その液晶の光は、まるで俺の目を焼き、脳裏に濃く焦げつくようだった。
「ちょっと、ごめん」
俺はスマホのロックを解除し、メッセージアプリを立ち上げ、追加されている吹き出しを眺めた。
どう返信したものだろうか。その疑問がぐるぐると頭の中を回遊している。ひどく現実感がなかった。
『早起きだね笑』
しばらく逡巡して、結局一番はじめに思い浮かんだその短い文章を入力し、返信ボタンをタップした。我ながらそのチャットの不器用さにあきれて苦笑するしかない。
相手が自分のチャットを開いて読んだことを意味する『既読』マークが、妙に大きく見える。あるいは、自分と相手をつなげているのは短い文章の応答ではなく、このマークにほかならないのではないか、という気がしてくる。たったいま送ったばかりのチャットに『既読』がつくまでは、その文字列はなんの意味も持たないのだ。それは川に笹舟を浮かべて流すような感覚に似ていた。
辺りは月の表面のように、静けさに沈んでいた。そこには、光を放つスマートフォンと自分の体があるだけだった。
少女の姿はなくなっていた。あるいは最初から存在しなかったのかもしれない。それとも単に見えなくなっただけで、まだそこにいるのかもしれない。
「でもまだ死んでない」
そう言った彼女の声が、耳鳴りのように頭の中を反響していた。
スマホをポケットにしまい、ゆっくりと来た道を歩き出す。気づけば頭上は白煙で満ちたようにぼんやり朝の気配を取り戻していた。
中華ファミレスを過ぎ、家電量販店を過ぎ、駐車場の広いコンビニを過ぎた。少女とともに歩いてきた道を辿っていく。景色が目の前を中心として、そこに収束していくような錯覚を覚えた。一晩中無防備なサンダルで酷使し、冷え切った両足は、まるで巨大なリクガメのそれのように動きが重い。それでもこの歩みはどこまでも続いていくような気がした。
そうして足で地面をなぞっていくうちに、いつからか踏み出した足の裏を、地表が押し返してくる力があるように思えた。一歩、また一歩。押し返す力はその度に強くなる。足の力を抜けば体がどこかへ吹き飛ばされるのではないか、という気すらしてくる。目指す場所は、ひどく遠くに思えた。
バイクのエンジン音が聞こえる。それにあわせて、街全体を冷たく濡らす朝露がわずかに振動していた。青信号で足を止める度に、そこを横切る車と対岸にいる人影が増えた。何かを大仰に抱え込むトラック、信号が変わっても夢中でスマホを覗き込むスーツの男、家の周りを囲む鉢に水をやる老人。彼らはこれから、眠りにつくまでという気の遠くなりそうな長い時間の中で、何をするのだろう。いや、目的があれば、一日という時間は決して長くはないのだろうか。目的があれば、布団に身をくるんだ瞬間から幸福な眠気を感じることができるのだろうか。そうして次の日も、時間通りに起きて、荷台に物を詰め込んだり、ネクタイを締めたり、葉の様子を眺めたりするのだろうか。
角に差し掛かる度に、後ろを振り返り、いま来た距離を確かめたくなる衝動が襲う。少女と歩いてきた道は、俺が記憶していたより長くなっていた。サンダルの感触を確かめるよう、に一歩一歩を呼吸とともに踏む。喉の内側が北国に生えた木の表面のように、冷たく乾いていた。
気がつくと、俺は自室のドアの前に立っていた。
鍵を回してドアノブを引くと、外とそれほど変わらない室温が、なぜかこれ以上ないほど心地よかった。先程感じた何者かの腹の中にいるような閉鎖感は、毛ほども感じられなかった。部屋は無機質な白い空間を湛え、俺を迎えた。靴も机も、ベッドもノートパソコンも。なにもかもがいつもと変わらない表情でそこにあった。
「そうだ」
俺は自分の体の内側が、半透明の霧のようなもので満ちていくのを感じた。こんなにも眠いのはいつぶりだろう。ほとんど目を閉じかけながら、洗面所に向かい蛇口を捻った。水が湯になるのも待たずに自分の掌を洗ってから、手近にあったカップに水を汲む。それを注意深く部屋の隅の窓まで運ぶ。
「強いなお前は」
窓際には、小さなサボテンの鉢があった。サボテンは置き去りにされ、忘れ去られても、枯れることを知らない造花のように依然としてそこにあった。その針に触れると、鋭く、しかし優しげで柔らかなしなりをもっている。緑色の丸い体は、今にも脈動しそうなほど、生命力に溢れて見える。その小さな楕円球の頂点に、更に小さなつくしのようなものが生えていた。
「蕾だ」
なぜか直感的にそう感じた。何も変わっていないかに思われたサボテンが、蕾をつけたのだ。俺はその蕾をしばらく眺め、震えだしそうな手で慎重に鉢をつまみ、砂の部分にゆっくりと水を染み込ませた。
「幽霊の言葉は信用できない?」
不意に、少女の思わせぶりな口調が思い出された。彼女は間違っていないことはわかっていた。ただそれを認めることができなかっただけだ。あのときの俺には、正解と間違いの差などどうでも良くなってしまっていたのだ。しかし彼女にそれを伝えることはもうできない。
俺は重い体をベッドに深く沈めた。
床がその重さに耐え兼ね、ベッドとともに沈んでいく。やがてその床に空いた孔に融解した部屋全体が、まるで排水口に吸い込まれる髪のように渦をなしながら落ちてくる。
俺は目を閉じた。夜がやってきたのだ。
了