【ショートショート】石と王子
「やっべ、1,000円貸して」
隣で石が言う。
石と言っても道端に転がっているやつじゃない、石野祥平という28歳サラリーマンの男だ。半年前ライブハウスで「誰観に来たの?」と声を掛けてきた。
私がここで1,000円貸したら3,000円と4,000円、私の方が多くなる。あれ?と思わなくもないけど財布から1,000円取り出し彼に差し出す。
「あざーす」
彼は私の指から1,000円札を奪い、流れ作業のようにそれをそのままトレイへ置く。
きっとこの1,000円は返ってこない。それはそれで私は許せちゃう。
「じゃ、気を付けて」
店出たところで眠そうな石が解散を告げる。お決まりの現地解散スタイル。家まで送ってってくれたことなど一度もない。
「うん、じゃあね」
「はいーまたね」
石と私の家は真逆だから、石は一度背を向けると一切振り返らない。夜風に当たって気持ちよさそうにフラフラ帰っていく。彼はよく歌を歌う。それは見かけによらず大体昭和の名曲だったりして、私はそんな彼の鼻歌を聴くのが好きだった。
靴擦れを起こした左足を引きずるようにアパートへ向かう。変な歩き方をするからパンプスのヒールがアスファルトに打たれペコーンパコーン変な音を鳴らす。汗のせいでかかとに貼ったバンドエイドはプラプラとだらしなく剝がれ、一方のテープ部分がかろうじて皮膚との繋がりを保ってる。いっそのこと落ちてくれよ、と思いながらも私は屈んで貼り直し、上から抑えるようにパンプスを履く。もちろんそれはまたすぐに剝がれるんだけど。
ベッドの上に転がりメイク落としシートで化粧を拭き取りながら考える。なぜ私は王子を選ばないのだろう。
◇
王子というのは同じ職場の2個下の後輩で、それはそれは可愛くて私が勝手にそう名付けた。いつもニコニコ笑ってて、たまにミスもするんだけどそういう時はあまりにもオーバーに落ち込むから「いいよいいよ、みんなミスして成長するんだから」みたいに適当に励ましてたら突然好かれた。
王子は2週間前から「10日空いてますか」とスケジュールを確認し、3日前には「店予約しました」と社内メールをよこし、そこには店名だけではなくコース名も予約時間も待ち合わせ場所も記載され、店のURLと地図画像で締めくくられていた。王子、これはデートじゃなくて懇親会のご案内だよ。でもそういうところも可愛くて私は食事に行った。
待ち合わせからお別れまで全て彼の計画通りに行われ、何一つダメなところはなかった。もし一つ言うなれば、彼は私に気付かれないうちにお会計を済ませておきたかったらしいのだが、彼の「トイレとか行っておかなくて大丈夫ですか」という一言にそんな意が込められているなんて微塵も思わなかった私は「大丈夫だよー」とその場に居続けてしまったことだろうか。もちろんこれは私のミスだし、ぶっちゃけどうでもいい論点。だけど彼はどこかもじもじしながら店員さんに「お会計お願いします」と言ってチラリと私を確認した。
王子は店員さんが持ってきた伝票を完全ガードし、すぐさまカードを差し出して店員さんを追い返した。「いくらだった?」と聞いても「大丈夫なんで」「今日は僕から誘ったんで」としか言ってくれないのでかえって私も気を遣い「なんかごめんね」と言ってしまった。ありがとうだろ馬ーーー鹿、と思ったけど、「ごめんね」と謝罪したくなる空気でいっぱいだったのだ。
彼から別れ際に告白っぽいこと言われたけど、なぜか私は「あはははは」と笑った。
「むり!むりむりむりむり!王子の隣こうして歩くだけで畏れ多いもん!むりむりむり!もっと年下のかわいい子が似合ってるよ!もう今日のこれだけでお腹いっぱい!それよりさ、大丈夫?家までちゃんと帰れる?あれだね、日本酒飲みすぎちゃったよね。うん、じゃ!家そっちだよね?私こっちだから!」
走ってその場を後にした。職場で共に働き続ける彼にはこれが妥当な返しだと、その時はそう判断したのだった。最悪。
週明け、王子はわざわざ私のデスクまで「金曜日はありがとうございました」と仰々しく挨拶に来た。だからデートじゃなくて懇親会かよ。「ああ、私もありがとう、かなり飲んじゃったね、どう?ちゃんと家まで帰れた?」って私も上司みたいなノリになってしまった。
◇
目を瞑る。なぜ私は王子を選ばないのだろう。まつ毛の形に取れたマスカラの周りにオレンジのアイシャドウが広がる。メイク落としシートをじっくり眺めながら考え、数秒後に私は寝落ちした。
朝(と言っても11時近く)起きると、カピカピになったメイク落としシートがベッドの下に落ちていた。左足の靴擦れにピンと突っ張るような痛みが走る。ああ、そうだった、そうだったそうだった。終電なんてとっくにない時間帯だったからタクシーに乗ったもののメーターが3,000円を超過したあたりで怖くなって途中下車して歩いて帰ってきたんだった。
何もない土曜という一日を、重たい肝臓と一緒に過ごす。この肝臓は文字の通り、私の内臓の肝臓で合ってる。今日は休肝日にしたい、しないと可哀そうだ、肝臓が。いやしかし土曜、明日も休み。今日飲まないでいつ飲む?まあ、曜日なんて関係なく飲んでるんだけどね。
結局ビールとレモンサワー空けてシュールなバラエティー番組を流しながらスマホいじってた23時半。突然スマホ画面が電話の受信画面に切り替わり、そこには「石野祥平」の文字が。
「もしもーし、今暇?さっき友達のイベント終わって、あーここなんて言えばいいんだろ、長浜ってラーメン屋分かる?そうそう、そのすぐ近くにいたんだけど今から来ない?別に嫌ならいいんだけど、昨日お金出させちゃったからさ」
なーにい!?ひまひまひまひま暇に決まってる!私はどこにも着ていけないショッキングピンクのライブTシャツとジム通いしようと形から入った時に購入したもののほとんど運動に用いられてない哀れなハーフパンツを脱ぎ、すぐさまデート仕様に着替える。
石、そこで待ってろ。
崩れ切ったメイクを俊足スピードで整え、家を飛び出した。今日はスニーカーで。まあ、今から「長浜」とやらを調べるんだけど。
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