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【ショートショート】シンジくんには告白できない

電車を降りると、むしっとした湿度の高い空気に混じってカメムシの匂いが鼻をつく。

あー、この匂い。

河合亜季は深呼吸の終わりに苦笑いをする。この駅で降りたのは自分一人だった。電車が次の駅を目指しホームを後にすると、線路の向こう側に広がる田園風景とうるさいセミの鳴き声が亜季を迎え入れた。

「おかえり」

声の方を振り向く。

ホームの入り口 ―無人駅で駅舎もないからただ物寂しい駐車場との境い目が入り口となるわけだが― に懐かしい多田伸治が立っていた。あの頃より落ち着いて穏やかになった彼は、口元に気怠さを携えたような笑みを浮かべる。

「わざわざ来てくれたの」
「うん、わざわざって言ってもうちそこだし」
「そうだね、まだ実家いたんだ」
「うん、親が心配で」

伸治は亜季の隣に添って歩く。ここから亜季の実家までは徒歩20分。ひたすら田んぼと田んぼの間を走る小道が続く。かろうじて舗装されてはいるが、路肩には長靴によって泥が擦り付けられていた。目の前を邪魔するものは何もなく、遥か向こうに山が見えるだけだ。

車も滅多に通らないのに、なぜかタヌキが轢かれて死んでいる。どうすれば車に当たるのか、運が良いのか悪いのか。

「おばさん、元気?」
「まあ、元気っつったら元気なのかな。去年病気見つかったんだけど、まあ、あのまんまだよ」
「そうなんだ」

ぶらぶらと歩き続ける午後四時。日がのびて、夕方というよりは昼間と呼ぶべきだろう、そんな明るさ。三時を過ぎるとグッと気温が下がって、歩くのも苦ではなくなる。

「タカハシのばあちゃん、死んじゃったよ」

伸治が突然そんなことを言った。

タカハシというのは、正式には髙橋雑貨店というのだが、この町でその名を知る者の方が少ない。ばあちゃん、髙橋登美子はそこの店主だった。

「そっかー、タカハシ懐かしいな」
「よく行ったよね」
「行った行った」
「『ほれ、これも特別おまけ』」
「似てる」

伸治のタカハシのばあちゃんモノマネは今も健在だ。

「ばあちゃん、何歳だったんだろ」
「あの頃から既にばあちゃんだったよな」
「でも最近亡くなったってことは、実は若かったんじゃない?」

タカハシのばあちゃんを懐かしむ。いつもハツラツと弾むような声をしていたけど、顔はしわしわ。今思い返してみても見た目年齢は60か70だ。ということは90近くまでこの商店を営んでいた計算となる。

伸治と亜季は目を合わせて笑う。

「俺、最近はこのばあちゃん不死身なのかなって疑ってたんだけど、死んでホッとしたよ、普通の人間だった」

もう少しオブラートに包めばいいものを。そう思いながらも、分からないでもない。

そうか、タカハシのばあちゃんも死ぬ時が来るんだ。というより、最近まで生きてたんだ。

亜季はぼんやりとしていたがために干からびた何かの死骸を思わず踏みそうになった。ヒッという声にならない叫びを上げる。

「なにこれ」

道路に張り付いた真っ黒なその正体をあばくため、二人はしゃがみ込んだ。

「蛙だね」

伸治が先に解いてみせる。たしかに、この足の曲がり方は蛙だ。なぜか亜季は懐かしさを覚えた。

「よくザリガニ釣ったよね」

伸治もまた同じことを考えたようだ。

「ザリガニは蛙食べるのか実験したね」
「したね」
「でかすぎて食べなかった」
「俺、よくタカハシでよっちゃんイカ買ってそれ与えてた」
「したした、それも食べなかったね」

死んだ蛙を前に、少し黙祷する。タカハシのばあちゃんも、蛙も、心をじんわりと温める効果は同じだった。心のお灸。

伸治が先に目を開け、立ち上がる。つられるように亜季も立ち上がると、それまで圧しつぶされていた膝の裏の血管たちが喜んだように血液を流し始めた。

子どもの頃はずっとしゃがみ込んでいられたのに、最近は足が苦しむ。

「エミ、また子ども産んだよ」

伸治が思い出したように言った。エミはたしか最初の子を17歳で出産した。同級生の中では一番早かったはずだ。それだけにもう既に四人目。少子化の現在、勲章を贈りたい。

途中少しだけ幅員の広い道路に出る。隣町から続く国道だ。そこもまた車は滅多に通らないので、左右を確認するまでもなく今までの歩調で横断する。

「エミはまだあのまんまなのかな」
「全然変わらないよ、母ちゃんになってもあのまんま」
「まだまだみんなが学生生活を楽しんでた頃に赤ちゃん産んじゃうんだもんね」

亜季はそういう自分の言葉にハッとした。失言だった。伸治は穏やかに口角を上げたままだったが、目元は少し曇ったような気がした。

言ってはいけない一言だった。

少し沈黙が続く。そんな気まずい空気を追いやるように風が吹き抜けた。珍しくカラッと乾いた風が、肌のべたつきの表面を心地良く撫でてくれた。汗を吸い取るパウダーやメントールは配合されてないけど、これもまた好きな快適さだと気付く。

やっと遠くに家が見えてきた。五軒の家がギュッと集まった一つの集落。そこに亜季の実家はある。

「変わらないね」と沈黙を切るように伸治は言った。

築35年の戸建住宅を指してるのか、林をバックにした一帯の雰囲気を指してるのか。どちらも変わらない景色だった。

「うちの親、大人になった伸治を見たら喜ぶと思うよ」
「でも俺、よくスーパーで見るけど、亜季の母ちゃん俺に全然気付かないよ」
「そりゃそうだよ、こんなに大きくなっちゃったら」

伸治は嬉しそうな、少し寂しそうな顔をして、自分のつま先を見つめる。

たしかに大きくなってしまった。

そしてパッと表情を切り替え、顔を上げた。

「明日何時に帰んの」

カラッとした笑顔。亜季は予約した新幹線の時間を思い出し、そこから逆算した。

「2時には行かないと」
「そっか、じゃあ昼飯くらいはいけるね」

伸治は長い両手を前後に大きく揺らしては、パチーンパチーンと叩き合わせる。

「明日も暇なの」
「明日も暇だよ」
「いつも何やってるの」
「こうやってぶらぶらしてる」

自由な伸治には愚問だった。そうやって毎日を過ごしていることくらい、亜季にも分かり切っている。

はいはい、すみませんね。

「仕事しないの?」

亜季のたび重なる愚問に、伸治は鼻の頭をなで、ふき出すように笑う。そこには「おいおい」という呆れたニュアンス。

「無茶言うなよ」
「そうだよね」

伸治は憂いを帯びた優しい瞳で、呆れたように亜季を見つめる。

でも、例えばの話だよ。

実家の前に着いてしまった。レンガ調の塀に、木材をイメージしたのであろうベージュの壁。あれほどこだわって造りぬかれた庭は、いつしか手入れが楽な方に楽な方に土の面積を減らされ、植物の大規模リストラを行い、今ではがらんとした芝生に生まれ変わっていた。築35年、カントリーハウスを模造したそれは今ではすっかり日本の田園風景に馴染み切ってしまっている。

ずっと退屈な田んぼ道を付き合ってくれた隣の男を見上げる。

「伸治、ありがとう」

それをただ言いたかった。

もやっとしたぬるい風が静かに吹き抜け、道路向こうの田んぼに消えていく。

伸治の姿はもうそこにはなかった。

亜季は鼻の奥がツーンと痛み、涙腺が緩みそうになるのを必死に堪える。スンッと鼻をすすり地面に目を落とすと、母親の栄子がドアを開けた。

「あら、帰ってきたのね、おかえり」

陽気な声を向けば、少し年取った母の姿。亜季は「暑かったー」とこぼしながら、玄関へ続く茶色のレンガの小道を辿った。

伸治はもういない。

この世にいない。

伸治は小学6年生の時にこの世を去った。難しい病気だった。

6年の時、「伸治くんに応援メッセージを送ろう」の時間が設けられたけど、お花型に切り取られたあの小さな紙の中で「また遊ぼうね」「待ってるよ」「元気になってね」以上の想いを述べられるわけもなく、ここから一時間以上もかかる大学病院にお見舞いに行くことすらできなかった。

亜季は未熟だった。

小学校の卒業式、校長先生は彼の名を呼んだ。涙を拭う彼の両親が、代わりに卒業証書を受理した。

中学校の入学式では、もちろん彼の存在はどこにもなくて、そんな寂しさは他の学区から来た何も知らない子たちの賑やかな笑い声によって誤魔化された。

そうして大人になった亜季は何度も伸治少年の面影を、故郷の背景に重ねる。

彼ならこう笑うだろうか、こう返してくれるだろうか。

どんな声になり、どんな背丈になったのだろう。 

大人になった彼を想像すると、今もこの世に生かすことができる。

あの街にも連れて行ければいいのだけど。
いろんな所に連れて行ければいいのだけど。

彼の魂は、きっとこの街から離れることはないだろう。全てが詰まってるこの街を、きっと離れないだろう。

だから亜季はこの街に帰ってきた時だけ、彼を思い出すのだった。

彼が恋しくなった時、帰ってくる。きっとまたすぐ帰ってくる。

告白はまだできてない。

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