普通の人生という事
思い返してみると普通の人生を送ってきた。これからも普通の人として人生を送っていくだろう。
思い返せば、幼稚園・小学校・中学生・高校生・大学生普通に受験して普通に通って卒業した。今は名古屋で普通の大学院生をやっている。
知人は海外の大学に進学したり大学に行かず起業してみたり色んな人が居た。みんなキラキラしていて憧れている。
周囲の知人に対して憧れを抱きつつも僕は僕で自分の人生が気に入っている。
気に入っているので普通について考えて普通の人生の気に入っている点を書き出そうと思う。
普通でよかったと思うこと
周囲への説明コストが低い
ネットで嫁ブロックや親ブロックという言葉をよく聞く。嫁や親の気持ちもわかる。多くの場合、これらのブロックをしてくる人は自分に近しく利害関係を共にする家族の存在である。もし自分が人生で転けたら少なからずこれらの人々に迷惑をかけるし尻拭いをしてもらわざるおえないのだ。そして、これらの人々は普段僕がどんな生活をしているのかを把握する術がない。プライバシーの権利として当然守られるべき情報ではあるけれど、知らないのだからなんだか不安になるのはわかるよね。一般的な大学への進学や就職を選択しておけばこれらの人々に説明せずとも安心感を与えられる。
意外と選択肢が広い
僕は日本国内においては色々な人間の人生を見てきた方だと思う。それこそ少年院から大学院まで色々な経歴を持った人と話したことがある。そのような経験から感じたのはいわゆるレールの上を走る人生にも人生にも色々あるのだという事だ。自分の目的地によってレールは選べるのだ。
ライフプランが立てやすい
人間ってのは生まれて死ぬ生物である。その間に家庭を持つかもしれないし持たないかもしれない。事故にあって障害になるかもしれない。レールに乗っている人生であればそれらのリスクを社会保険等の制度がカバーしてくれる。似たようなモデルケースの先輩をみたりアドバイスをもらえる。例えば子供を産むという決断は経済的にはかなりのリスクだがレールに乗っている人生であれば安心して容易に判断できる。
挑戦してもいい
レールの上を歩く人生は嫌だという人にはレールの上を歩く人生だと挑戦できないというような誤解をしている人が多いように思う。しかし、日本国内においては人権という最強の権利がある。職業選択の自由があるから就業規則に従って転職も副業も自由にできる。
普通の選択というマイノリティ
冷静に考えてみると小学校から大学院(修士)まで一年も留年浪人をせずに普通の生活を送っているというのはある意味で稀有な存在なのかもしれないと思った。それぞれの人生の選択で全て80%の人が行く道を歩んでいたとしても5回選べば0.8×0.8×0.8×0.8×0.8=0.32768で32%の少数派になる(例えば僕の場合は小学校×中学×高校×大学×大学院)。そうゆう意味での希少性というかマイノリティさを十分に自覚して生きていこうと思う。
人生はレールではなく滑走路と空路
そもそも普通の人生は存在しない。
レールの上に乗った人生といったときに想像するのは電車の線路だが、人生は飛行機のようなもので滑走路や空路はあれどその上を走ることを強要されるものではないのだ。きちんと管制官に事情を伝えれば空路を外れても良い。だから、基本的には空路の上を歩くべきだし空路を外れる場合には事故が起こらないように周囲に説明するのが大事なんだと思う。空路は人間が定義するものなので新しい空路を作っても良い。なので、自由に生きて周囲の人を幸せにできればどんな人生を歩んでも良いんじゃないかなと思ってます。