宮下志郎『モンテーニュ 人生を旅するための7章』、岩波新書、2019年について①

モンテーニュ『エセー』:『随想録』、読もうと思ったけど長いので、本棚の奥に眠らせてしまっている人、積読が何年の続いている人、こういう人も多いのではないでしょうか。
かく言う私もその一人です。哲学史的に見ても、ルネサンス期のノラの人(ブルーノ)や、1600年以降のデカルト、スピノザ、ライプニッツの影に隠れてしまって、話題になることも少なく、特に読む理由もなかったこともあります。

けれど、概要だけでも知りたい!と常々思っていました。個人的な話ですが、ブルーメンベルクが"Verlesung bei Montaigne"(こちら"Die Verführbarkeit des Philosophen"所収)という書き物を残しており、そこでの話を理解するために、モンテーニュについて大まかな見取り図を知っておきたいと思っていたのです。

そんな時、宮下志郎『モンテーニュ 人生を旅するための7章』が、岩波新書から出版され、早速Amazonでポチって、お盆休みにちまちま読んでいます。

読み始めてみると冒頭に次のような記述が:

「どうやら積ん読の人が多い『エセー』という名著。古典とはそうしたもの、「狭き門より入れ」と突き放していては、ますます読まれなくなってしまう。ここはひとつ、『エセー』の魅力をコンパクトに伝える本が必要だなと考えて、本著を著してみた。」(p. ii)

そう、モンテーニュについて書かれたこんな本が欲しかった、この文章を読んでピンときたのか、本書を夢中で読み始めました。

■『エセー』の世界にぐんぐん入っていける人

本書の「まえがき」で概要が述べられているように、本書の構成は、序章ではモンテーニュの生涯と作品の概要が書かれていて、そのあとの7章は、『エセー』から引用された一文について多々触れられ、それについて、著者が一つ一つ自在に語るというかたちになっています。各章の最後には、本書の内容をより深堀したコラムも付されています。

序章は、モンテーニュのバイオグラフィーで、幼い時から受けたラテン語教育、友人ラ・ボエシーとの話、結婚、父の死と退職、宗教戦争の話など、ボリューミーな内容がコンパクトにまとめられています。

そして第1章。早速、『エセー』の次の文章から話が始まります。

「わたしは、つましく、輝きもない生活を披露するわけであって、それはそれでかまわない。人生についての哲学というものは、豊かな実質をともなって生き方にも、また、市井の一個人の生き方にもあてははまるのだから、これでいいのだ。人間はだれでも、人間としての存在の完全なかたちを備えているのである。
世の著作家たちは、なにかしら特別で、いっぷう変わった特徴によって、自分の存在を人々に伝えようとする。しかしながら、このわたしは、文法家でも、詩人でも、法律家でもなく、まさに人間ミシェル・ド・モンテーニュとして、わたしという普遍的な存在によって自分のことを伝える、最初の人間となるのだ」(3・2「後悔について」)(p. 26)

こんなに興味をそそる文章が『エセー』の中にあったかな、と私の手元にある世界の名著Verの『エセー』を開いたのですが、こちら抄訳で、該当部分は訳出されていないようですね(ちなみに、本書で引用されているのは白水社Ver。訳者は宮下志郎さん、この新書の著者です)。

で、宮下さんの、引用部分についての語りが続けられるのですが、『エセー』の世界にぐんぐん入っていける人について、次のように語ってくれています。

「作家は一般的に、自分を特別な存在、ユニークな存在として特権化して、いわば世間とは差異化することが、作家たる存在理由だと考えがちだ。ところがモンテーニュは、意図的にその逆を行く。いかに不細工であっても、いかに「ふらついた足取り」であっても、それが「人間としての存在の完全なかたち」なのであるから、それはそれで「普遍的な存在」ともいえますよ。わたしは、わたしでしかありえず、その「不肖わたくし」が、ミシェル・ド・モンテーニュという一個人のことを伝える最初の人間になるのです、と大見得を切るのである。
 こうした語り口に共感を覚えたならば、『エセー』の世界にぐんぐん入っていけると思う。そうすれば、「なにしろ、わたしは、この主題について、現存する人間のなかではもっとも造詣が深いのだから」という、半分は冗談、残りの半分は本気のことばも、くすっと笑いながら受けとめられるに違いない。こうした「わたし」に対するこだわりが、『エセー』全体に浸透しているのである」(pp. 28-29)

「なにしろ、わたしは、この主題について、現存する人間のなかではもっとも造詣が深いのだから」と、いまでいえば「ブーメランw」と嘲笑されるような発言も、「くすっと笑いながら受けとめられる」人、そんな人が、きっと『エセー』の世界に魅力を感じるのかもしれませんね。

ほとんど引用だけになってしまいましたが、この本については、回を分けていくつか書かせて頂きたいなと思います。次回は「「わたし」を抵当に入れてはならぬ」という話。働きだしてから、つい「無為な忙しさdesidiosa occupatio」を作って、「忙しい暇人」になりかけている自分としては、この「「わたし」を抵当に入れてはならぬ」の一言に、自省を促されている気がします。

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