宮下志郎『モンテーニュ 人生を旅するための7章』、岩波新書、2019年について②

引き続いて、この本について語りたいと思います。

「人間はだれもが、自分を貸し出している。本人の能力が本人のためではなく、服従している人のためになっている。つまり、本人ではなくて、借家人がわが家同然にくつろいでいるのだ。こうした一般的な風潮が、わたしには気に入らない。人間は自分の精神の自由を節約して使って、正当な場合でなければ、これを抵当に入れてはならない」(3・10「自分の意志を節約することについて」(p. 29)」

第一章の2は『エセー』この引用からはじまっていて、宮下さんはこの発言を、

1.現代のプライバシーの発想
2.働くために生きているわけではないけれど、自分の時間なんてありやしないという現代の傾向への批判的視点
3.いい意味での自己中心主義

に通じるものだとしてまとめている。

宮下さんも述べているけれども、「こういうもの言いを嫌味に感じる向きもある」(p. 32)と自分も感じた。「なかには、さまざまな職務につくごとに、変身し、・・・その職務を便所まで引きずっていく」(p. 31)というモンテーニュの言葉も宮下さんは引いているけれども、こう言われると、べつに「出世」や「上昇思考」を持っているわけではない自分としては、<そこまで言われると喧嘩を売られているようにしか思えない>と、すこし腹立たしくもあった。

けれども、モンテーニュの文を曲解して、宮下さんの文脈を少しはずしてみると、今の自分にも響くところがある。宮下さんの文脈だと、働くという社会にとりこまれずに、「わたし」という領域を残そうという話になりそうだけれども、「ワーク・ライフバランス」と言われる現状において、この「ライフ」の部分を忘れかけてた自分への警句のように聞こえたところがあったからだ。

そもそも、「わたし」も、「ライフ(life)」も、なんとなく言われてみれば分かるようで、机のように手にとって、触ってみたりできるものではないだろう。そこで仕事に対して「わたし」の領域を残そうと言われても、実際のところ、その境界が曖昧で、何を残し、保持すればよいか、けっこう途方に暮れてしまうのである。<昨晩のカレーを残しておこう>といったように、「わたし」や「ライフ」を残しておけるわけではないことに悶々とする。

自分としては、まさにその点に「人生の悲哀」を感じとった。こういう悩みを持ってる人は自分だけかもしれないが、実際のところ、その抵当に入れている「わたし」が、いったい何なのかがよく分からないのだ。


ここから、何か思考をめぐらすようなことを俺が書くのかと思われるかもしれないけれど、正直「わたし」の問題に自分はほとんど興味が無いし、1000字を越えてキーボードを打ちこむのが疲れてきて面倒だし、せっかくの休日なのでお酒をこの時間から呑みたくなってきなので、打ち切り。

まとめ

宮下さんの本、1-3、1-4については私はほとんど触れませんでしたが、モンテーニュが(暗に)引用している、セネカ、ホラティウスと、モンテーニュの文章との照応、1-4「「店の奥の部屋」を確保しよう」では、ルシアン・フェーブル『フランス・ルネサンス文明』、丸谷才一『文学のレッスン』の宮下さんによる引用など、ギリシア・ローマの古典そしてそれ以外の所へと導かれていくモンテーニュの魅力を、精一杯伝えてくれています。

最後に前回言ってたdesiodiosa ocupatioですが、セネカの『人生の短さについて』から、宮下さんが引用している文に含まれています。詳しくは、本書を読んでみてください。

まだ次回に続きます。

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