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【特徴とリーズナブルな理由】





【Q.】お店の特徴と、なぜこんなにリーズナブルなのか知りたいです。


 通常、Google広告やホットペッパービューティー、EPARKなどに毎月大金を支払い、必死に集客するのが多くのお店のスタイルですが、当店では、ホームページもなく17年間営業しております。

 ご紹介での来店が非常に多く、広告に全く費用をかけていません。


【なぜリーズナブルなのか】


【A.】よく「安いね!」と言われます。


料金は、家賃や駐車場などの経費と、自身の生活費もろもろを考慮して、見積もっています。


他店の相場と比較をして決めていないので、安いのか高いのかは不明ですが、当店としてのリーズナブル(適正な)料金に努めています。


物販のように一度に10個売れるとか、飲食店のように一度に10人のお客さまに商品提供ができる商売ではないので、


限られた時間の中で、お一人ずつ施術をすると、皆さんが皮算用なさるほどの売り上げはありません。


自身の健康や生活を大切に考えていますが、世界中の、整体やマッサージ、リラックスを求める人々が、少しでも気楽にご利用いただき喜んでいただくことも私の喜びであり、大切にしています。



私は3歳の頃に交通事故で大怪我をして以来、ずっと何十年間も痛く苦しく様々な不調を重ねて来ました。


頭の発達速度が遅いので、随分とバカにされたり、殴られたり辛い思いも味わって来ました。


そんな小さな頃の私をみて、母がごくたまにマッサージや鍼灸に連れて行ってくれたのですが、我が家は非常に生活が苦しい家庭で、今思えば、母は自分のほうが疲れていただろうに、大切な食費などを切り詰めて連れて行ってくれたのだと思います。


小さな頃のマッサージは、くすぐったい感じで、鍼灸は少し怖かったけれど、そのおじちゃんとお話をしたり、少しでも良くなるように、と丁寧に施術をしてくれる思いやりが嬉しく、心も身体もとても楽になり、喜びの記憶が残りました。





当店の施術方法の主旨

『「血を流すということ」血流促進の重要性/当たり前のことを当たり前におこなう』「血を流すということ」血流促進の重要性/当たり前のことを当たり前におこなう 「血を流すということ」  当店は「一切何も治らない」リラクゼーションサロンで…

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【当店の特徴】



 はじめまして、リラクゼーションサロン「オツカレ!」の経営をしております、この道21年の安田 小太郎と申します。


本当を言うと、小学校一年生から施術をしているので、もっと長いのですが、プロになってからは21年です。


(通称は頭が7歳の最高労働者 小太郎と呼ばれています)



 この度は数多くの治療院・整体院・各種サロンの中から、当店のことを気に留め、このサイトをご覧いただきありがとうございます!


 当店には、すでに延べ20,000人をはるかに超えるお客さまがご来店いただいていることから、ご存知のかたも多いと思いますが、


開店14年目のコロナ感染拡大当初からちょうど一年間は、既存のお客さまに限定した出張のみの対応として営業をおこない、収入不足分は、やってみたかった業種のアルバイトなどをして過ごしました。(2020年の6月〜2021年6月)


翌2021年、非常に多くのお客さまから、コロナ禍にも関わらす店舗での営業再開のご要望をいただき、まずは以前のお店に比較して三分の一程度のスペースで再開し、17年目の現在を迎えます。


 幼少期より父などの身体の施術を開始して、その時には好きとも思わず施術をおこなっていたのですが、ある日なにかの機会に小学校の校長先生と、担任の先生を施術したところ、生まれてはじめて褒められた記憶が強烈に残り、「ああ!こんな知恵遅れで叱られてばかりのボクでも、役立って喜んでもらえるんだ〜やった〜!嬉しい!」と、人を喜ばせることの嬉しさを覚えました。


憧れの施術師でしたが、私自身は小学校中退であり、残念ながら国内あん摩マッサージ指圧師の受験資格を満たせず、無い頭脳をフル回転し、

「だったら4000年の歴史!本場中国で学んでみたい!」と思いつきました。



中国から帰国後|頭が悪そう(笑)



発達障害が著しく、その当時には、思い立つと3秒以内に行動しないと我慢ができなく、どこへ尋ねたら良いのかが分からなかったので、


「ううう・・・外国だから外務省かも!?」と思いつき、104番号案内で調べて外務省へ電話をし、思いの丈を伝えました。


偶然にも親切な職員のかたが、「まずは英語と中国語をマスターした後に、医学の大学に移り、その後に・・・」と、10年がかりの非常に素晴らしいアドバイスをくださったのですが、私の学歴や現在の知恵遅れの状態を伝えると、愕然として、「う〜ん」と唸っていました。



外務省の電話でアドバイスをくださったかたは、偶然この本の著者で、「秦 佳朗さん」

大学選出方法や、外国人の国別在籍数(アメリカ人が多いよ、とか、日本人は少ないよ、とか)、近隣の食堂事情などなど、細やかな情報の掲載があり、本当に救われました(情報が旧いので現在は買わないほうが良いです)



 どうやら私の思いついたアイデアは無謀なものでしたが、昔から詐欺師と人のアドバイスは聞かないほうだったので、そのまま中国に行ってしまいました。


実は、まだ日本語の漢字や単語が分からず、日中間でもっとも有利な筆談ができません。


日本国内でも、電車やバスに乗ると9割は行き先もホームも間違えますし、すぐに寝るので、起きるといつも知らない土地でした。


その、自身の現状をうっかり思い出してしまったため、連日腹痛や頭痛が起きたり、激やせしてしまいました。


「絶対にぼくが中国にたどり着くことはなさそうだ・・・」と思うと泣けてきました。


当時一人暮らしをしていたアパートにはインターネットと言うものが無く、存在も知らなかったので、めぼしい大学を本で見つけてから、大学を出て優秀な兄や弟や妹に連絡をして、大学に入る方法などを教えてもらいました。



その外国の大学に電話をすると、いきなりすごい速さの聞いたこともない言葉が聴こえたので思わず切ってしまい、仕方なくファックス用紙に、「そこの大学に入るのはどうするのですか?」と日本語で書いて送りました。





もうダメかと思ったのですが、日本語が堪能な大学の教授や職員が偶然そのファックスを見つけて、イタズラ扱いされずに、返事が届きました。



そこには、英語のTOEICの点数や中国語の語学力試験の点数、在学もしくは卒業した大学などを書き込み願書を郵送すると記載がありましたが、まともな学歴が無いことを伝えると一度は断られてしまいました。



何度かファックスでやり取りをして、「真剣に頑張るので、まずは中国語を教えてください」と伝えて、学歴の部分を空白のままで入学願書を送付しました。


大学生活に慣れ親しんだころ



 「留学手配代行業者」と言う存在も知らず、全て自分でおこないましたが、実は居住の愛知県から、どちらの方向に行けば中国方面に行くのか良くわかりませんでした(中国地方ではありません)



あまりお金がなかったので自宅にあった本や食糧や雑貨、必需品を全て知人にいただいたカバンに詰めたら、180キロにもなってしまい、大きな旅行カバンが7個とリュックが2個、ポーチが2個になりました。



よく考えたら、これをどうやって持ち上げて一人で運ぶのかを考えていなかったのです。大きなカバンを3個だけ海外郵便で大学のほうに直接送っても良いと言われて送りました。



そこから一年間あったので、その日から腕立て伏せとスクワットと腹筋などをして、身体を大きくしました。



朝の3時に起きて、新聞配達に行って、朝7時から19時00分くらいまで運送会社で汗だくになって肉体労働をやりました。その後は居酒屋で深夜の23時30分まで働いて一年間でお金持ちになったので資金ができました。



「節約のためにフェリーで行くと良いよ」と賢い弟が教えてくれたので、104で「中国行きのフェリーの電話番号!」と訊いたら親切なお姉さんが、「そっ、そんな漠然とした・・・」と笑って、時間をかけて調べてくれましたから、電話をして予約をしました。



神戸のフェリー乗り場まで行く方法を考えていなかったのですが、運送会社で働いている時の納品先の可愛いお姉さんが、「小太郎君を助けてあげるね」と言って乗せて行ってくれました。



他の納品先の、歳上の奇麗なお姉さんが、「私を忘れないでね」と言って、教科書を入れるカバンや巾着袋や筆箱を手作りで作ってくれました。




フェリーに乗る時には、飛行機と同様に、一名につき持ち込みできる荷物の重量に制限があり、神戸港に到着してからパンフレットを確認すると、とんでもなく重量オーバーでしたが、ポカーンとしていたら、なぜか免除されて全部積み込んでもらえました。



そこから2日か3日かけて上海に着いたのですが、緊張しすぎて、何も食べられなく体重が50キロを切って、荷物より軽くなり過ぎました。



リュックを前と後ろにかけて、ポーチをお腹の前と後ろに巻いて、大きな旅行カバンの上にまたカバンを乗せたモノを2つ持って、先に1つを押していって、置いてから、また残りの1つを取りにいって、2メートルずつ進みました。



上海港⚓に着いたら、そこからどうやって西安市と言うところに行くのか何も考えていませんでしたが、偶然そこにいた人々に助けられて、両替方法とタクシーを捕まえて上海駅に行く必要があることが分かりました。



荷物をそこに放って上海銀行に行くと、ショットガンを持ったガードマンが居て、軍隊のような服装で銃口をあちこちに向けて警戒していたので、アメリカの映画みたいで怖すぎました。


 

 



受付のお姉さんは、なぜか全員が怒ったような顔でした。先ほどの日本人に教えてもらった、「ウォ ヤオ ホワンチェン」と言って5万円を出すと、分厚いガラスが張られた向こう側から、無愛想な様子で、中国のくしゃくしゃで随分と匂うお金を投げて渡されました。(しかもアンダーパス越しで)


© 2015 Guanxi Times [海外転職].

© 2017 日本語教師のいろはにほへと~中国の大学編~.


最初はびっくりしたけど、帰国する頃には、その妙な気遣いが無いところが気楽で当たり前になったし、こちらからニコニコして話しかけると、案外良い人ばかりだと分かりました。



 日本では「人間は汚い生き物」だと内心は知っているのに、上辺だけ性善説で飾って、強盗が来ると慌てふためくけど、中国でははじめから、「人間は世の中でもっとも汚い生き物」との気持ちを隠さずに、堂々と、今悪さをしようとする奴らを警戒して、それ以外の人々を護ります。どちらにも一長一短あるんですね。



本当は上海の港で税関職員に、荷物の量と、持参品が違反しまくっているから、罰金と没収があると言われたのですが、(近くにいた日本人が通訳してくれた)



中国語が喋れないのでポカーンとしたりニコニコしていたら、「コイツは知恵遅れだから時間の無駄だ!」と言って、なぜか許されました。



他の人たちはCDやレコードを大量に没収されて、ものすごい札束の罰金を支払っていました。「僕にだけ優しい」中国が好きになりました。



タクシーが来ると荷物が多すぎるので断られてしまったのですが、偶然通りかかった日本語が少しできる中国人の美しいお姉さんが、「助けてあげるね」と言って必死に頼み込んでくれました。トランクと全ての座席にパンパンに荷物を積んで上海駅に着きました。



上海駅に着くと、そこからどうしたら良いのかまったく考えていませんでした。日本の駅の30倍くらいは大きくて途方に暮れました。



荷物も重いし、食べていないから力も出ないし、方向も言葉も分からなくて、そこで座り込んで泣いてしまいました。



でも、思い直して、また2メートルずつ進んで、階段から何度も落下しそうになりながらも、駅のホームに着いて少し安心しましたが、乗り場の数が多過ぎて、もうまったくわかりません。



何とか知っている漢字で筆談をしようと、目の前にいた男前の男性に「我日本人行希望西安市」と書くと、



その男性が、「日本人?你是日本人?真的?」と言うように、絶対にお前は中国人だ!と言う感じで驚きつつも、「就是这个!就是这样!就是这列火车!」と、「これだよ!その列車に急げ!」と教えてくれました。



偶然、その3分後に出発する列車が西安市行きで、偶然そこの乗り場がその列車の乗り場でした。またそこから2メートルずつ動いて行ったら、あと3秒でドアが閉まる寸前に乗車できました。



自分の席を探すのに随分と時間がかかりましたが、自分の番号の席に到着すると、知らない人がそこに荷物を置いて寝ていました。



もう心身ともに疲れ切って、思わずその場で崩れ落ちました。



車掌さんや近くの乗客が集まって来て、手に持っていた切符の番号を確認しながら、知らない人を移動させて、そこのベッドの上と下にぎっしり私の荷物を置くと、私の居場所が5センチも無くなって、みんなで大笑いしました。



(たぶん)「可哀想に可哀想に」と言って、周りの人がお菓子やご飯を分けてくれました。



床に布を敷いて座らせてくれましたので、やっと足腰を少し休ませることができました。



車掌さんが他の車両から英語のわかる女子学生を読んできて、


(多分)「この人が寂しそうだから何か言ってあげたら!」と言われて、その可愛い女の子が、奇麗な発音で「カモン ジョイナス!なんとかかんとか!」と言いましたが、


(もうお願いだから、静かに10時間くらい寝たいです)と言う思いでした。



何日間かかけて西安市に着くと、その学生さんがお友達5人くらいで一緒に降りて来て、


(多分)「ウェア アーユーゴーイング?なんとかかんとか!」と訊くので、筆談で、「我行西北大学」と書くと、


(多分)「えええ〜!!?僕たち西北大学の学生なんすけど!」)と驚いて、100キロ以上ある荷物を手分けして外まで運んでくれました。





一人の学生さんが、


(多分)「よおし!僕のお父さんの車で運んであげるよ!」と言って車に積み始めると、半分も乗せられないことに気づいて、大きなワゴンのタクシーを手配してくれました。



そのタクシーに、その学生さんが、行き先などを伝えてくれましたが、到着間際、随分と運転手さんに高額な料金を請求されたので、全部日本語でケンカをしたら、激安になりました。



大学の正門で警備員に止められて困っていると、日本の一つの街ほどもある広さの大学の敷地の奥の奥から、


少し日本語が話せる大学の職員の人が来て荷物を3回往復して一緒に汗だくで運んでくれました。




部屋に着いて気が抜けたら、本当に失神して倒れてしまい、そこから2日か3日間床に寝たきりでした。万一の遭難を考えてカロリーメイトがカバンの中にあったことを思い出して、震える手で取り出すと、


少しずつ食べました。



よく、この話をすると、「なぜそんなにも荷物が重たいの?」と訊かれるのですが、プリンター内蔵型ワープロや分厚い広辞苑・国語辞典・漢和辞典・カタカナ辞書・ことわざ辞典・英和・和英などなども持っていったのです。


(他にも宗教書・哲学書・心理学書・ことわざ辞典・文章の書き方辞典・もしかしたらと思って薄いドイツ語・イタリア語・タイ語・フランス語・韓国語・ポルトガル語などなど・・・)



中国に行くことになってから、

「あ!僕はその前に日本語と、先生が説明で使う簡単な英語も知らないのだった・・・」と気づきました。


まず、中国語の単語の漢字を覚える前に、それが日本語で何と読んで、どうゆう意味か調べないと、


うっかり “中国語はわかるけど日本語がわからない日本人” になってしまうところでしたから・・・。


そこから毎日、朝の3〜4時まで学習しました。クラスメイトはみんな世界中から来た秀才ばかりで、何ヶ国語も話せて、博士号とか言う賢い人もいました。


宿題だけでも、まず日本語の辞書を机いっぱいに何冊も開いておこなうので、何時間もかかります。


3ヶ月くらいした頃に、何となく中国語で日常会話ができるようになって来たので、足を棒にして町中を毎日歩いて「本場中国按摩国家資格者」の師匠を探そうと交渉を重ねました。


その内に、ほとんど目が見えない、夫婦でない李師匠と張師匠の男女2人でおこなう施設で受け入れてもらえました。朝の6時00分から大学の授業が始まる前と、授業が終わってから、一日2回、その施設に走って通いました。


点でしか眼が見えない張師匠が、ノートを眼の二センチくらい手前まで近づけて、「四肢」「上肢」などと解剖学上の部位の言い方、また施術方法の技の名前を「拿法」「用前臂揉法」などと一つずつ教えてくれました。


実技になってからは、実に、同じ箇所を1〜3ヶ月も延々と揉まされるので、疲れきってイライラして、何度かケンカもしました。




でも、こうしていっつも誰かが助けてくれるので、私は何も苦労をしたことがなくって本当にラッキーです。\(^o^)/


あ! 当店の特徴を書くつもりが忘れてました!

長くなるので、この話はここで終わります。




こちらは帰りの時のこと。

『【中国渡航記】中国人も日本人もない。素敵な人は素敵。』 『言っておきますが私は日本人です【中国人の正体ー其の二】大声で常識のない中国人の巻!』  https://g.co/kgs/q5ALFW 《お店…

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【当店の特徴】

当店は、他のお店のことを良く知らないのですが、親切なつもりです! 丁寧な施術のつもりです! 衛生的にしているつもりです! 感覚には個人差があります!