動物福祉は等価交換

近頃、動物福祉に関する話題に触れる機会も少なくありません。その時、動物福祉に関する話題が、等価交換と結びついている気がしたので、考えてみました。



等価交換

等価交換とは、「何かを得るためには同等の代償を払う必要がある」という理(ことわり)を表す言葉です。自分は漫画「鋼の錬金術師」で知りました。

私は、この等価交換は、かなり的を得ていると思います。私の人生の中でも、等価交換を実感する機会は多いです。

等価交換に関する持論は大体こんな感じです。

①何かを得るには相応の代償が必要。
②必要な代償の量/種類は分からないことが多い。
③得たい対象に釣り合う代償が存在しない場合もある。
④必要なものとは異なる量/種類の代償を払っても、等価交換は出来ない。
(無駄に代償を払うだけで何も得られない)
⑤等価交換が出来ない事象に対して、無理に等価交換を実施しようとすると、相応の罰を受ける。

等価交換の持論

これまでも何度も等価交換を記事で取り上げてきたので、詳細は割愛します。
詳しくは以下の記事をご覧ください。


動物の現状

飼育個体を逃すことの難しさ

動物園や水族館で飼育されている個体は、天敵の居ない環境や、人間に慣れています。そのため、飼育個体を自然に還しても、生きていける可能性は低いでしょう。

自然界では、餌を自分で確保する必要があります。天敵から身を守る必要があります。怪我や病気をしても診てくれる獣医に巡り会える可能性は低いです。自然界では厳しい生存競争が存在し、それによる不利益は、全て自己責任に帰着されます。自然界は放任主義です。

一方、飼育環境では、行動範囲は制限されるものの、天敵の居ない安全な環境で、餌も貰って暮らせます。動物園や水族館によって状況は異なりますが、動物福祉に配慮された施設であれば、割と快適に暮らせるはずです。

なお、奈良公園のシカのように、自然界と飼育環境の中間に近い環境も存在します。奈良公園のシカは、自然界と異なり、天敵の居ない安全な環境で過ごせますし、餌も貰えます。飼育環境よりも行動範囲は広いです。しかし、その一方、人間との接触によるトラブルや、人の管理の在り方が問題になる事案も存在します。

補足

自然界の方が良いと思うか、それとも、飼育環境の方が良いと思うかは、その個体次第でしょう。ただ、飼育個体を自然に還す行為は、これまで大事に育ててきた個体を見殺しにするようなものです。


人の管理からは逃れられない

動物園や水族館から飼育個体を自然に逃すのであれば、野生復帰のために徹底的な訓練を施す必要があります。しかし、先述の通り、自然界は生存競争が厳しく、野生復帰の訓練は厳しいものになるでしょう。その野生復帰の訓練も、厳しい生存競争に適応させるため、動物福祉への配慮が不十分な、厳しい訓練にならざるを得ない可能性もあります。

野生復帰の事例がある動物も居ますが、飼育されている全ての動物が野生復帰が可能とは言えません。野生復帰のノウハウが蓄積されていない場合もあり、不十分な訓練を介した野生復帰によって、結果的に不幸になる個体もいるでしょう。ノウハウの蓄積の過程で、犠牲になる動物もいるかもしれません。

等価交換の例で言えば、必要な代償(訓練の方法)が分からない状態で、得たい対象(野生復帰の能力)を得ようとしている状況です。そりゃ無理ゲーだわ。

保護区に逃すという手段もありますが、保護区は人間の管理が行き届いた環境です。どっちみち、人の管理からは逃げられないのです。


行く宛の無い動物達の「受け皿」

飼育個体を自然に還すことが難しいのであれば、動物園や水族館、保護区等、何処かしらの施設では、責任を持って飼い続けるべきでしょう。動物園や水族館が無くなったら、行く宛が無くなる動物も少なく無いはずです。

仮に、動物の飼育が悪であるとしても、飼育を止めることが出来ないのであれば、その汚れ役は、何処かしらの施設が担わざるを得ません。その汚れ役に対して更に攻撃する行為は、極めて卑劣で残酷だとは思いませんか。

また、自然教育、研究、生物の繁殖、希少な動物の保護等、動物園や水族館は多くの役割を担っています。

怪我や病気等によって、野生で生きていくのが厳しい状況の個体を、引き取って終生飼育する場合も存在するでしょう。野生で生きて行けない個体の「受け皿」としての役割もあります。
(野生の個体の遺伝子が導入されることで、飼育個体の遺伝子の多様性も確保出来ます。)


動物福祉と等価交換

動物園や水族館の否定は過去の否定

上述の理由から、私は「飼育個体を自然に還せ」「動物園や水族館に行くな」「動物園や水族館は不要」といった、過激でアホなことは言いません。そんなことを言うのは、「動物園や水族館が誕生した」過去や、「動物園や水族館が存続している」現在を否定し、捻じ曲げようとする行為です。

過去の積み重ねで現在は成り立っており、それを否定するには莫大な犠牲を払う必要があるでしょう。もしくは、過去の否定に十分な代償が存在せず、等価交換が出来ないでしょう。

動物園や水族館で動物の飼育を始めてしまった以上、もう後には引き返せません。それを無理に引き返そうと、動物園や水族館の存在そのものを否定しても、何も得られません。過去は決して消えず、現在に、そして今後に影響し続けます。


違いの善悪

動物園や水族館に否定的であり、攻撃的になる者も居ますが、動物園や水族館を否定しても、何の解決にも繋がらないでしょう。

動物園や水族館の件に限定せずとも、別に、他と違う感想を持つこと自体は否定しませんし、違いそのものを否定する気は無いです。多様性の時代ですし、違いそのものは罪ではありません。

しかし、その違いが原因で、周囲に被害が及び、迷惑がかかるのであれば、その違いは否定すべきです。アホな人間のせいで、他の者が理不尽に傷つけられる状況は許されません。

どこまで違いを受け入れるのか、その裁量の問題です。

自分にとって都合の良い、誤った情報のみを入手して、それに基づき、偏った主張だけする。そんなアホは嫌いです。


代替え案を示せ

動物園や水族館を否定したいのなら、それらの代替え案を考える必要があります。代替え案も無いのに、現状の否定だけしても話になりません。正確な情報を入手し、それに基づいて議論しなければ相手にされません。

何かしらの対象(動物園や水族館)を得る/変えるのであれば、代償(代替え案)を用意する必要があります。その代償の量/種類が対象と釣り合うことで初めて、等価交換が成立します。

よく、「動物園や水族館で動物を見るのを、バーチャルリアリティ(VR)やテレビのドキュメンタリーで代替え出来るのでは無いか」という意見もあります。これは、VRやテレビが、動物を直接見るのと同等の効果があれば成立するでしょう。

ただ、動物を生で見るのと、VRやテレビで見るのでは違うと思います。VRやテレビで動物を見ても、子どもからすれば、ウルトラマンや仮面ライダーを見ているのと同じ感覚であり、「動物が実在してる」という実感が湧きにくい気もします。


動物福祉の重要性

ただ、動物達を飼育し続けるのであれば、動物福祉には最大限に配慮すべきです。動物園や水族館は、動物を第一に考えて運営するべき。適切な飼育環境で、適切な方法によって飼育すべき。

そのため、私は、動物園や水族館を無条件に肯定することはありません。あくまで「動物福祉に十分配慮が出来ている」という条件の下です。

しかし、動物園や水族館を無条件に否定する気もありません。先述の通り、動物園や水族館には役割も存在しますし、「動物福祉に配慮する」という条件が満たせれば、動物の飼育は継続可能でしょう。


動物と利益を等価交換

「動物達で金儲けするな」という愛護団体も居ます。動物を金儲けに使わないのは理想的ではありますが、現状を考えれば、その主張は、あくまでも綺麗事の理想論でしょう。

動物園や水族館が経営不振に陥れば、餌や設備において、飼育している動物達の生活にも影響します。そのため、動物園や水族館には資金が必要であり、「動物を使って金儲けするな」とは言えないのが現状です。

ただ、動物達を使って金儲けさせて頂いているのなら、そのビジネスで得た利益を、動物達にも還元すべき。等価交換。動物第一で考えること、動物福祉への配慮は、動物達への最低限の礼儀です。その礼儀を果たすために、ビジネスの利益を使うべきです。

節分とかで鬼を怖がって泣き出す子供が居るでしょう。節分は無病息災を祈願する行事であって、子供を泣かせる行事ではありません。子供が泣き出すのは、無病息災を祈願する過程で起こってしまった現象であり、あくまで節分の目的は「無病息災の祈願」です。しかし、子供を泣かせることが目的に変化してしまっては、過程が目的になってしまっており、本末転倒です。

節分の例

動物園や水族館でも、この節分の話と共通する部分が存在します。「動物達の生活を良くする」目的を達成するための過程として、金儲けを実施するのが正常です。しかし、金儲けが目的になり、動物達を単なる商品として扱い、苦しめている状況では、まさに本末転倒です。


動物達に幸あれ

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