どこまで「違い」を受け入れるか
どこまで「違い」を受け入れるか。
「多様性を認める」と叫ばれる時代においても、絶対に認められないこともあります。
全てを受け入れることも、全てを否定することも出来ない。
ようは裁量の問題であると考えられます。
事例:アンチ水族館の過激派
水族館の投稿に群がる過激派
以前、以下のような記事を投稿しました。
簡単に言うと、この記事は「水族館で飼育しているイルカやシャチを海に逃がしても、厳しい野生で生きていくことは出来ないので、責任を持って飼い続けるべき」という内容です。
この記事からも分かる通り、私は水族館でのイルカやシャチの飼育に対して、その全てを批判してはいません。イルカやシャチの飼育に対しては、中立、やや賛成くらいの立場です。私自身、水族館に行く機会はありますし、水族館は割と気に入っています。
しかし、水族館でイルカやシャチを飼育することに反対し、水族館の投稿に対して誹謗中傷とも取れる返信を送っている者もいます。
X(旧Twitter)にはbot、インプレゾンビが湧き出ていますが、それに負けじと水族館の投稿に対して、それらの過激派はウジャウジャ湧き出ています。流石に水族館は訴えた方が良い気がします。というより、水族館のファンからすれば、過激派は鬱陶しいはずなので、ファンのためにも対策を講じた方が良いです。対策してください。
過激派と話した件
以前、過激派の1人とDMで話す場面がありました。その過激派は、自身の思想に対して、私からの同意・理解を得ようとしていたようです。別に意見が異なる相手でも、コミュニケーションが取れる相手ならば議論は出来るので、やり取りを続けました。
やり取りの中で、過激派は自身の行為を「誹謗中傷では無く批判だ」と言って正当化し、誹謗中傷と批判は紙一重な部分も存在しますが、
これらの知識は、常識的に考えると誤りですが、それらの情報を過激派は堂々と述べていました。恐らく相手は真偽は関係なしに、自分にとって都合の良い情報しか受け入れて来なかったのでしょう。仮に相手が示した情報が真実で、我々が信じている情報の方が、本当は嘘なのであれば、我々は情報操作されていることになります。その場合、陰謀論を疑った方が良いでしょう。
とりあえず私は「仮に野生動物を動物園や水族館で飼育するのが良くない行為だとしても、既に飼育している動物を自然に還しても、厳しい野生で生きていけないだろう。そのため、動物福祉に配慮したうえで、飼育している動物は責任を持って飼い続ける必要がある。
また、動物園や水族館は自然教育や研究、種の保全といった役割も担っており、ただの娯楽施設では無い。誹謗中傷は事実を指摘する場合にも通用するため、動物園や水族館への攻撃的な言動は慎むべきだ。」と反論しました。
すると、過激派は「私の行為が誹謗中傷と言われるのは変だ」「貴方が止めても私は行動する」等と言い、その後、やり取りは途切れました。過激派が示した誤った情報に関して、追求する質問を送っても、過激派は既読無視しており、返信は来ない。過激派は今でも水族館に攻撃的な返信を送り続けているようです。最低限のマナーも守れない奴に、動物の権利とか言われてもねぇ。そんなこと言う資格ないやろ。
自由と放任は違う
規範は守るべきですし、他人の権利を侵す部分には、別の者は自由に侵入出来ません。過ちを犯せば償う必要があります。言論の自由や人と繋がる事に関する自由は、他者を傷つけないための制限が少なからず存在しており、その上に成立しています。自由というのは、そのコミュニティに属するものを守るため、ある程度の制約は存在し、その中で自身の権利を享受することが出来る環境だと思います。何の制限も存在しない状態では、コミュニティに所属するものは好き勝手に行動するだけで、全て自己責任に帰着されます。それは自由では無く放任です。
先程の水族館のイルカの例で言えば、行動範囲は制限されないが、自分で餌を調達し、天敵や怪我/病気から自分で身を守る必要がある野生は放任です。自分が食べる可能性も食べられる可能性も存在し、全てが自己責任になる。他人を蹴落とし合う人間関係みたいな、そんな修羅な世界で生きていくのは二度と嫌です。しかも、命の奪い合いなんて最悪です。人間も命を頂いて生きていますが、自分の手で定期的に命を奪い、自分も奪われる可能性がある中で生きていくのはキツイです。制限の無い状態が、常に正しく良いものであるとは限りません。
都合の悪い情報も受け入れる
この過激派の事案からも分かるように、自分にとって都合の悪い情報を無視し、自分に合わない対象の全てを否定的に捉えている者は、まず間違いなく論破されます。自分の主張を貫くのであれば、都合の悪い情報も踏まえて考え、相応の知識や根拠を持って議論する必要があります。
過激派は、やり取りの最中でも、過激派は根拠の無い主張を一方的にするだけでした。偏った見方・考え方しか持ち得ておらず、都合の悪い情報は排除してきたのでしょう。動物の権利とか言っている割に、動物園や水族館の役割といった基本的な情報すら知らなかったとすれば、これまで何をして生きてきたのでしょうか。
(私に論破されて、ぐうの音も言えない状況なのかもしれませんが。)
相手を見誤るな
今回の過激派は、恐らく和歌山のイルカ漁に対する批判の矛先が、水族館にも向いているのだと思われます。確かに、動物福祉の観点上、イルカ漁にも問題はあるようですし、イルカ漁で捕らえたイルカを水族館で飼育するのにも問題はあるかもしれません。しかし、その場合、直接的に是正するべきはイルカ漁であって、水族館にまで誹謗中傷するのは論点がズレていっていると言わざるを得ません。イルカ漁と水族館が関係しているにしても、悪いのがイルカ漁なのであれば、まずイルカ漁を是正するべきです。
(むしろ、最近の水族館は動物福祉に配慮し、色々と工夫を施しています。)
本当に非があるなら、罰を受けても自業自得かもしれませんし、その場合、非がある者は相応の罰を受けるべきです。しかし、関係性が低く、落ち度も無い者にまで飛び火し、理不尽に巻き込まれた場合、巻き込んだ者は、その報いを受けるべきです。イルカ漁と水族館の件は、イルカ漁の問題が水族館に飛び火しているように思えます。
この飛び火は、理不尽に被害に遭った者から、新たな憎悪が生まれる原因にもなるでしょう。だから争いが絶えないんだよ。
どう「多様性」を捉えるか
価値観の違いで争うことがある
多様性を認めることで、価値観の違いを受け入れることになります。
以前、以下のようなことを言いました。
ここで言いたいことは、まさにコレです。皆の価値観を同じにすることにはメリットもデメリットも存在するけど、そもそも価値観を統一するなんて不可能。ならば、ある程度は価値観の違いを受け入れていくしか無い。そういうことです。
それなのに、価値観を押し付け合うから争いになる。先程のイルカ漁の例も然り、宗教や信仰等の違いが原因で戦争になるのも然り。自分たちの価値観や権利を主張しすぎて戦争になることもあるでしょう。相手に価値観を押し付けられたら、自分も それ相応の対応を取るしか無い。こうして争いが発展していきます。争いを無くすうえでは、価値観の違いに上手いこと折り合いを付けていく必要があるかもしれません。
ある程度は制限しないとダメ
ただ、ある程度は制限すべき価値観もあります。
先程の「自由と放任」の話からも分かるように、ある程度は個人を制限する必要があります。多様な人が存在しても、「ダメなものはダメ」です。例えば、精神疾患のある人が犯罪を犯した場合、罪の償わせ方は変わるかもしれませんが、「精神疾患があるから」といって無罪放免になるのはマズいです。未成年が犯罪を犯した場合も同様です。
人を平気で傷つけ、他者・他の生命体の権利を理不尽に侵害する。それさえも「多様性」として認めてしまった場合、他の者が被害を被ってしまいます。その場合、時には多様性を否定する必要があると言えます。
しかし、「他に危害が及ばない範囲」を犯さないことに関して、些細な事でも「○○するべき」と制限すれば、それは多様性の過度の否定になり、当事者を苦しめることになります。その線引きが難しく、今後、議論していくことになるでしょう。
先述のイルカ漁の話は、過激派の行為によって、水族館関係者やファンに不快感を与えるので、範疇を超えていると考えています。イルカ漁の反対する過激派の背景には、宗教等の関係で、そのような価値観が形成されてしまっているのかもしれません。
価値観は歪む
人間は生きている中で、多様な環境において、様々な経験をします。その中で、環境や経験が影響し、価値観や善悪の基準が養われていきます。言い換えると、経験や環境を通して、自身の価値観は少なからず歪んでいると言えます。
そのため、自分の価値観が普通で、自分こそが正義で、自身が清廉潔白だと思っているうちは、まだまだ甘いです。それだと、自分にとっての「普通」や「正義」を一方的に押し付けるだけで、悪い意味で偏った人間になります。
まず、自分の価値観が歪んでいる可能性に気づきましょう。そして、自身の行動には責任を持ちましょう。何故なら、自分が「正しい」と思って取った、自身の行動も歪んでいる可能性があるから。自分の方が汚れている可能性さえある。行動するなら、そのことを肝に銘じておくべきです。自分の手を汚す覚悟も無い奴が、他人に手を出すな。
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