「黒」
毎月8日。山の麓にあるお寺に写経に出掛けるようになったのは昨年11月からです。最寄り駅からお寺まで、15分ほどの緩やかな坂道を歩きます。この坂、さほどの勾配ではないのですが吐いた息の残りが詰まったような苦しさを味わいながらの15分です。しかも翌日、必ずふくらはぎに坂道を歩いた余韻が残っているのです。これも仏様からの頂き物と有り難く頂戴しています。
山の湧水で手を洗いお堂に入ります。廊下にはしっかりと2月の冷たさが染み込んでいます。コートを脱いで仏様にご挨拶をします。塗香にて手を浄め、口に丁子をくわえたら手を合わせて心を鎮めます。席は空いている好きな場所に座ります。どの席にも、硯と墨そして筆と必要なものはすべて揃えてあります。ここから260文字を書き写し終わるまで仏の世界の住人に成り切ります。私にとって仏の世界は死の先にある場所と言うより生と死の間にあって、分離していた陰と陽を結ぶ場所です。人の持つ様々な悟りの道を菩薩によって、悟りの姿を如来によって示している。どちらも人型であることで、かけ離れた境地に親近感を含ませていると思います。
言葉の無い空間では、半紙の感触、墨の匂い、硯の冷たさ、筆先の走る音、自分の五感に敏感になります。動きが控えめになると感覚が大胆に働き出すのがわかります。言葉が感覚を抑えていたかのように、色はより鮮やかさを持ち、匂いは形を想像させます。ぼんやりとしている仏の世界の輪郭をそっとなぞるように般若心経を完成させるこの静寂の時は癖になりそうです。
260文字で埋め尽くされた半紙を眺めるのは、山頂からの景色にため息を漏らすのに似ています。どんなに絶景でもその場を早々に立ち去らなければいけないのも可笑しいほど似ています。奉納を済ますと記帳をして終了となります。この時にA5サイズの奉納写経受領之證を戴きます。墨で名前を入れてくださり、お寺の角印が押された證が2月で4枚目になります。證という形を借りて仏様は私たちと里の暮らしの時間を共有しています。あらゆる形を借りて仏様も里の暮らしを味わっているのですね。
墨絵から出るように、山門を過ぎると。桜並木らしい道が続いています。緩やかに下る坂道は気を抜くと子供のように走り出してしまうので、膝頭に力を入れて用心しながら歩きます。途中、鼻を空に向けて春の予感を楽しみながら、満開の桜のトンネルを想像しながら口ずさむ春が来た。春が来て、花が咲いて、鳥が鳴く。
春が来た、春が来た、どこに来た
山に来た、里に来た、野にも来た
花が咲く、花が咲く、どこに咲く
山に咲く、里に咲く、野にも咲く
鳥が鳴く、鳥が鳴く、どこで鳴く
山で鳴く、里で鳴く、野でも鳴く
もうすぐ、春ですよー。