メモを失くした男の思い出した些細な記憶について
昔、メモを失くした男が思い出していたのは、ほんとうに些細なことだった。スタンディングテーブルに軽くうつむき加減に佇む彼は、ホットコーヒーの香りが漂う店内でふと我に返った。あれほどメモの紛失を責められ職を追われたのだが、実際はメモは彼の手元に残っていた。誰も知らないことが当たり前のことのように。失くしたことになっていたのは、どうしようもない事情が火星の至る所に密かに口を開けていたことを、調査員だった彼が知ってしまったという事情によるものだった。そのことは誰にも打ち明けなかった。
メモには火星入植者の個人情報のほかに、古い戸籍と思われる情報が含まれていた。古いといっても十年や二十年というレベルではない。数万年いや数千万年以上前にまで遡る、古代火星人たちの「推定戸籍」と呼び習わされた資料だった。わずかな地図資料が添えられていたことが、人々にそう思い込ませるのに十分な役割を果たしていた。調査員の手に渡るまでの、その発掘と入手の経緯は今もってよく分かっていない。彼の一部のように調査員として働く当初から携帯していたし、そのことに誰も注意を払わなかった。この資料はそれほどかさ張らず、複雑な記号がシンプルに並ぶだけの、実用性のない過去の遺物だとみなされていた。古代火星文字の解読以前は誰もが匙を投げ、いつしか古い戸籍か何かだろうという説が広まっただけだ。その男が調査員でなければ、古代火星人の住まい情報を持ち歩くことはあり得なかった。
調査員の名をゾネンといった。メモを失くして職を追われ、それ以降もその輝く「太陽」の名を使い続けることに戸惑った。例の推定戸籍資料の秘密を知ってしまったことで、眩さに対する激しい葛藤が生じていた。ゾネンは明らかに落ち込んでいた。調査員の知的好奇心とはいえ、メモを完全解読してしまったことをとても悔いた。暗闇の奥深く、いっそボイドのど真ん中に放り出されたい衝動に駆られるくらいだった。
メモを失くしたことにしてから、すでに三年以上が過ぎようとしていた。その間に火星の都市はより深みを増していった。開拓当初の荒っぽい利権争いは嘘のように静まり返り、代わりに近代から一気に数百年の時間を移行したかのようなシンプルな都市開発が進んだ。あまりにもスムーズで平和的だったので、この変化を誰も訝しがることはなかった。
「推定戸籍」に記されていたことがそのまま進行しているのだ、とゾネンは朧げに知っていた。土地に関する記述が含まれていただけではなく、むしろ文書の本質は火星という土地と火星人の未来についての予言だった。
太陽風のエネルギーを用いた世界創造について書かれ、やがて争いは太陽風に吹き払われるだろうと記されていた。かつて太陽は古代火星人にとって忌み嫌われる星だった。ただでさえ薄い大気層を危機に晒し、何度もの災禍に見舞った最大の原因だったからだ。さらに予言は見覚えのある世界で締め括られていたことを、ゾネンは覚えていた。わずかな期間に出来上がったシンプルな未来世界は、ある日急速に過去に立ち返るだろう。その日「我らは蘇る」と。
メモを失くした当時は使命感に溢れていた彼も、今ではふとした拍子に昔の自分の姿を懐かしむ程度の無気力な男になっていた。古代火星人の予言は実際に起きるかもしれないと知っていても、明日の現実世界でのやりくりのほうが彼の重要課題だった。もう現在では調査員でもなく、ゾネンであることも思い出すことが稀だった。碌な仕事もなく、食べていくのも必死だった。失くしたことになっているメモのことは、彼にとって実に些細なことだった。
昼下がりのカフェのスタンディングテーブルは閑散として、ガラス越しに見える火星は目的を失った会議のように沈黙していた。メモを失くした男が思い出した些細なことは、再び深い記憶の淵へと落ちていった。起こるべきことはいつか自然の摂理のままに立ち現れるだろう。だから、彼も沈黙した。彼もまた火星人のためにささやかながら貢献していた。何人もの名も知られることのない者たちと同じように。