SS:春を待つ

「ねぇ、雪やこんこって歌、あるじゃない? あれって本当かしら?」

 妻の泰子が突然そんなことを話し始めた。

「うん?」
「犬は喜び庭駈けまわりって歌。うちのモモは、いつも寒くてブルブル震えてるじゃない。雪が積もってるところを走り回ったりするとはとても思えないわ」
「ああ、そうだね……」

 確かに我が家の飼い犬は、冬になると寒さでブルブル震えている。顔もなんだか情けない顔をして、見ていると哀れを誘ってくる。

「でもこの前、積もるとまではいかなかったけど、雪が降った日があっただろ? あの日の散歩はいつもどおりだったよ。雨みたいに地面が濡れてるから嫌がるかと思ったけど」
 体が濡れるのも嫌がるモモは、雨の日の散歩は全力で拒否。水溜りも必ず避けて通る。

「そうなの? 確か、初めて雪が積もった日は、足が濡れるからか冷たいからか知らないけど、何度も足の裏を舐めてたわ。少しは慣れたのかしら」
「さあ、どうだろうな。まぁ、でも、あの哀れな顔を見てると、可愛いと思うけど」
「可愛いわよ。うちのモモは」
 泰子はにっこりと笑う。モモは、結婚前から泰子が飼っている柴犬だ。他所の犬より自分が飼っている犬の方が特別可愛いと思うのは、どの飼い主も同じだろう。

「でも玄関から中には入れてやらない、と」
「そりゃそうよ。誰が抜け毛を掃除するの?」
「当然、飼い主の仕事だろ?」
「嫌よ。どれだけ掃除したって、終わらないんだから」
「玄関でもブルブル震えてるじゃないか」
「そりゃ玄関は暖房がないし、タイル敷きなんだから寒いと思うわよ。でも外よりマシでしょ?」
 家の中に入れてやるだけでも十分なのだろうとは自分でも思うが、少し腑に落ちない。

「他所の犬は、雪の中を走り回るのかしら?」
「どうだろうね。この辺りは雪が降ることはあっても、積もることは滅多にないからなぁ」
「雪国の人って、どうしてるのかしら? 雪の中でも散歩に行くのかしら」
「行くんじゃないの? モモみたいに散歩に行かないとトイレが出来ない犬もいるだろう」
「モモにそんなことできるかしら」
「さあ? 行かないとトイレ出来ないから、嫌がっても連れて行くしかないだろ?」
「あなた、適当な返事しかしないわね」
「仕方ないよ。雪国で生活したことなんてないし、わからないものはわからない」
 仮定の話には返事のしようがない。おふくろもそうだったが、どうして女は当ても無い話を好むのだろう。

「雪国の人が散歩している映像ってあんまり見たことがないわね」
「動物関連のテレビで、雪の中を走り回ってるのを見たことはあるな」
「ああ、そうね、それはあるかも……。じゃあ、やっぱり雪の中でも平気なのかしら」
「さあな……そういう映像をわざと撮ってるんじゃないのか、ああいうのは」
「じゃあ結局どっちなの?」

 わからん、と答えようとしたとき、外が急に明るく光り、ドーンという激しい音が轟いた。泰子が短い悲鳴を上げる。

「雷……? すごかった……近くに落ちたみたいね」
「珍しいな、冬に雷なんて……」

 カーテンを開ける。温度差で窓は曇っており、外が見えない。窓を開けると冷気がビュウッと襲いかかってくると共に、白いものが視界を横切った。雪が強い風でほとんど真横に降っている。

「おい、雪だ。雪が降ってる」
 泰子が立ち上がって隣にやって来た。
「あら本当だわ。吹雪いてるじゃない。積もりそうね」
「明日は早く家を出ないと。凍るぞ、これ」
「東京の方とか、他人事だと思って笑っていられないわね。明日は大騒ぎよ」
「そうだな……」

 窓を閉めて、鍵を掛け、カーテンを元の状態に戻す。先にソファへ座ろうとした泰子が「あら?」と声を上げる。

「モモ? モモが廊下を上がって来てるわ」

 振り返ると、リビングの引き戸に嵌め込まれた磨りガラス越しに、茶色いものが見えた。泰子が引き戸を開けると、モモがひょっこりと顔を出した。

「モモ、どうしたの? 向こうに行こうねー」
 夫に対するよりも明らかに優しい声音で泰子が話しかける。モモは尻尾を大きく左右に振って、どこか嬉しそうに後ろへ振り返り、爪でカチャカチャと音を立てながら廊下を戻っていく。僕と泰子はその後をついて行った。

 玄関まで来ると、モモは上がり框からタイル敷きの土間に降りた。土間にはモモ用にダンボールを敷き、その上に毛布を何枚も重ねて置いてある。モモは自分の所定の位置まで戻ると、そこでまた振り返って尻尾をブンブン振っている。

「雷で怖くなっちゃったのかな」
 尻尾を振っているのは、不安な時に飼い主が来てくれて嬉しいと思っているのか、おやつがもらえると思って期待しているのか……。
 急に冷えを感じて、ぶるっと身震いした。やはり玄関は冷えると思っていると、モモもブルブル震えていつもの情けない顔を見せている。

「寒いねー、モモ」
 泰子がモモの体に毛布を無理矢理巻きつけている。それでも寒いのか、まだ震えは止まらない。
「雪も降ってるし、冷えるよな、モモ」

 人間も犬も春の暖かさが待ち遠しい。


2013年1月30日 初出

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