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SS:リコール

 はあ、と今日何度目になるかわからない溜息をついた。
 疲れた。朝から新商品のクレームにリコール回収に、と追われて。
 完璧に設計、開発したはずだった。自信を持って客に勧められる商品だったのに。
 それが、まさかのリコール。何が起こっているのかわからないうちに事は進んでいた。ただ大きな波に流されるように走り回って。
 気が付いたらもう二十三時を回っている。社内には自分と同じように疲れ切った人間がわずかばかり残業している。
 まだやらなければならない事が山積みだった。開発担当は自分だ。今回は不良品の回収と返金対応だったが、不良部分の改良を図らなければこの製品はこのままお蔵入りだ。それだけはなんとしてでも避けたい。
 はあ、と再び大きな溜息。ひとまず、気分転換でもしよう、と席を立つ。
 ノロノロと廊下を歩き、階段をゆっくりと昇る。足が重い。半ば引きずるようにして、昇降口から屋上へ。フェンスに上半身を預け、抱え込むように腕を上から回して。
 ぼうっと辺りを眺めた。車のヘッドライトや建物から漏れる明かりが夜闇を照らしている。
 鈍い疲れが全身を包んでいて。ただただ、だるい。それだけ。脳もほとんど活動停止していて、時折ふわっと湧き上がってくる考えはその内容をつかむ前に消え失せてしまう。
 どれくらいそうしていたのか。
 おい、と後ろから声をかけられて。
 振り返ると佐々木が立っていた。缶コーヒーを差し出されて、黙って受け取った。
 プルタブを引き起こし、彼は咽喉を鳴らしてそれを飲んだ後、ふう、と深く息を吐いた。
「……疲れたな」
「……そうだな」
 もらうよ、と一言断って、俺も一口飲んだ。その一口がやけに旨くて、気が付いたらそのまま一息に全部飲んでしまっていた。……そういえば、リコールが決まってから忙しくてほとんど何も口に入れていなかった。
「……それで、どんな感じ?」
「どんな、と言われてもなぁ……」
 不良部分のことも含め、たいていのことは今日のうちに会社全体に知れ渡っているはずだ。そんなに大きな会社じゃない。だから、佐々木が知りたいのはそういうことではないんだろう。
 だがもう脳は思考停止している。佐々木が知りたがっていることが何なのか、推測する力さえ残っていない。
「……何か手伝えそうなことは?」
「何か、って言われてもな……」
 佐々木は営業だ。開発部じゃない。こういう時に開発部と営業部とでは、やるべき事が違う。
「手は足りてるか? 何人か回そうか」
「いや……」
 ありがたい申し出ではある。だが、営業だって手が足りていないはずだ。
 何と言えばいいのかわからない。気持ちは本当にありがたい。だが、そっちも大変だろう、という言葉はどうしても出なかった。泥のような疲れが思考回路だけでなく身体全体にまとわりついている。
「……とりあえず、何かあれば言ってこいよ。できる範囲で手を貸すから」
 ありがとう、とかろうじて口にする。あまりに小さい声になってしまったから、彼の耳まで届いたかどうか。
 佐々木とは数少ない同期だ。当時、就職氷河期と言われ、俺がかろうじて内定を取れたこの会社に、佐々木は大手からの内定を辞退して入社した。物好きもいるものだな、というのが当時の印象。本人にとっては大手より魅力があったのだろうが、今でも俺にはよくわからない。
 彼は胸ポケットから煙草を取り出す。赤い火が呼吸に合わせて時折大きくなる。
 静かだ。とても。
 疲れているからなのか、佐々木も何も言わずに黙っている。この男の、こういうところが俺には居心地がいい。
 お互いに気を遣わなくてすむ。無理に会話をする必要がない。これが上司や後輩ならそうはいかないだろう。
 今なら、彼がこの会社を選んだ理由を聞けるだろうか。
「……なあ」
「……何?」
「おまえ、何でこの会社、入ったの?」
 不思議そうな顔で見つめ返してくる佐々木。なんだか気恥ずかしくて顔を背けてしまう。
「他にいい会社の内定、取れてたんだろ?」
「……さあねえ。なんだったかな。忘れたよ」
 ふう、と彼は煙を吐き出した。はぐらかされた。そう思った。だが、さらに問い続けようという気も起きなかった。
 飲み干した缶コーヒーが惜しくなる。缶を親指と中指だけでつかみ、人差し指の爪で縁をコンコンと叩く。硬い金属の反発がなぜか心地良くて。
 しばらく弄んでいると、佐々木がふと思い出したように話しかけてきた。
「……なあ、入社してすぐに開発した、ヒヨコのやつ覚えてるか?」
「ん? ……あの、こども向けの?」
「そうそう。新卒ばっかでチーム組まされて、商品開発から営業まで全部やれって言われたやつ」
 ああ、と俺は頷いた。たいした売り上げにもならなかった商品だ。新人研修の一環として行われた企画。会社としてはそれほど良いモノができるとは考えていなかっただろうが、任された方としては、初めての大仕事でやたら力が入っていたのを覚えている。
「あれ、オレ、自分でも買ったんだ。今も部屋に置いてる」
「へえ。そうなんだ」
「……あの時、おまえ、良い顔してたよ。必死でさ、寝不足の顔して、ウンウン考えてさ。完成した時、すんげえうれしそうでさ。今思えば、売れるわけないよなって感じの商品だったけど、こんなに一生懸命作り上げたヤツがいるんだから、なんとかして売ってこなきゃって思ったんだよな」
 そして実際に契約を取ってきてメチャクチャ喜んでいた彼を、俺は昨日のことのように思い出せる。コイツがこんな風に喜ぶところをもっと見てみたい、もっと売れる商品を作りたい、と。
 今よりエネルギーに満ち満ちていた。なんだか遠い昔の、知らない誰かの話のようだ。だが、確かに自分が歩んできた道。
「……さて、と。オレはもう切り上げて帰るわ。明日もどうせ朝から忙しいんだし」
 おまえも適当に切り上げて帰れよ、と言って佐々木はコーヒーを飲み干し、吸い殻を空き缶の中に落とした。
 じゃあな、と手をヒラヒラ振って昇降口へとゆっくり歩き去る。おう、と短く応じた。
 後に残った物寂しさ。なぜだか、彼に置いていかれるような、そんな気がして。
 はあ、と大きく溜息をつく。大きく伸びをして、町並みを振り返る。同時に、かつての自分を。
 今よりは、もう少し希望に満ちていた。身体中がやる気で充満していた。もっと良い商品を、という気持ちに今も変わりはないつもりだったが、どこかで手を抜いてはいなかったか。
 よし、と自分に声を掛ける。もう一度、原点に戻って一から考え直してみよう。
 空き缶を片手に屋上を後にした。駆けおりるような軽いステップで階段を下りる。廊下の途中で、自動販売機の脇にあるゴミ箱に空き缶を捨てた。さっきまでの鈍い疲れも一緒に。
 ブラックコーヒーを新しく買って、商品の差出口から取り出し、軽く投げるようにして右手から左手に持ち替えて。その缶の熱さが、俺の心にも熱をもたらしてくれるような錯覚を感じながら。
 開発部のドアを勢いよく開けた。

#小説 #短編

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