SS:太陽
青空に向かって手を伸ばす。
太陽はとても眩しくて、遠い。
この手は、届かない。
あの人と同じ。
「……また、ここにいたのか」
不意をついて聞こえてきた、呆れたような優しい声。慌てて私は体を起こす。
「……なぁんだ。先生か」
「なぁんだ、じゃないよ。屋上は立入禁止。何回目だよ。ったく……」
先生はブツブツこぼしながら、面倒臭そうに右手で頭をかいた。その様子がなんだかおかしくて、つい、クスクスと笑ってしまう。
「いいじゃないですか。見つからなければ」
「ばーか。見つかったら、担任の俺も怒られるだろ」
私は再び寝そべって、目を閉じる。太陽の光はまぶたを通過して、私をどこまでも追いかけてくる。
先生は私の隣に腰を下ろした。タバコを取り出すカサカサとした音。
「……先生、校内は禁煙」
「大丈夫だろ。見つからなければ」
ダメじゃん、と言って、私はまたクスクス笑った。
カチ、カチ、と音がして。先生は深い息を吐き出した。タバコの煙が辺りに漂う。日向の匂いが遠ざかる。
「……ここ、そんなに気に入ってるのか」
「気持ち良いですよ」
「夏は暑いし、冬は寒いだろ」
「だから誰も来ないし、それが良いんじゃないですか」
光が差すところに影が出来るように。
誰にも知られたくないことが、誰にだってあるから。
ふーん、と先生は興味がなさそうに相槌を打つ。
「誰も来ない場所なら他にもあるだろ。中庭の奥のベンチとか」
「嫌ですよ」
間髪いれずに即答する。わずかな戸惑いも、ためらいも、許さない。
「なんで?」
「あそこは、先生のお気に入りでしょ?」
「そうだけど。譲ってやるよ。立入禁止の場所よりマシ」
どうだ? と、私の顔を覗き込む気配。強くなるタバコの香り。
目を開けて、先生の顔をじっと見つめる。
「……私は、ここが良いんです」
「やっぱダメか。せっかく、譲ってやんよって言ってんのになぁ……」
もう一つ、大きく煙を吐き出して、また頭をガシガシとかいた。
「とりあえず、今日のところは、さ。諦めてくれよ。俺、当直なの。鍵掛けて回らないといけないんだよ」
えー? と、不満の声を上げる。ほら、と先生は私に鍵を差し出してきた。チャリ、と金属の音。
「中庭の奥のベンチなら、時間を気にせずにいられるだろ」
「……」
「屋上まで階段上がるの、おっさんにはキツイんだよ」
あのベンチの居心地の良さなら知っている。
木々の間から差す木漏れ日は、優しくて。
吹き抜ける風は、歌うようで。
でも、そこにいる先生には、この手は届かない。
そう、太陽のように。
だったら、ここにいる方が良い。
これ以上近づいてしまったら。
私の影は、濃く、深くなって、光でさえも覆い隠してしまうだろう。
その輝きは小さく弱くなって、きっと二度と取り戻せない。
そんなことを考えている間に、待っている先生の顔がわずかに曇る。
そんな風に、困らせたいわけじゃないのに。
「……しょうがないなぁ……」
ん、と私は手を差し出した。
「……何?」
「起こしてください」
「ばーか。自分で起きな」
「……ケチ」
苦笑いを浮かべながら体を起こす。先生は一瞬、訝しむように眉根を寄せた後、携帯灰皿を取り出してタバコの火を消した。
立ち上がって服を払い、私のカバンを拾い上げた。大きな筋張った手。……優しい、手。指輪が光る。
「さあ、さあ、さあ、さあ。出た、出た」
立ち上がった私の背に、先生の手が触れた。思わず体がピクリと跳ねる。
それには気付かなかったのか、気付かなかったふりをしているのか。
先生はそのまま私を非常口まで押して行き、校舎に入ったところで手を離した。
そして振り返り、ドアノブに手を掛ける。
拒否するように軋んだ音を立てながら、ゆっくりとドアが閉まっていく。
その隙間からわずかに顔を覗かせている太陽。
手を伸ばしても、届かない。
バタン、と最後の悪あがきをしたドアに鍵を掛けた先生は、私を見て、不思議そうに顔を傾げた。
「……どうかしたか?」
「……いいえ、なんでもないです」
ふーん、と曖昧な返事をして、しばらく私を見つめた後に。
「……今日はもう帰りな」
先生はいつもと同じ、明るい朗らかな笑みを浮かべた。
それはまるで太陽のように、私の心を温める。
向日葵が太陽を追いかけるように、私はその温みを求めてしまう。
じゃあな、と手をヒラヒラと振って、先生は階段を降りていく。
遠ざかる足音。
沈んだ太陽が地平線近くの空を未練がましく濃い赤に染めるように、耳にかすかに残っていつまでも消えてくれない。
「……ずるいよ」
呟きは、誰にも知られずに、はかなく消えた。
2013年8月31日 初出