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《小説》暖かいシャッター


 私が最も好きな季節は春です。冬はどうも寒くて気分が上がらない。病室の窓から見える景色は色がなく、趣深さというものがありません。私の命は大好きな春を迎える前に朽ちてしまうのだと、毎日のように流れる愛娘の涙が語っていました。もうこの人生に悔いはないと思っていましたが、いざ最後だと思うといてもたってもいられなくなるものですね。心の中で看護師さんに謝りながら、病院を後にしてきました。
 冷や汗の滲んだ頬に触れる優しく吹く冬の風。久しぶりに全身で感じる外の空気に好奇心が湧き上がってきます。だんだんと荒くなる呼吸や自分の足で地面を踏みしめる感覚に、自分の中にある命を感じて、この小さな冒険は私がずっと求めていたものなんだと確信しました。
 目指しているのは少し離れたところにある商店街です。もうそろそろ入口が見えてくる頃でしょう。そこの端には両親やあの人、娘との思い出が沢山詰まった古本屋があります。どうしてもその姿を目に焼き付けたくなった私は大人気なく病院を抜け出したのです。私が生まれ育った商店街は年月を重ねるにつれて変化していきました。空き店舗が増え、すっかりシャッター街になってしまったあの場所が、昔のようににぎやかで笑顔にあふれたものではないことは分かっています。きっと私の目的地も変わり果ててしまっているのでしょう。それでもずっとそのにぎわいを追い求めている私は幻想を作り出してしまったようです。

 商店街の入口に立った時、私がちょうど3歳の時に運動靴を買ってもらった光景が見えました。これは初めて私が両親にわがままをいったときのことです。小さな私の肩を持って母親がおばあさんにお辞儀をするまえで、袋を抱えて幼い私は幸せいっぱいの表情を浮かべています。
「まぁ、もう靴を選ぶような年齢になったんだね。大事にするんだよ。」
桃色の運動靴を手に取った時、店員のおばあさんが浮かべた微笑みとかけてくれた言葉が今、確かに聞こえました。その思い出からでしょうか。あの人と一緒に選んだ娘の運動靴も桃色でした。

 反対側の真ん中にあるお店の前には、ちょうど中学に上がる頃の私が声を上げて泣いている姿が見えます。入学式を控えた私は、友達をびっくりさせようと美容院に行きました。わくわくして渡された鏡を見た時の衝撃は忘れられません。
「かっこいいじゃない、似合ってるわ。」
美容院のおばさんは満足げでしたが、注文よりも短く仕上がった髪に加え、眉毛まで切られてしまっていました。これでは誰とも合わせる顔がない。迎えに来た父が困り果てた顔をして、入学式は休むと言って泣き止まない私を連れて帰って行きました。今となっては笑い話ですが、同じ思いを娘にはさせたくないと、髪を切るときはわざわざ一緒に遠出をしていましたから、私にとってこの出来事は相当な心の傷でした。

 その少し先には並んで歩く私とあの人の姿がありました。高校生の頃初めて付き合った彼が、何故か私の地元に遊びに行きたいといいだしたものですから、初デートの行き先がこの商店街になったのです。私はそのことをすぐに後悔することになります。顔見知りのおじさんたちは私が相手を連れてきたことを大いに喜んで、邪魔ばかりしてきました。彼に出身はどこなのか、付き合ってどれくらいになるのか、さらには結婚するのか、などの質問を浴びせ、大量のお土産を持たせて満足げに自身の店に戻っていったのです。その彼は質問に笑顔で答え、感謝の言葉で一つ一つの土産を受け取ってくれていましたが、私はそれが申し訳なくてたまりませんでした。別れようと言われてもしょうがない、と覚悟まで決めたほどです。でも、この選択は間違いではなかった。
「いい人たちがここにはたくさんいるんだね。」
当時は私の両親が営み、私の実家であった端っこの古本屋にたどり着いた時、笑いながらそういったあの人と生涯を共にすることになったのですから。

 私の旦那は1年前になくなりました。私の入院生活が始まって今年で3年。あの狭苦しい病室でもたもたしているうちに先を越されてしまったときは本当に悲しかった。あの人との最後の思い出はあまりいいものではありません。
 近くに本屋のなかったこの地域では、商店街の一角にある私たちの古本屋に訪れる人がとても多かった。私のような老いぼれから小さな子供まで、たくさんの人が本を手に取って帰っていく様子を幼い頃から見ていました。大切な一冊を抱えて帰っていく姿を見ることが好きだった私はよく手伝いをしたものです。私があの人と店を引き継ぐことになってから私の提案で絵本を中心に置くようにしたことで、よく子供たちが集まる場所になりました。お手伝いをしてためたお金で本を買っていく子供たちや、読み聞かせを聞いて子供より感動していたご両親、私たちが営んだ店にはたくさんの家族の思い出が詰まっています。もちろん、私たち3人家族の思い出も。
 新しくできた大型ショッピングセンターの影響で経営状況が悪化したころ、私の病気が見つかり入院することになりました。それからしばらくはあの人が古本屋を営んでくれていたのですが、決断を迫られる時がくるのはそう遅くありませんでした。
「店を畳もうと思う。」
見舞いに来たあの人が低い声で切り出したとき、私はただ泣くことしかできませんでした。どうすることもできないことは分かっています。もし今畳まなかったとしても、継いでくれる人はいないのです。ただ最後の姿を今の状態では見届けられないことがとても辛かった。前に置かれた事実を涙でしか受け入れられなかった私は、あの人がかけてくれた言葉で救われることもできませんでした。これが私が戻りたいあの日、あの人との最後の思い出です。

 私の足は動き続けています。ちゃんと別れを告げたい一心が奇跡を起こしているのです。もうあまり足の感覚がありません。進み続けた先に待っているのは空っぽになったシャッターだと分かっているのに。
 その時です。私の耳に子供たちの笑い声が聞こえてきました。顔を上げた先は、私が目指していた古本屋でした。これは最後の日の姿でしょうか?私の目頭は熱くなりました。楽しそうに話しながらシャッターに付箋を貼っている大人たちの顔ぶれに見覚えがあります。きっとこの子たちは昔、ここに通ってくれていた子供たちです。ここにいる幼い子たちは、この子たちの家族なのでしょう。シャッターに落書きをしている子や、段ボールの本をあさっている子、恥ずかしそうにお母さんの後ろに引っ付いている子。ここでこんなにたくさんの人の姿が見られるとは思ってもいませんでした。この子たちが古本屋の最後を見届けにこの商店街へ戻ってきてくれたと思うと、店を続けてよかったと思いました。
 人の輪の中心であの人が私を呼んでいます。あの日は向けられなかった笑顔を浮かべて、あの人の元へ向かいました。手を握り合ったとき、もう一度あの人は私に言いました。
「愛されてるんだよ、店も、僕も、君も。」

 私にこの光景を呼び起こさせたのは、シャッターに所々残った絵と綺麗とは言えない付箋の張り付いていた跡、ご自由にどうぞと書かれた段ボールです。そのままにされた錆びれたパイプ椅子もきっとあの人がわざとそのままにしていったのでしょう。私が病院を抜け出してここに来てしまうこともお見通しだったのです。本当にあの人には勝てません。私はパイプ椅子に腰掛け目を閉じようとしたとき、段ボールに本が一冊残されているのに気が付きました。ぼろぼろになった本を開くと、何度も読んだ題名が現れました。忘れるはずもないあの人と私が言葉をかわすきっかけとなった本でした。数ページめくったところに挟まれた付箋には「おかえり」の一言。確かにあの人の筆跡で、私が一番欲しかった一言が書かれていたのです。
 来た道を振り返ると廃れて寂しくなったシャッター街ではなく、思い出で鮮やかになった商店街が見えます。宝物を胸に抱いて目を閉じた私は、世界で一番幸福でした。

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 春は母が1番好きな季節だった。道に落ちた花弁を拾って、汚いとよく怒られたことを思い出す。あの頃とは打って代わり、この商店街にもう開いているお店は一つもない。でも何故か笑い声が聞こえてくるような気がする。
 いつも私の頭を撫でる八百屋のおじさんや怪しげな骨董品店のおばあさん、たまにやってくるイケメンのトラックの運転手さん、綺麗な和菓子屋のお姉さん。閉じられたらシャッターを見て、思い出すたくさんの人がいる。
 古臭くて嫌だったはずなのに、この通りが本来の役割を終えてしまった姿を見ると、寂しい気持ちがしてしまうのは、両親が愛した場所だからだろうか。それとも、私にも気付かぬうちに愛着が湧いていたのだろうか。端っこの店はかつて、私が育った古本屋だった場所。病院を抜け出して最後に訪れたこの場所に母がいる気がして来てみたけれど、前に立ってもピンとこなかった。
 シャッターの前に花束を置いて手を合わせる。好きな花の一つも分からなくて、花屋の目の前にならんでいた安い花を選んだ娘を許してね。また会いに来るよ。どうか、そっちで幸せに過ごしてください。
 立ち上がって商店街を振り返った瞬間、強い風が吹いて、桜の花びらが通り抜けた。春の盛りはほんの少し、シャッターたちを彩っていた。

イラスト:改名したい(山田)

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