《朗読台本》生きている温もり
生きている温もり
洗剤の溶けた、生ぬるい湯のように、
はっきりとしない意識の中で、
手を延ばしても触れられない、何かを探す。
動く度に濁りが増していく世界で、
強く、その何かを求めている感覚は消えてくれない。
もういっそ沈んでしまえば楽なのに、
もがき続けるのは一体なんの為なのか。
夜中にあぁ、あぁ、と誰かを呼ぶあなたは、
何を思い出すことも許さない、
ぼんやりとした頭の中を漂っている。
幸せに溢れた結婚も、自分の子供が生まれた瞬間も、毎朝賑やかに囲んだ食卓も忘れて、
家族の名前も、自分の名前すらも、
もう言えなくなってしまった。
思い出のない世界を、孤独と戦いながら生きるのは、どんな気持ちなのだろう。
新月で、月明かりさえも差し込まない真っ暗闇。
四畳半の狭い部屋には、ベットに横たわったあなたと、端に座った私しかいない。
暖房が動いている音と言葉にならない声だけが響いている。
どうしたの、と声をかけても、焦点の合わない目で私を見つめるだけで、何の返答もしない。
暫くしてそばを離れると、また何かを呼び始める。
何回これを繰り返したのだろうか。
もう何日、私は寝静まった街の中1人、
起きている生活を続けているのだろうか。
朝、静かになった部屋を後にして、
覗き込んだ鏡に映る自分の顔に、驚かなくなった。消えなくなった濃いクマは、元々私のものだったのかもしれないという気さえする。
あぁ、あぁ。
立て付けの悪い窓の隙間から、冷たい風が吹き込んで、少しずつ私の体を冷やしていく。
あぁ、あぁ、あぁ。
だんだん声が大きくなる。
あなたは何を探しているのだろうか。
たよりない笑みを作って、いつも通り、どうしたの、とかすれた声をかける。
相変わらず噛み合わない視線。
少しの間、静寂が部屋を包み込んだ。
あぁ、あぁ、
そう言いながら天井に手を伸ばす。
暖かい毛布の中から露になった腕は、
手を引いて歩いてくれたあの頃とは似つかない。
私はその手を両手で握った。
あなたの温もりが、肌に伝っていく。
その温もりに誘われて、
私はあなたと同じ布団の中に入った。
狭いシングルベッドの上、
布越しでも分かる体温と小さく聞こえる鼓動の音。
確かに、生きている。
その安心感に目頭が熱くなるのを感じた。
あぁ、という名前にならない声は、いつの間にか止んでいて、変わりにすやすやと寝息が聞こえている。
今夜は2人で寝静まった街に溶けていく。私は温かさの中で目を閉じた。
後書き
「そばにいて」という気持ちをその言葉を使わずに表現する、というお題を朗読企画に参加させていただいた際にいただき、書き下ろした台本になります。セクシャルフリーで人によって解釈が分かれるように書いたのであまり多くは書かないようにします。
日々に疲れていると周りの大事なものに気がつけなくなる時がありますよね。自分を大事にできなければ、周りも大切にできない。でもその時自分を助けてくれるのは周りの人なんです。
何かを忘れることがあっても、それだけは心において生きていたいなと思います。
2023.03.28 音葉 心寧