記憶する
唐突だが、僕は長渕剛が好きだ。
好きすぎてファンというより信者だ。
これは妻にもよく言われる。
その長渕剛の最新アルバム「BLOOD」これが実に良い。
久しぶりに「アニキ節」が炸裂している。
当然、毎日のように車で聞いている。
ンが( ꒪⌓꒪)ンガッ
何一つ歌詞を覚えてない。
このフレーズいいなと思っても、それこそ流れて行ってしまう。
僕が長渕剛に出会ったのはCDの出始め。レコードと両方出す人もいた時代だ。
その頃はラジカセにCDを入れて、歌詞カードを食い入るように見つめて「聴いて」いた。
それがいまはスマホをBluetoothで車に繋いでサブスクぽんだ。
音楽を聞く密度が違う。
当然、学生時代に聴いていた歌はいまでもソラで歌える。
同時にあの時の感情がありありと想起される。
嬉しいこと悲しいこと、悔しかったこと。
音楽ではなくても例えば、友だちと一緒にがんばった試験勉強。
勉強の内容は覚えてなくても、その時の苦しさ、楽しさ、一緒に食べたマックのポテトの味は覚えているのではないだろうか。
そう考えると「記憶する」とは、物事を覚えるのではなく、「時間」を心に留めるということと言えるのではないだろうか
日々流れて行く時間を如何に記憶し、心に留めるか。
だから僕は話す。熱く強く。
だから僕は書く。あなたに届けと。
だから僕は生きる
明日に向かって